家庭礼拝 2014年4月9日ヨハネ20章1-18 復活する
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起
今日はイエス様の復活の話ですが、あと2週間で偶然にもイースター復活祭の日4月20日を迎えます。来週13日の日曜日からは受難週となります。今は何かというとレントすなわち受難節の時です。今年の受難節は3月5日から4月の19日までですので、ちょうどその時を私達もまた、イエス様の受難を学んでいたのです。受難節の始まる3月5日にどこを学んでいたかと言うと、イエス様が逮捕されて尋問されている場面です。ですからちょうど受難節に重なっていたのです。
復活したのはイエス様だけではありません。聖書には復活した人々の色々な話が出ています。イエス様はもちろん死人を蘇らせていますが、旧約聖書時代の預言者も、イエス様の弟子の使徒たちも死人を蘇らせています。イエス様が死人を蘇らせたことは、メシアとしてのしるしとして、預言されていたことなので、さらに大切な事となります。ですが、これらの死人から蘇った人たちがその後元気に過ごしたのかどうかは分かりません。どれも、ほとんど何も書いていないことが不気味な感じさえ与えています。有名なラザロの復活にしろ、「タリタ、クム」と言われて蘇らせた、会堂長の娘にしろ、その後の事は何もわからないのです。
ですが、イエス様の復活は別です。イエス様は、とても健全な人間として、弟子たちの前に現れているのです。そして共に食事をし、互いに触れ合ったりもしているのです。このようにして復活し現れたイエス様は、その十字架での死の意味を一変させてしまいました。十字架での死は、敗北ではなく、勝利であり、人々の希望となったのです。
承
さて、聖書に戻りますと、ヨハネによる福音書の復活の記述は、他の共観福音書とはだいぶ違うのです。むしろほとんど違うと言ってもいいのかもしれません。共観福音書が多少の違いはあっても大体似ているのに比べ、一番後に書かれたヨハネによる福音書がこれだけ違うことを細部にわたって書き記していることに、ヨハネのこだわりを感じます。ヨハネが真実をきちんと書き残しておきたいと言う、強い思いさえ感じるのです。共観福音書の記述はむしろ伝承的な記述であり、ヨハネによる福音書の記述は目撃者の証言と言っていいのかもしれません。まず最初に、墓に駆けつけたのはマグダラのマリアでした。1節です。
ヨハ 20:1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
マグダラのマリアは、イエス様に7つの霊を追い出して清めてもらった、イエス様に愛された女の人でした。イエス様が十字架で死ぬときにもずっと立ち会っていました。そのマリアが、安息日の明けた週の初めの日の朝早く、それもまだ暗いうちに一人で墓に行ったのです。墓には大きな石のふたがあるので、一人で行ってもどうしようもないのですが、少しでも早く、イエス様のそばにいたかったのかもしれません。ですがその墓に近づくと墓から石が取りのけてあったのです。共観福音書ではどうなっているかと言うと、マグダラのマリアだけではなく、ヤコブの母マリアやサロメも一緒だったと書かれています。ですが、石がすでに脇に転がっていたことだけは同じなのです。マタイによる福音書では大きな地震が起こって、石が脇へ転がったと書かれています。
いずれにしても、婦人たちは墓にはもうイエス様はおらず、空っぽになっていたことに気が付いたのです。ここから共観福音書とヨハネ福音書では大きく違ってきます。共観福音書の話では、そこに天使が現れて、イエス様の復活を伝え、そのことを弟子たちに伝えなさいと言うのが基本的な流れです。ところが、ヨハネによる福音書ではその時の驚きと恐怖は真に迫っています。マグダラのマリアは驚いて、走ってペトロの所に知らせに行きます。2節です。
ヨハ 20:2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
ここでヨハネの記述に疑問が起こります。墓に行ったのはマグダラのマリアひとりであったのですが、この報告では、私たちにはわかりません、と複数になっているのです。もしかすると、最初は一人だったが途中で何人かで行ったのかもしれません。彼女たちが墓を見た時の最初の思いは、主の遺体が墓から取り去られた、と言うことです。そしてさらに思ったであろうことは、その遺体にさらに屈辱的な辱めを与えられるかもしれないと言う恐れだったのだと思います。彼女たちにとって、それはとても恐ろしいことが起こったのです。
ペトロとヨハネはその話を聞いて、すぐに墓に走って向かいました。この場面は実はヨハネによる福音書にしか書かれていないのです。多分その場面に実際に立ち会っていたのだと思います。ペトロとヨハネは走って墓に向かいましたが、ヨハネのほうが若いので先に墓に着きました。そして、婦人たちが言っていたように、石が取りのけられてあったので、かがんで中を覗き込みました。するとそこには亜麻布が置いてあるばかりで、イエス様の遺体はなかったのです。ヨハネは、中に入らずに、一体これは何なのだろうと考えていたのです。不思議に思ったのです。そこへペトロもやってきました。6節から10節です。
ヨハ 20:6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
ヨハ 20:7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。
ヨハ 20:8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。
ヨハ 20:9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
ヨハ 20:10 それから、この弟子たちは家に帰って行った。
ペトロは、後からやってきましたが、何も考えずに、いきなり墓の中に入りました。そして亜麻布だけが置いてあるのを見たのです。ヨハネが不思議に思っていたのは、もし遺体が盗まれたのなら、亜麻布がこのような形で置かれるはずはないと言うことなのです。体を包んでいた亜麻布と、頭を包んでいた蔽いは離れたところにおいてあり、その覆いは丸めて畳んであったのです。まるで、死人が生き返って、その亜麻布を取り去り片づけて出て行ったように思ったからなのです。ですが、ヨハネにはそのことが本当だとは、まだ信じられなかったのです。ペトロも信じることが出来ませんでした。イエス様が3日目に復活すると言ったその事をまだ信じられなかったけれども、ヨハネはきっとそのことを考えていたのだと思います。もしかすると、自分からは言っていませんが、最初に復活を信じたのはイエス様に愛された、ヨハネかもしれません。そして二人は家に戻って行ったのです。
転
ペトロとヨハネが墓に向かうのを見て、またマグダラのマリアは墓に行ったのでしょう。ですが、マリアが墓に着いた時には二人は帰ってしまい誰もいませんでした。マリアは茫然として、墓の前で立って泣き崩れていたのです。そして、墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えたのです。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていました。イエスのいない墓の中に天使が現れてイエス様が復活したことを告げる話は、すべての福音書に書かれています。ただそれが一人であったり二人であったり、石を転がしたりと言う違いはありますが、この天使は何を表しているでしょうか。それは聖霊なのです。この空の墓を見た人々は、イエス様が、ガリラヤで、「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている。」と言った言葉を思い出したのです。それを思い起こさせたのが聖霊であり天使なのです。私たちに対しても、このようにイエス様の大切な言葉を思い起こさせ、イエス様の御言葉に従うように導いてくださるのはこの聖霊であり天使なのです。共観福音書では、その天使がイエス様の復活を告げました。ですがヨハネによる福音書では天使達は「婦人よ、なぜ泣いているのか」と尋ねただけなのです。するとマリアは「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」と訴えたのです。するとまた声がしたのです。「婦人よ、なぜ泣いているのか。」マリアは驚いて後ろを振り返りました。するとそこに人が立っていました。マリアはそれが墓の園丁だと思ったのです。その人は「誰を探しているのか」と尋ねました。マリアは、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」と言いました。マリアはその人が園丁だとばかり思っていたのです。この時マリアはまた泣き崩れて下を向いていたのだと思います。その人が今度は、「マリア」とその婦人の名を呼んだのです。この優しい声には聞き覚えがありました。マリアは振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言いました。これは、「先生」という意味です。そして喜びのあまりすがりつこうとしたのです。マリアはやっとその人がイエス様だと気が付いたのです。多分姿かたちは違っていたので気が付かなかったのだけれども、マリアにはそれがイエス様であると確信できたのです。するとイエス様は言われました。17節と18節です。
ヨハ 20:17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
ヨハ 20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
マリアが喜びのあまりすがりつこうとしたのを見て、イエス様は「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」と言いました。ですが、ルカによる福音書では、イエス様は弟子たちの前に現れ、弟子たちが恐れているのを見て、「私の手や足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい。と言って手と足とをお見せになったのです。またヨハネによる福音書では、復活を信じられなかったトマスに対して、「あなたの指をここにあてて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じるものになりなさい。」と言っています。イエス様がマリアにすがりつくのはよしなさいと言ったのは、触ってはいけないと言うこととは違うのだと思います。それは文字通りすがりつき、自分のものにしようとするマリアの姿勢に対していったのだと思います。イエス様は、誰かのイエス様ではなくて、信じる者すべてに対するイエス様なのです。だからイエス様は、マリアに、私にすがりつくのではなく、イエス様が復活したことを弟子たちに知らせるように、そして、『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』とおっしゃられたことを伝えるようにと、その勤めを述べられたのです。そしてマリアは言われたように、そのイエス様の務めを果たして、弟子たちのもとに行き、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えたのです。
結
イエス様を愛し、イエス様に愛されて、イエス様の死の間際までそばにいたヨハネは、空になった墓穴を見た時、イエス様の復活を信じる最初の人になったのだと思います。それは見ないで信じる信仰でした。同じようにイエス様を愛しイエス様に愛されて、イエス様の死の間際までそばにいたマグダラのマリアは、復活のイエス様に出会った最初の人となりました。ですが、死んだ人が蘇るなんて言うことは普通は信じられないのです。自分で信じようと思っても、本当には信じられないのです。それは、聖霊の助けなしには信じることが出来ないのです。聖霊はイエス様が語ったことが真実であることを思い起こさせてくださるのです。聖霊は、今隣にいる人がイエス様かもしれないことを教えてくれるのです。聖霊は、イエス様が、今どうしてほしいと思っているかを教えてくれるのです。その聖霊の導きを受けるとき、それは生き生きとした体験となり、復活のイエス様に出会うことが出来るようになるのです。その復活は真実となるのです。
(一分間黙想)(お祈り)
神様、イエス様は復活されました。それを知るのは私たちが学んだからでも努力したからでもなく、イエス様が私たちに聖霊を送ってくださり、イエス様の御言葉を信じるものにして下さったからです。イエス様が私たちの前に現れて下さったからです。イエス様の御言葉も、聖霊の導きがあるときに、それが真実であることが思い起こされます。あなたは私たちに聖霊を通して、その御言葉を与えてくださいます。神様、私たちは自分の力では信じることはできませんが、聖霊の導きに委ねて、信じるものへと変えられますように。復活の主イエス様に出会うことが出来ますように。その準備が出来た時に、あなたはきっと私たちの目の前に現れて下さり、私たちの魂を救ってくださることを信じます。どうか信仰によって歩み通すことが出来ますように。
この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:ヨハネによる福音書)>>
◆復活する
ヨハ 20:1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
ヨハ 20:2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
ヨハ 20:3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。
ヨハ 20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。
ヨハ 20:5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。
ヨハ 20:6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
ヨハ 20:7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。
ヨハ 20:8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。
ヨハ 20:9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
ヨハ 20:10 それから、この弟子たちは家に帰って行った。
◆イエス、マグダラのマリアに現れる
ヨハ 20:11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、
ヨハ 20:12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。
ヨハ 20:13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
ヨハ 20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
ヨハ 20:15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
ヨハ 20:16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
ヨハ 20:17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
ヨハ 20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。