家庭礼拝 2014年1月22日 ヨハネ15章18-16章4 迫害の予告

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前回の話の最後は何だったか覚えているでしょうか。16節と17節にはこう書いてあります。

ヨハ 15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。

ヨハ 15:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

 ここにあるように、キリスト教は選びの宗教と言ってもいいのかもしれません。特にヨハネ福音書には、このような決定論的な色彩が強く反映されています。皆さんは、このイエス様の言った。「私があなた方を選んだ」と言う言葉を聞いてどう思うでしょうか。反応の仕方は、3つあるかと思います。一つは、「私はもう選ばれてクリスチャンになっているから、大丈夫だ。」と思う人と、「神様、どうして私をも選んでくれないのでしょうか。私にも恵みを与えてください。」と思う人と、「イエス様が選んでくれたと言っても、やはり自分が選んだとしか思えない。」と言う人がいるのではないでしょうか。最後の自分で選んだと思っている人は論外です。自分で選んだ人は、自分の都合が悪くなれば、すぐにそれを捨てるからです。ですから、その人はその信仰にも入っていないと言うことなのです。「もう選ばれている」と思っている人と、「選ばれたい」と思っている人たちは、イエス様についていこうとしているので、多少の困難があっても、イエス様の信仰について行けるのではないかと思います。なぜこんなことを言うのかと言うと、今日の聖書の箇所の小見出しは、「迫害の予告」となっているからです。そこには困難があるのです。キリスト教の信仰には、平安だけでなく、困難も伴うのです。

 このキリストの選びに関して、良く勘違いしている考え方に、このように思っている人々がいます。それは、「有名な信仰者のように選ばれた人となって、信仰を保ち、平和と恵みの内に幸せに生きていきたい。」そう思って、この選ばれた人となる事を願っている人々が多いからです。神様に選ばれると言うことが、どんなに苦しい事なのかを知らないのです。それはユダヤ民族の歴史を考えてもわかります。この選ばれた民族は、世界のいろいろな民族からの攻撃に耐え、捕虜となり、奴隷となってもそこで堪えてきました。近代では、国を失い、強制収容所でのユダヤ人の虐殺と言う悲劇さえも耐えてきました。そして、今でもアラブ諸国との関係の中で苦しんでいるのです。ユダヤ民族の中でも特に選ばれた、預言者と言われる人々の苦しみを知っているでしょうか。誰一人として、その苦しみを味わわなかった人はいませんでした。モーセも、エリアも、エレミアも、洗礼者ヨハネも、イエス様もその一人かもしれません。いつも死と苦難に向かい合って生きているのです。

 選ばれた人々とは、その信仰によって、その苦難に耐えられる人々なのです。苦難に耐えられない人々には、その人々の信仰にふさわしい選びがあるのです。ですから、選ばれたいと願っている人々が、そのような苦難にも耐える覚悟をしているのかどうかと言うのは疑わしいのです。その苦難をあらかじめ知ったならば逃げ出すかもしれません。また一方で、「私は選ばれて、幸せな信仰生活を歩んでいる。」と思っている人々も、それがどのような選びであるのかを考えてみる必要があるのではないでしょうか。イエス様に選ばれて生きてきた人々がどんな苦難を歩んできたのかを知る必要があるのではないでしょうか。ですから、イエス様に選ばれると言うのは、「選ばれて、うれしい。幸せだ。」と思うような選びではないのです。苦難の覚悟の必要な選びなのです。

さて、ヨハネの語る、イエス様の世界は二つにはっきり分かれています。それは「この世の世界」と「神の国の世界」です。即ち、イエス様に選ばれると言うのは、この世の世界から神の国の世界に入ると言うことです。これだけなら、だれでもそうなりたい、選ばれたいと思うことでしょう。この世の人々が皆そう思っているならば、その通りなのです。ですが、イエス様は言います。この世に属するものは、この世に属さないものを憎むと言うのです。このことが私たちには想定外になってはいませんでしょうか。単に平和に神の国には入れるというものではなかったのです。18節と19節にはこう書いてあります。

ヨハ 15:18 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。

ヨハ 15:19 あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。

 ここに書かれているように、弟子たちはイエス様によって世から選び出されたので、世は弟子たちを憎むようになっているのであると言いました。でもその前に、すでにこの世に属さないイエス様の事をまず憎んでいた、と言うことなのです。この世に属さないとうことは、この世に憎まれることなのです。イエス様の教えは、この世の価値観を否定するので、この世に属する人々は、自分たちが否定されているものと考えて、憎むのです。

そして、20節と21節でイエス様は、こう続けました。それは、これから起こるだろう困難な道の事を弟子たちに示したのです。

ヨハ 15:20 『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。

ヨハ 15:21 しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。

もし、私たちが、イエス様に選ばれた弟子であるならば、人々の態度は、イエス様に対するように弟子たちにもするであろうと言うことです。イエス様を迫害する人々は、弟子達をも迫害し、イエス様の言葉を守る人々は弟子たちの言葉をも守ると言いました。このようにイエス様を迫害したように弟子たちをも迫害するのは、イエス様が神様から遣わされた方であると言うことを知らないからだと言いました。この世の人々は、イエス様が神様から遣わされた方であることを知らないだけでなく、かえってイエス様が神様に反するものと思い込んで、迫害するからなのです。イエス様に選ばれた人々は、イエス様に従う喜び、イエス様によって与えられる恵みだけでなく、イエス様と同様に、この世の人々に憎まれ、迫害されることも喜んで受け取らなければならないのです。すなわち、クリスチャンは自分の十字架をも喜んで担う人でなければならないのです。それがイエス様に従うことであり、イエス様と同じになる事なのです。それでもその信仰には、大きな喜びと平安が伴うのです。言葉に表せないような恵みです。だから多くの人々がその困難にもかかわらず従うのです。

続いて、イエス様は、この迫害する人々は罪であると断言します。それはイエス様が神様のもとから来た方であるを知らないからではなく、知ろうとしなかったからであり、イエス様を憎むことは神様をも憎むことだからだと言いました。22節から25節です。

ヨハ 15:22 わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。

ヨハ 15:23 わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。

ヨハ 15:24 だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。

ヨハ 15:25 しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。

 このように、この世の人々が罪であるのは、イエス様の言葉を聞き、イエス様の業を見ても受け入れるのではなく、イエス様を憎んだのであるから、それを知らなかったときよりも罪は重いと言っているのです。知っていることは責任があるのです。知っていて従わないことは罪なのです。ましてや憎み迫害することは大きな罪となるのです。

この世の人々は、イエス様が行った業や言葉を信じなかったのに、「イエス様が、いったい誰であったのか、本当に神様のもとから来られた人であるのか」と言うことを教えてくれる人はいるのでしょうか。いるとすればそれは、いったい誰なのでしょうか。イエス様は26節と27節でこう言いました。

ヨハ 15:26 わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。

ヨハ 15:27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。

 イエス様が誰であるかを証するのは聖霊であり、最初からいた弟子達であると言っています。聖霊の働きを、超能力的な奇跡を起こす働きだと思っている人もいますが、それは違います。聖霊の一番の働きは、イエス様が神の子であることを私たちに教えてくれることです。私たちが、本当に神様は生きて今もいると信じているか、そうではないかで、その人の生きる姿勢は全く違ってくるはずです。本当に神様が今も生きておられると信じるならば、その人の人生はすべて神様にささげて生きるでしょう。それが出来ないのはまだ疑っているからなのです。イエス様が神の子であることを信じることもまた同じなのです。イエス様が神の子であり、今も生きて働いてくださっていると信じるならば、私たちの人生は、すべてイエス様にささげられるはずなのです。イエス様の事を本当に教えてくれるのが聖霊なのです。この聖霊の導きなしには、私たちは本当にイエス様の事は分からないのです。自分の力ではわからないのです。ですから、イエス様の遣わされた聖霊の証しを聞いて、信じるものになるしかないのです。そして信じて、イエス様の弟子となったものは、またイエス様を証するものとなるのです。それが伝道の本当の姿なのです。

イエス様は、自分がこれから死のうとしているときに、弟子たちにとても厳しい話をされました。とても平安になるような話ではありませんでした。弟子たちが怖がって、みんなバラバラになってしまうような話です。みんなから憎まれ、迫害されると言う話です。普通なら、こんなことは分かっていても黙っていて教えないのかもしれません。ですがイエス様はそれをあえて教えました。どうしてでしょうか。16章の1節から4節にその理由が書かれています。

ヨハ 16:1 これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。

ヨハ 16:2 人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。

ヨハ 16:3 彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。

ヨハ 16:4 しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」

イエス様が、このような厳しい将来を弟子たちに話をしたのは、躓かせないためであると言いました。もしそんなことになるのなら、イエス様に従わなければよかったと思わないためであると言うことです。世の人から、憎まれ、迫害され、会堂から追放され、殺されるかもしれないことが起こっても、これはイエス様が私たちに前もって言って下さったとおりだと受け止めることが出来るためなのです。しかもこの世の人々は、それが、神様に仕えることなのだと勘違いしていたとしてもなのです。イエス様は、このようなことが起こる時が来たときに、うろたえないように、イエス様が言われた通りだと思いだして、その苦難に耐え抜きなさいと言ったのです。イエス様は隠したり嘘を言ったりはしないのです。

普通は、このような苦難や困難が起こるかもしれない時は、「もうすぐその苦しみは去ってしまうとか、もうすぐ乗り越えられるとか、神様が助けに来てくれるとか、その人々に希望を持たせることを言うものです。ところがイエス様はそんな希望を語るのではなく、その困難な現実を語ったのです。それはそのような現実が来ても躓かないようにするためだったのです。ですがふつうは、その現実が来る前に、このような厳しい予告を与えられた時点で躓いてしまい、その言葉に従えなくなってしまうものです。ですが、それが起こらなかったのはなぜでしょうか。それは、イエス様に従うと言うことが、そのような困難の現実よりも、もっと多くの希望を与えていたからです。イエス様に従うと言うことはそのような大きな力を与えるのです。困難があるから去っていくのは信仰ではありません。その困難があってもそれを乗り越える力を与えるのが信仰です。その信仰の力をイエス様は弟子たちに示したからこそ、弟子たちはこの迫害の予告にも耐えて、イエス様に従うことが出来たのです。弟子たちは、本当にイエス様が神の子であり、天に昇っても、生きて神様の右に居られると言うことを信じていたのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

 天の父なる神様。本当に神様が居られる。本当にイエス様は、神の子だったと信じられることはどんなに大きなことでしょうか。それを信じる信仰はどんなに大きな迫害や困難さえも、妨げとせずに、あなたに従う力として働いていきます。たとえそこに恐れが働いても、あなたの祝福を思う心は喜びに満たされるのです。それを信じるのは私たちの力ではありません。イエス様が約束してくださった聖霊が、私たちの心にそのことを教えてくださるのです。私たちはその聖霊が働いてくださるのを待ち望みます。その時私たちの心は開かれて、雲一つない青空のように、あなたを見上げることが出来ます。その時は、あらゆる困難も、苦難も、死もどこかに消え去ってしまうでしょう。神様、どうかその信仰を与えてくださいますように。イエス様の約束の聖霊が与えられて、そのことを知るものとなる事が出来ますように。

この祈りを、主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

<<聖書の箇所(新約聖書:ヨハネによる福音書)>>

◆迫害の予告

ヨハ 15:18 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。

ヨハ 15:19 あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。

ヨハ 15:20 『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。

ヨハ 15:21 しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。

ヨハ 15:22 わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。

ヨハ 15:23 わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。

ヨハ 15:24 だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。

ヨハ 15:25 しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。

ヨハ 15:26 わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。

ヨハ 15:27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。

ヨハ 16:1 これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。

ヨハ 16:2 人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。

ヨハ 16:3 彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。

ヨハ 16:4 しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」