家庭礼拝 2014年4月16日ヨハネ20章19-31 イエスとトマス
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起
去年の4月から始まった、ヨハネ福音書の学びも今日の20章を終えると、最後の21章を残すだけとなりました。ちょうど一年かかったことになります。今日の聖書の箇所はちょっと変わった箇所です。それは、一度終わったと思われた文章が、またぶり返して、追加の文章が続いているようなところがあるのです。それが二度ほどもあるのです。
最初に終わりとなっていると思われる箇所はここです。イエス様が「私もあなた方を遣わすと言って、聖霊を受けなさい」、と言ったところで終わるのが自然なのです。この後は弟子たちの物語になるからです。ところが、その後にイエスとトマスの話が出てきます。そこでも、その後に本書の目的と言うことが書かれて、今度は本当にこれで終わりですよと言う風な締めが行われるのです。今日学ぶ聖書の箇所のところで終わるのが普通だと思うのです。ところがそれでもまだ終わりません。そのあと7人の弟子に現れた話や、ペトロに3度私を愛するかと言った話や、イエスの愛しておられた弟子の話などが続くのです。そしてやっと、「イエスのなさったことは、このほかにもまだたくさんある。」と言って、この福音書を終わらすことが出来たのです。なぜこんなことになってしまったのでしょうか。
それは、復活したイエス様に対する疑問が数多くあったからだと思います。私達でもなかなか信じられない出来事ですが、当時の人も、それは幻想だったのではないのか、幻ではないのか、霊がやって来ただけではないのか、本当に体が有ったのか、普通の人間と同じだったのかなど色々な疑問や非難があったのだと思います。それで、ヨハネによる福音書は、最初終わろうとしたところで終わることが出来ずに、復活したイエス様の具体的な姿を何度も書き足して、イエス様はこのような姿で現れ、触ることも、しっかり見ることも一緒に食事をすることも、普通の人間と全く同じようにされたのだと言うことを伝える必要があったのです。それで、いくつかの出来事をさらに付け加えて、それが本当であったことを知らせようと思ったのです。
それほど、この復活の話は信じがたい話で、思慮深いトマスでさえも、信じることが出来なかったのです。ですが、彼はイエス様に直接出会うことが出来て、信じることが出来ました。この復活の主に出会い、信じるものとなって、変えられていく、それがこの信仰を持つ者の大きなターニングポイントとなっていくのです。それだけ、この復活の主を信じることが出来るかどうかと言うことがクリスチャンにとって大切な事であり、このヨハネによる福音書でも大切な事なのです。
承
イエス様が、弟子たちに復活の姿を現したのは、安息日の終わった日曜日の夕方です。ユダヤの一日は夕方から始まって、夕方に終わりますから、もしかすると日が暮れていれば、次の日に入っているのかもしれません。そこの家には弟子たちがユダヤ人たちの迫害を恐れて、ひっそりと集まっていました。トマス以外の使徒たちは皆集まっていたのです。ですから、マグダラのマリアが墓が空になっていることをペトロに知らせに行ったとき、ヨハネ以外にもほかの弟子たちもそこにいたのです。ですが実際に墓に走って行ったのはペトロとヨハネだけだったのです。多分その場所は、最後の晩餐をしたあの二階の部屋だったのではないかと言われています。弟子たちは、次は自分たちが捕えられて、十字架につけられるのではないかと恐れて、隠れていたのです。家の戸にはしっかりと鍵をかけていました。
ところがそこに、イエス様がやって来て、皆の真ん中に立って、「あなた方に平和があるように」と言われたのです。イエス様が居られるところには、平和と平安があるのです。イエス様の居られるところに恐れはないのです。イエス様がいなくなったと思って、恐れに捉われていた弟子たちに、イエス様が現れて最初に言った言葉が「あなた方に平和があるように」と言うことなのです。私たちもイエス様が共に居られると信じるとき、恐れは消えて平和が訪れるのです。ですが平和や平安が与えられてよかったと思って終わるのがキリスト教ではないのです。自分だけが幸せになる事が最終目的ではないのです。
イエス様はすぐに次なる使命を弟子たちに与えたのです。それは、「父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす。」と言うことです。平安になった私たちには、イエス様に遣わされる使命が与えられるのです。家の中に隠れていることは許されないのです。それはどんなことをする使命でしょうか。それは、イエス様の代わりに次は私たちが世に遣わされて、「人々の罪を許す」と言う使命なのです。そんな力が私たちにあるのでしょうか。そして弟子達にもあったのでしょうか。イエス様はその力を与えるために、弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」と言ったのです。これは、神様がアダムを土で人を形作った時に、その鼻に命の息を吹き入れられて、生きるものとされたことを象徴しています。私たちは、聖霊を受け取るときに本当に生きるものとなり、その使命をも果たすことが出来るものとなるのです。ですから聖霊を受け取っていないものは、まだ死んでいると同じなのです。イエス様は弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなた方が許せば、その罪は許される。誰の罪でも、あなた方が許さなければ赦されないまま残る。」と言われたのです。ヨハネ福音書はここで第一回目が終わるのです。イエス様が復活し、平安を与え、聖霊を与えて、使命を与えた、と言うところで終わるのです。
このヨハネによる福音書では、聖霊はイエス様が復活してすぐに与えられるのですが、共観福音書ではまだ与えられておらず、使徒言行録では、ペンテコステまで待たなければなりません。ペンテコステの時はより劇的に聖霊降臨起こったのかもしれません。不思議なことに共観福音書にはこの聖霊が与えられる話は出ていないのです。ヨハネだけにしか出てこないのです。一方共通して出てくるのはイエス様の復活と宣教派遣の命令です。これはすべての福音書に出てくることなのです。いずれにしても、恐れで家の中に引きこもっていた弟子たちが、勇気を与えられて、世界に宣教し始めたと言うのはイエス様の復活抜きには考えられないことです。イエス様と出会ったと言うことがすでに聖霊を与えられたと同じことのようにも思います。ヨハネはそのことをより霊的に捉えたのかもしれません。
転
さて一度終わったと思われた、ヨハネ福音書がまた始まった感じのするイエス様とトマスの出会いの話が出てきます。このトマスは、弟子たちのところに復活のイエス様が現れた時には一緒にいませんでした。トマスは、死ぬことを恐れるような人ではありませんでした。トマスはイエス様が死ぬことを予感していました。ですから、ヨハネ11章7節でイエス様が、ラザロが死んだと言われ、「もう一度ユダヤに行こう」と言われた時に、トマスは、勇敢にも「私たちも行って、一緒に死のうではないか」と言ったのです。トマスは勇気のある人だったのです。ですが、イエス様が死ぬときには何もできなかったことを悔いていたのかもしれません。ほかの弟子達とは別になり一人でいたかったのかもしれないのです。
ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言いましたが、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言ったのです。トマスは、簡単に人の話に乗せられる人ではないのです。実際に確実な事しか信じない人でした。ですが一度信じればとことん信じる人なのです。
それから8日の後と書いてありますが、ユダヤの数え方からするとちょうど一週間後になります。やはり日曜日です。同じように弟子たちはその家に集まっていました。この時はトマスもいました。戸には同じように皆、鍵がかけてありました。それにもかかわらず、イエス様が現れて来て真ん中に立ち、前と同じように「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。そして、トマスに言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言ったのです。
どうしてこのトマスの話が追加されたのでしょうか。それはトマスと同じように考えている人々が数多くいたからだと思います。トマスと同じように、この目で見て、この手で触ってみない限りは信じられないと思っている人々がいたのです。その代表格としてトマスを登場させて、この話が本当であったことを知らせたかったのです。そして、「信じない者ではなく、信じるものになりなさい。」と言うイエス様の言葉を伝えたのです。
トマスは、その復活のイエス様を目撃して、もう本当に信じる者になったのです。言葉にならない言葉を発して、「わたしの主、わたしの神よ」と言ったのです。イエス様の事を神様と言っているのは意外なことに新約聖書ではほとんどないのです。この奇跡的な言葉をトマスは信仰告白としてここで言っているのです。イエス様は信じるようになったトマスに言いました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」この言葉は、その当時、実際に見なければ信じられないと言っていたすべての人々に語られているのです。それは今の私たちにとっても同じなのです。見ないのに信じる人は、幸いである、と言うイエス様の言葉は、私たちに語り掛けられた真実なのです。
このようにして、このヨハネによる福音書は閉じられました。そして、最後にこう書き添えられました。30節と31節です。
ヨハ 20:30 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。
ヨハ 20:31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
これら以外にもイエス様はいろいろなしるしをなさいましたが、それらはとてもここには書ききれないことを語っています。そして、この書物が書かれた目的を最後に明確に語っているのです。それは、「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」と言うことです。すなわち、キリストを信じて命を受けることがこの福音書の目的なのです。このように目的をはっきり述べているのはヨハネ福音書だけです。
結
ヨハネ福音書には、まだ21章が残っています。この章も、それでもまだイエス様の復活を信じることが出来ず、他にどんなしるしがあるのだと求める人々に、その躓きを取り除くために語られた証しであると考えられます。
今日の聖書の箇所は、最後の言葉として、イエス・キリストの復活を信じなさい。見ないで信じるものになりなさい。そうすればイエスの名によって命を受けるだろう。本当に生きるものとなるだろう、と言うことを言っているのです。復活を信じることはトマスのようなものでさえ難しいのですから、私たちにも簡単な事とは思われません。ですがそれを可能にしてくださるのは聖霊の導きです。イエス様は私たちに聖霊を送ってくださっているのです。それを受け取らなければ、私たちは本当に生きることが出来ず、知ることもできないのです。私たちがキリスト教を知るのは頭で知るのではありません。霊的に知るのです。その霊が私たちにも与えられることを心から願っていきたいと思います。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、ヨハネによる福音書の学びが終わろうとしています。この一年間の学びをここまで導いてくださいましたことに感謝いたします。私たちがイエス様の事を知るにはイエス様が復活されて、今なお生きておられることを信じることが求められています。それほど大切な事です。どうかイエス様の与えてくださいます聖霊によって、心が開かれて、見ないでも信じるものとなる事が出来ますように。そして、本当に生きるものとさせてくださいますようにお祈りいたします。今週はイースターの恵みも与えられましたが、あなたの復活の恵みに感謝し、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:ヨハネによる福音書)>>
◆イエス、弟子たちに現れる
ヨハ 20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
ヨハ 20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
ヨハ 20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
ヨハ 20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
ヨハ 20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
◆イエスとトマス
ヨハ 20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
ヨハ 20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
ヨハ 20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
ヨハ 20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
ヨハ 20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
ヨハ 20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
◆本書の目的
ヨハ 20:30 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。
ヨハ 20:31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。