家庭礼拝 2014年3月26日ヨハネ19章16-30 十字架につけられる

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人生の中の最大の問題は、「人はどのように生きるのかそしてどのように死ぬのか」、と言うことではないでしょうか。生きているときはどちらかと言えばどのように生きるのかに99%を費やしているのではないでしょうか。どのように死ぬのかなんてわからないのだからその時に考えればいいやと思っていることが多いのではないでしょうか。死ぬ間際になって、その人がどのように生きてきたのかがその人の上に現れるのかもしれません。

イエス様がいよいよ十字架の上で死なれる時が来ました。これはイエス様が覚悟していたことであり、神様の計画として受け入れてきたことでした。その人が、死ぬときにどのように死んでいったのかと言うことは、私たちにとっても大切な事です。私達もまた、イエス様に倣って生きていき、そして死んでいくものだからです。

私はどのような生き方をしたとしても、このように死んでいきたいというものがあったなら、それはそれで、立派な生き方をしたと言うことかもしれません。一番多いのは絶望の内に死んでいくことではないかと思います。私の父も77歳で胃がんと心臓病と糖尿病を併発して死んでしまいましたが、死期が近くなった時、「おれもこれで死んでしまうのか、悔しい。」と言って涙を流したことを母から聞いてショックを受けたことを覚えています。77歳と言えば男としては人生を十分生きたような気もするのですが、それでもまだ人生の未練を捨てきれずに悔しいと思ってしまうものかと、驚いてしまったことがありました。ですから、自分ならばどうなのだろうと思ってしまいます。信仰があるから大丈夫だなどとは思いません。いくらクリスチャンでも死期が迫ると、いろいろな妄想に駆られて、パニックになってしまったクリスチャンがたくさんいるからです。また一方で、死が近づいたことを喜び、かえって元気になってしまう人さえいるのです。イエス様が死に臨んでどのように、行ったのかを聖書の学びを通して心静かに見つめていきたいと思います。

イエス様はいよいよ処刑場に引き出されます。そこの場所は、「されこうべの場所」ヘブライ語ではゴルゴタと言うところに向かわれたのです。この地名は聖書に書かれているので良く知っているのですが、もう一つよく知られた地名があります。それはカルバリです。ゴルゴタはラテン語で言うとカルバリなのですが、カトリックの聖歌399番にカルバリ山の十字架と言うのがありますし、私たちも歌ったことのある曲なので讃美歌21にもあると思ったのですが有りませんでした。一番の歌詞は次のようになっています。

@カルバリ山の十字架に付きて  イェスは尊き血潮を流し

  救いの道を開き給えり  カルバリの十字架  我が為なり

   (くり返し) ああ十字架  ああ十字架 カルバリの十字架  我が為なり

礼拝でも、よく歌われた曲なので思い出したかもしれません。

さて、処刑場に連れていかれる死刑囚はその十字架を自分で担いでいかなければなりませんでした。そして、処刑人は4人ついており、前後左右に一人ずつついているのです。そしてその処刑人の特権として、死刑囚の衣服を分かち合うことが出来るのです。

イエス様と一緒に二人の死刑囚もまた、十字架につけられました。イエス様はその真ん中におかれたのです。ピラトはイエス様の罪状書きを書いたのですが、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いたのです。これは罪状書きにはなっていないのです。何の罪かがわからないのです。むしろこれはイエス様の身分を現していたのです。ピラトは気が付かずにイエス様の本当の身分を書き表していたのです。ピラトは最後まで、イエス様の罪を認めていなかったのです。これはピラトのユダヤ人に対する最後の抵抗だったのです。罪の無いものを死に追いやる負い目の最後の抵抗でした。ですがユダヤ人たちは、これを本当の罪状書きに直してくれと言いました。「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言ったのです。もっと詳しく罪状を書けば「この男はユダヤ人の王と自称し、ローマに謀反を働いた」と言いたかったのです。しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えて抵抗したのです。肝心なところでは抵抗できずにユダヤ人に折れてしまったピラトは、いわばどうでもいいようなところで頑張ったのです。それが総督としての意地だったのかもしれません。その罪状書きはヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていたので、多くの人々がイエス様の事をユダヤ人の王と書かれているのを知ったのです。

 イエス様は、ローマ兵の処刑人によって十字架につけられました。十字架につけるときは衣服がはぎ取られました。そして、両手を広げて十字架にくぎで打たれ、両足も重ねて釘で打たれて吊るされたのです。この処刑はすぐには死ぬことはありませんでしたから、長くその苦しみにさらされたのでした。兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにしました。下着も取ってみましたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであったと書かれています。このことは、実は深い意味のあることなのです。縫い目がなく、上から下まで一枚織の服と言うのは実は祭司の着る服なのです。これはイエス様が、罪人を救う祭司であると言うことを象徴しているのです。24節では、『そこで、兵士たちは「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合いました。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである』と、聖書に書かれています。すなわちこのことは旧約聖書に預言されていたことの実現なのです。イエス様は、祭司として、預言された通りに、十字架での死を迎えられたと言うことなのです。

 この時、イエス様の弟子たちは皆逃げてしまいましたが、4人の婦人と一人の弟子が、イエス様のそばにいました。この場に立っていると言うのはとても危険なことで、たとえ女性や子供であっても勇気のいることでした。ですがこの人たちはその恐れよりも、イエス様と共に居たかったのです。4人の婦人とは、「その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリア」であると書いてあります。その母とはイエス様の母マリア様です。母の姉妹とはヤコブとヨハネの母サロメです。マタイ福音書の27章56節を参照すると「その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた」となっています。そのゼベダイの子らの母と言うのがヤコブとヨハネの母サロメであり、マタイ20章21節で、「王座におつきになる時、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」と頼んでイエス様に叱られた婦人です。母親同士は姉妹ですから、ヤコブとヨハネはイエス様のいとこになるのです。すると、クロパの妻マリアとはヤコブとヨセフの母マリアと言うことになります。マグダラのマリアはイエス様から7つの霊を追い出していただいた人です。

 ここでイエス様は、今死のうとしている苦しみの中で、心を打たれる言葉を言いました。26節と27節です

ヨハ 19:26 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。

ヨハ 19:27 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

 この愛する弟子と言うのはヨハネの事です。そのヨハネを見て、母マリアに「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われました。そしてヨハネには「見なさい。あなたの母です。」と言って、自分が死んだ後はヨハネにイエス様の代わりにマリアの子として面倒を見てくれるようお願いしたのです。イエス様には多くの兄弟がいたはずですが、その兄弟たちには頼めなかったのでしょうか。確かに、兄弟たちはイエス様を気が狂ったのかもしれないと思って引き戻しに来たこともあったのです。ですが、カトリックではイエス様に兄弟はいなかったとしているのです。ヘブライ語では兄弟もいとこも同じ言葉になっているので、兄弟と言っているのはいとこの事で、マリアの子供はイエス様だけだと言うのです。それならばこのヨハネにマリアの世話を託するのは自然な気もします。この時からヨハネはイエス様の母を自分の家に引き取ったのです。ここにはヨハネの母、サロメもいたのです。二人はもともと姉妹ですから、一緒に住むのも自然だったのかもしれません。イエス様は、死ぬ瞬間まで、他の人の事を考えていました。自分の事に捉われることはなかったのです。みんなの救いのみを考えていたのです。

 イエス様はすべてが成し遂げられたことを知りました。そして「私は渇く」と言ったのです。ヨハネはこれを聖書の予言が成就したと言っています。それはどの言葉でしょうか。それはイエス様が、最後に言った言葉で、「わが神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と言った言葉のある、詩編22編なのです。そこの16節には「口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上あごに張り付く。あなたは私を塵と死の中に打ち捨てられる。」と書いてある予言なのです。このイエス様の私は渇く、と言う言葉を聞いた人々は、イエス様に、酸っぱいぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出したのです。ヒソプと言うのは小さな草なので、とてもイエス様の口までは届かないだろうと言うことで、本当は槍で口まで届けたのだろうと言われています。ですがこのヒソプと言うのには意味があるのです。あの出エジプトの時の過ぎ越しの時に鴨居に血を塗ったのは実はこのヒソプの幹でなのです。すなわち、このヒソプは清めを象徴しているのです。イエス様は、この清めのぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた、と書いてあります。共観福音書ではイエス様は、このぶどう酒を飲んでいません。そして大声を出して息を引き取られたと書かれているのです。ヨハネ福音書では「成し遂げられた」と言って死んでいます。いずれにしてもイエス様は、為すべきことを全てやり遂げて死んだのです。それは、人々の罪の救いが成就したと言うことです。イエス様の生涯はそのためのものでした。その目的が、この十字架の上で達成されたのです。ですから、イエス様は死において何の恨み事も言わないどころか、人々の罪を許してくださいと神様にお願いしているのです。もし私にも最後の時が来たならば、イエス様のようにできなくても、「残されたものをお願いしますと」神様にお願いして、この世を旅立つことが出来たら素晴らしいと思っています。

 イエス様は十字架を背負い、十字架の上で死なれました。ですが不思議に、そこにはイエス様の辛い、苦しい、逃れたい、終わらせたい、と言った思いは伝わってきません。ただ黙々とその時を味わいながら、最後のあゆみをしているような気がします。そしてその中でも、罪人を許したり、母をヨハネに委ねたり、神様を賛美したり、生きているときにできることを成し遂げていると言う感じがします。そしていよいよその命の消えかかる時、「成し遂げられた」と言ってこの世を去りました。イエス様は為すべきことをして、神様の国へ帰られたのです。私たちも為すべきことをしていつか神様の国へ帰るものです。その時は全き信頼のもとで、イエス様の道をたどりたいと思うのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

 天の父なる神様。イエス様はこの地上においてなすべきことを成し遂げて、天の御国に帰られました。イエス様の救いは成就しました。私たちはこの事を感謝と賛美をもって、ほめたたえます。イエス様は私たちのためにも死なれました。ですから私達もまた、イエス様の救いの道を最後まで信頼して従っていくことが出来ます。イエス様は先に行って、待っててくださるのです。多くの人々がなくなりました。親や親戚の人も友達もなくなりました。ですが、あなたの救いのもとにあって、神の国で皆一つであることを思います。主よどうか、あなたの道を歩ませてください。大きな一つの世界に歩ませてください。

この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン

 


<<聖書の箇所(新約聖書:ヨハネによる福音書)>>

◆十字架につけられる

こうして、彼らはイエスを引き取った。

ヨハ 19:17 イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。

ヨハ 19:18 そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。

ヨハ 19:19 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。

ヨハ 19:20 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。

ヨハ 19:21 ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。

ヨハ 19:22 しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。

ヨハ 19:23 兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。

ヨハ 19:24 そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。

ヨハ 19:25 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。

ヨハ 19:26 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。

ヨハ 19:27 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

◆イエスの死

ヨハ 19:28 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。

ヨハ 19:29 そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。

ヨハ 19:30 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。