家庭礼拝 2014年1月15日 ヨハネ15章1-17 イエスはまことのブドウの木
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起
今日の聖書の箇所は、イエス様が「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。」と言った、とても有名な箇所です。「イエス様はまことのぶどうの木」、と言うのは教会学校の幼稚科の子供でさえも、塗り絵や絵本を通して、教えられている言葉です。ですが、この教えは、私たち大人にとってもとても大切な事であり、しっかり理解しなければならない事柄です。
このぶどうの木と言うのは、もともと、旧約聖書で、イスラエルの事を例えるのに用いられた言葉です。聖書の中で、イスラエルはよく、イチジクの木であるとかぶどうの木とかに例えられるのです。それはなぜかと言うと、それらの木はイスラエル全域に植えられており、良い実を結ぶことでよく知られているからです。それではなぜイエス様が改めてこの言葉を使ったかと言うと、それは今までのぶどうの木とは違って、「私はまことのぶどうの木」であると言うことを強調するためなのです。旧約聖書でのぶどうの木の例えは、預言書によく言われるように悪い実を結ぶぶどうの木であるとか、実を結ばないぶどうの木であるとかほとんどで、悪いぶどうの木としての例えなのです。そしてイスラエルには罰が与えられているのです。イエス様が、まことのぶどうの木と言っているときには、もうこれはイスラエルの事のみを言っているのではないことに注意しなければなりません。それは全人類に対する「まことのぶどうの木」であることなのです。
他の共観福音書でもブドウ園と農夫の例えはありますが、そこに書かれている話は、ブドウ園を農夫たちに貸して旅に出たその主人が、僕や息子を送ってその収穫を治めさせようとすると袋叩きにしたり殺したりしてしまい、最後には主人に裁かれると言う話です。ヨハネに書かれているこのぶどうの木の話は、それらの話とはちょっと違います。イエス様の最後の晩餐の時に話している言葉だと言うことを忘れてはいけません。何となく平和な感じのする例え話ですが、のんびりとした田園風景の話ではないのです。それはイエス様が十字架を前にして、イエス様がいなくなった後も弟子たちがしっかりと信仰生活を続けていくために、何が必要なのかと言うことを、遺言のような形で言っているのがこのぶどうの木の例えであると言うことを、身を引き締めて聞くべき言葉なのです。イエス様がここで何を言おうとしたのかを、今日の聖書から学んでいきたいと思います。
承
イエス様がいなくなった後で、どのようにイエス様と神様の事を受け止めていかなければならないのかを、イエス様はこのように言いました。1節と2節です。
ヨハ 15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
ヨハ 15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
ここに、イエス様と、神様と、それを信じる私たち信仰者との関係が見事に描かれているのです。これを理解しておきなさいと言うのです。まずイエス様はまことのぶどうの木であると言うことです。それはイスラエルを表すぶどうの木でも、実のならないぶどうの木でもなく、豊かな実を結ぶぶどうの木であって、イエス様を信じる者たちを支えているぶどうの木であると言うことです。もうユダヤの象徴ではないのです。このぶどうの木に繋がっていると言うことは、単にぶら下がっていることではありません、幹に繋がって、生きている枝と言うのは、幹から生きた命を送られて生きているのです。その命はイエス様の贖いの血によって清められた命です。その命が、イエス様の幹から、それを信じる信仰者へと送られて生きているのです。ですから、枝が枯れても幹は生きているが、幹が枯れれば枝も死んでしまうのです。それほどこの幹であるぶどうの木は、私たちの命を支えている幹なのです。
イエス様は、私の父は農夫であると言っています。イエス様の役割は、皆とつながって、その命を支える働きです。ですが農夫である神様は、そのぶどうの木から良い実が得られるように、手入れをされる方なのです。どんな果樹園でもそうですが、良い実を沢山得るためには、木の周りをよく耕し、肥料をやり、水をやり、そして無駄な枝を剪定して、切り落とし、実のなる良い枝だけ残すのです。ですから、イエス様のぶどうの木に繋がっているだけで、実を結ばない枝は、農夫である神様が切り落とし除かれると言うのです。切り落とされた枝は、もう命が幹からやってこないので枯れて死んでしまいます。一方実のなる枝には、その分命が多く与えられて、いよいよ豊かに実を結ぶようになるのです。このような私たちの関係をしっかりと知っておくのが、イエス様がいなくなった後の私たちの生き方に大きく影響してくるのです。
イエス様はさらに、イエス様とつながっていることの大切さを語ります。イエス様に繋がっていなければ、自分では実を結ぶことが出来ないし、イエス様を離れては何もできないことを言いました。そして、繋がっていなければ外に投げ捨てられ、火に投げ入れられて焼かれてしまうのです。ぶどうの木は、曲がりくねっているために、何の役にも立たず、焼かれてしまうしかないのです。そして繋がっているならば、「望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」と約束されました。祈って叶えられるためにはイエス様に繋がっていることが必要なのです。そしてイエス様に繋がっていると言うことは「イエス様の御言葉がいつもその内にある。」と言うことなのです。イエス様の御言葉に従い生きることなのです。私たちがイエス様に繋がり、弟子となって、実を結ぶことが、神様の喜ぶことであり栄光となる事だと言うのです。そして言葉の調子を替えてこのように言いました。9節と10節です。
ヨハ 15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
ヨハ 15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
これがイエス様が、ぶどうの木のたとえを通して、弟子たちに教えたかったことです。イエス様がいなくなっても、それで落胆したり失望したりして去っていくことではなく、「私の掟を守り、私の愛に留まり続けなさい」と言うことなのです。イエス様の愛は、神様がイエス様を愛するように、私たちを愛していると言うことです。その愛に留まるには、イエス様がたとえ死んでも、イエス様の掟を守る事なのです。イエス様の肉体は死んでも、私たちとつながり続け、命を与え、実を結ばせるのです。それはイエス様の御言葉をいつも内に持って、イエス様に繋がっているからなのです。イエス様が死んだ後も、イエス様に繋がっていることが大切なのです。それがイエス様の愛に留まる事なのです。
転
さて、イエス様は何のためにこの話をしたのでしょうか。弟子たちが、イエス様がいなくなって落胆しないようにでしょうか。それともみんなバラバラになって、すべてが無駄になってしまわないようにでしょうか。それとも、イエス様がいなくなった後も、イエス様を信じて行けるようにでしょうか。それぞれに、意味のあることなのですが、イエス様の語った理由はもっと違ったものでした。それは11節と12節に書かれています。
ヨハ 15:11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
ヨハ 15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
ヨハ 15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
驚いたことに、これらの事を話したのは、イエス様の喜びが私たちの内にあり、私たちの喜びが満たされるためだと言うのです。イエス様の喜びとは何でしょうか。それはイエス様が私たちを愛する喜びなのです。そしてイエス様の喜びが私たちの内にあるとは、イエス様がその命さえも捧げて私たちを愛してくださっていると言うことなのです。だから、12節で、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」と言ったのです。私たちには、このイエス様の愛による喜びで満たされているのです。私たちは、自分の罪に打ちひしがれている陰気な信仰者ではないのです。イエス様の愛に満たされた喜びの信仰者なのです。イエス様はこれ以上ない大きな愛を、私たちに与えて下さいました。それは友のために自分の命を捨てることだったのです。
イエス様は、このようにイエス様がこの世を去る前に、一番大切な事をぶどうの木の例えで、わかりやすく教えられたのです。そして、もうこれで全て教えた。もう教えることはないと思って、こういわれたのです。14節と15節です。
ヨハ 15:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
ヨハ 15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである
イエス様は、十字架にかかる前に、私たちに必要なことはすべて語ったのです。ですから、私たちはイエス様の教えがよくわからないから、従っていくことが出来ないと言い訳をすることはできないのです。そしてイエス様は私たちの事を、あなた方は私の友であると言いました。私たちはイエス様を神様のように感じることはできたとしても、友として感じることが出来るでしょうか。それが出来ていないのはイエス様の命じることを行っていないからではないでしょうか。もし、私たちが、イエス様の戒めを守り、苦しみも喜びも共にして、死を乗り越えて生きるならば、私たちはきっと、イエス様を友として、同じ仲間として感じるのだろうと思うのです。
そしてイエス様は、私たちの事をもう僕とは呼ばないと言いました。友と呼ぶことにすると言ったのです。それは、僕は主人の考えていることがわからないけれども、友はともに同じことを考えて進んでいくからです。それは、イエス様が神様から聞いたことをすべて、私たちに教えてくれたので、同じことを考えて歩んでいけるからです。そして最後にこう言いました。16節と17節です。
ヨハ 15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
ヨハ 15:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
私たちは、イエス様が今もなお働かれていることを知る前は、自分がキリスト教を信仰しようとし、自分が教会の門をたたき、自分が信仰的決断をして生きていると思っています。ところがイエス様が私たちの気が付かないところで、働いてくださっていることを知ってからは、それらの事は、自分が考えるより先にイエス様が招いてくださっていたことを知るのです。それは今ここに、イエス様が、言っているように、私たちが実を結ぶようにとイエス様が選んでくださったことによるのです。私たち信仰者は、私たちの決断や行動の前にすでにイエス様の導きがあることを忘れてはいけません。そしてその実を結ぶために、イエス様の名によって神様に願うものは何でも与えられるのですから、遠慮することなく神様に願えばよいのです。ですが勘違いしてはならないのは、実を結ぶためではない利己的な願いは、かなえられないかもしれないと言うことです。私たちに許されているのは、実を結ぶための祈りなのです。それは、最後に言った言葉の「互いに愛し合いなさい、」という言葉に沿った祈りなのです。これこそが、イエス様の一番の教えなのです。そして互いに愛し合うことが、実を結ぶことであり、叶えられる祈りもまたそのためのものなのです。
結
イエス様はまことのぶどうの木です。それは、私たちには見えない霊的な木です。たとえイエス様が天にいるとしても、私たちはそのぶどうの木に霊的につながって生きているのです。イエス様のぶどうの木から、命を与えられて生きているのです。ですから私たちは、イエス様に繋がって、実を結ぶように生きることを望まれています。私たちのぶどうの実は、互いに愛し合うと言う実なのです。イエス様はその愛を、示すために喜んで、その命を投げ出してくれたのです。そして、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」と言いました。その愛をイエス様は十字架の上で示されたのです。今日の聖書の箇所にはイエス様の大切な教えがたくさんありました。私たちは、そのぶどうの木を思い起こして、イエス様といつまでも繋がっていることを願っていきたいと思います。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。イエス様は私たちにその愛の大切さを教えられました。イエス様に繋がっていることの大切さを教えられました。そしてみずからは、その愛のために命を捨てる覚悟をなさいました。私たちはそのイエス様の御言葉と行いとを知って、イエス様に従うようにと招かれています。私たちはいつもイエス様から招かれていました。私たちの行うどんなことにもイエス様は先に道を整えていて下さいました。神様、どうかいつもイエス様の思いを思い起こしつつ、イエス様のぶどうの木に繋がって、イエス様の愛の命を預かることが出来ますように。その命によって、日々生かされていくことが出来ますように。すべての人がその愛によって、導かれますように。
この祈りを、主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:ヨハネによる福音書)>>
◆イエスはまことのぶどうの木
ヨハ 15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
ヨハ 15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
ヨハ 15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
ヨハ 15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
ヨハ 15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
ヨハ 15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
ヨハ 15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
ヨハ 15:8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
ヨハ 15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
ヨハ 15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
ヨハ 15:11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
ヨハ 15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
ヨハ 15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
ヨハ 15:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
ヨハ 15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
ヨハ 15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
ヨハ 15:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」