家庭礼拝 2014年1月8日 ヨハネ14章15-31 聖霊を与える約束

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今年最初の、家庭礼拝が予定通り行えますことに感謝いたします。今日の箇所は、最後の晩餐の最後の場面です。と言うのは14章の最後が、「さあ、立て。ここから出かけよう。」と言う言葉で終わっているからです。ところが、15章、16章では、またイエス様の話が続いています。これは不自然です。むしろ14章はそのまま17章につながるのが自然です。ですから、15章と16章は14章の前にくるのが妥当なのだと思います。最後の晩餐での教えの流れの中で15勝16章が語られ、最後に14章の場面が最後の場面となると考えられます。そういった意味で、今日は最後の晩餐の最後の場面として受け止めていきたいと思います。

この最後の場面の言葉が語られる前は何を言われていたのかを振り返ってみますと、それは、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」と言う励ましの言葉であり、「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。」と言う約束の言葉でした。イエス様が、この世を去って行かれるかもしれないと思い、恐れて不安になっている弟子たちに与えた慰めの言葉でした。それでは、今日の最後の場面ではイエス様はどんな言葉を弟子たちに残したのでしょうか。弟子たちに、最後まで忘れないでいて欲しいと願った言葉です。それは私たちにとっても大切な言葉であり、守るべき言葉なのです。この信仰の神髄を表す言葉なのです。

今日の聖書の箇所で語られるキーワードは二つです。一つは「私を愛するならば、私の掟を守る。」と言う言葉です。このことは、繰り返し表現を少しずつ変えて、短い間に4回も言っているのです。最初は15節で「私を愛するならば、私の掟を守る。」と言いました。次には、21節で、その愛と掟という言葉をひっくり返して「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。」と言いました。23節でも、今度は仮定文を使わないで直接、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。」と言いました。24節では、反語的な言い回しで、「わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。」と言いました。これほど同じことを繰り返して言っている箇所は他にはないかもしれません。それほど大切な言葉なのです。それほどイエス様は、最後に私たちに知ってほしいと願っている言葉なのです。私たちはこの言葉をそのように大切な言葉として受け止めているでしょうか。イエス様の言っていることは、「愛するとはイエス様の戒めを守る事であり、戒めを守ることがイエス様を愛することである。」と言うことなのです。そのように受け止めているでしょうか。

キリスト教を学んでいなくても、人生の問いの中には、「愛する事って何ですか。」「どうすれば愛せるのですか」と言う問いが少なからずあります。これに対する答えは、その人の人生観によっていろいろです。多くの場合は「大切にする」と言う言葉で表現されることがあると思います。キリスト教が日本に伝わった最初のころは、この愛すると言う言葉が、大切にすると訳されていたこともあったようです。人や物を大切にする、それが愛することだと教えられてきました。

ところがイエス様の答えは、ちょっと意外なのです。普通、イエス様を愛すると言ったら、イエス様の人格を愛する事であって、それ以外の事は何ら問題にならないように思います。ところがイエス様は、「私を愛するならば、私の掟を守る。」「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。」と言いました。イエス様を愛することと、イエス様の言葉を守ることはイコールなのです。イエス様の言葉を守ろうが守るまいが、私はイエス様を愛していますと言うことは成り立たないのです。「わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。」のであり、「私の言葉を守らないものは、私を愛さない」のです。それほど、イエス様を愛すると言うことと、イエス様の言葉を守ると言うことがしっかりと結びついているのです。これはイエス様に対して、従順であると言うことになります。イエス様が神様の言葉に対して、従順であり、その言葉を守って、十字架の死に至るまで従順であったように、私たちもイエス様を愛するならば、イエス様の言葉を守り、従順に従っていくことが求められているのです。

これは、人間同士においても同じことかもしれません。本当に愛している者同士ならば、その言葉を守り、約束を守り、従順に生きていくのだと思うのです。言葉を守らず、約束を破り、従順でないのに、愛していると言うのは、本当の愛ではないのかもしれません。それは利己的な愛なのだと思います。

 これらの事と、入り混じって語られているもう一つのキーワードは「聖霊」です。この言葉もいろいろな表現を用いて語られています。16節では「弁護者」17節では「真理の霊」26節では「弁護者」と「聖霊」と言う言葉を用いています。また他の聖書の箇所では、この聖霊を「助け主」であるとか「慰め主」と呼んでいるところもあります。どうしてこんなにいろいろな言い方があるのでしょうか。

 イエス様は、この神様のもとから送ってくださる聖霊の働きを当時の人に分かりやすく「パラクレートス」と言う例えの言葉で表現しているのです。このパラクレートスの訳し方がいろいろに分かれてしまったのです。ではこのパラクレートスとは何かというと、もともと法律用語で、裁判の時に証人として、「招き入れられた人、」と言う意味なのです。自分が裁判で、罪に定められようとしているときに、その自分の弁護をするために、招き入れられた証人なのです。ですから、この証人が、自分の弁護者であり、助けてくれる助け主であり、救ってくれる慰め主であり、真理を語ってくれる真理の霊なのです。すなわち、このパラクレートス、すなわち聖霊は、自分が窮地に陥っているときに、神様のもとから送り込まれて、真理を示し、問題を解決し、救い出してくださる方なのです。イエス様は、この聖霊を神様にお願いして「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」と約束してくださっているのです。永遠にいっしょにいるのですから、たとえ死んでも一緒にいることが出来るのです。私たちがこの聖霊と共に居る限りは、どんな問題でも、解決され、慰めを与えられるのです。私たちには、そのような聖霊がついているのです。この聖霊は、26節に書いてあるように「私達にすべてのことを教え、イエス様が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」のです。私たちが問題の中で悩んでいるとき、その解決を求めるならば、聖霊にその解決を願うのがよいのです。その聖霊はすべての事についてどうしたらよいのかを教えてくれるし、イエス様の語った話をことごとく思い出させてくれるのです。そのことによって、私たちは問題や困難を克服し、解決することが出来るのです。そして私たちの下には平和が訪れるのです。心の平和、安らぎが与えられるのです。そして27節では、こう言って約束しているのです。

ヨハ 14:27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

 イエス様の約束は、聖霊を与える、と言う約束と、平和を与える、と言う約束です。どうして人は、この約束を信じて求めないのでしょうか。その聖霊と平和を与えるから、「心を騒がせるな、怯えるな」と言って下さっているのに、どうして、自分勝手な空想に捉われて、いつも心配し、怯えているのでしょうか。私たちには、何も心配することはないのです。何も怯えることはないのです。ただイエス様の与えてくださる聖霊に耳を傾け、心を傾けていれば、イエス様の御言葉と解決が与えられ、平和が与えられるのです。この事は誰にでもできることです。とても簡単なことです。やるかやらないかだけです。それなのに、私にはできないと言ってやらないのは、自らその素晴らしい約束を捨てて、自分から不安が好きで、その中に入り込んでいるようなものです。不幸や困難が好きで、自分で選んでいるようなものです。私たちのなすべきことは、ただ信じ委ねて、聖霊の導きに従うことだけなのです。

 これらの事に、関連して、イエス様の約束はもう一つあります。それは『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言う約束です。イエス様の復活の約束です。イエス様は死んでも生きていると言う約束です。この言葉は2回繰り返し語られています。最初は18節です。

ヨハ 14:18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。

ヨハ 14:19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。

 これは、イエス様が去って行かれて、自分たちは捨てられてしまうのではないのか、途方に暮れてしまうのではないのかと恐れ、不安になっている弟子たちに、あなた方をみなしごにはしないと、力強く言っているのです。そしてあなた方のところに戻ってくると言っているのです。死んでからの事を、これだけ、確信を持って言った人がいるでしょうか。中には、自分は死んでも天国で生きているから、安心しなさいと言った人はいるかもしれません。ですが、だれもそれではその人と再会することはできません。ですが、イエス様は戻ってくると言っているのです。それならば、私たちはこの世で、イエス様に再会することが出来ます。決して嘘を言われない真実な方であるイエス様が、このように言ったのです。これを疑う必要があるでしょうか。このことを信じさせてくださるのも、聖霊の導きなのです。自分の理性では解決できない問題でも、聖霊はその解決の糸口を与えてくださるのです。ですから、イエス様は、聖霊を求めなさいと言っているのです。知識を求めるのではなく、聖霊を求めなさいと言っているのです。そして、28節でも繰り返しこう言っています。

ヨハ 14:28 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。

 イエス様は、これから死んで、神様のもとに帰られるのだけれども、それを決して悲しんだり恐れたりしてはいけないと言っているのです。もし私を愛しているなら、神様のもとに行くのを喜んでくれるはずだろうと言っているのです。イエス様が十字架につけられたのは、悲しむことでも恐れることでもなく、喜ぶことなのです。イエス様が神様と共に居られることを喜ぶのです。そして、最後にこう言いました。31節です。

ヨハ 14:31 わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」

 この最後の言葉もまた、イエス様の「愛するものは従順である」と言う言葉に沿ったものでした。イエス様を愛するものはイエス様の言葉に従うと言われたように、イエス様は神様を愛し、神様がお命じになった通りに行っているのです。イエス様は自らその手本を示して、従順に十字架への道を歩んで下さっているのです。

今日のイエス様の教えは、公に弟子たちに教えられた最後の言葉です。それは、イエス様を愛するとは、イエス様の言葉に従う、と言うこと。そして、私たちの助け主である聖霊が与えられると言う約束。そして、イエス様はまた戻ってくると言う、復活の約束です。これらは皆、キリスト教の中心となる教えです。それをイエス様はこの最後の場面で弟子たちに伝えたのです。これらの事で、私たちが頑張らなければならないことは何もありません。ただ信じ受け入れる決断をするだけです。そのことによって、私たちはイエス様を愛するものとなり、聖霊によって導かれるものとなるのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

 天の父なる神様。イエス様はあなたを愛し、あなたの御言葉のままに歩み通しました。そしてイエス様は私たちにも、イエス様を愛し、イエス様の御言葉のままに歩み通すことを求められました。それには聖霊の助けが必要です。私たちの思いは利己的な思いで、凝り固まっているので、自分の力で心を開くことはできません。どうか聖霊の助けによって、イエス様の御言葉を思い起こし、受け入れ、従うものとさせてください。復活の信仰もまた、頭で考えて解決できるものではありません。どうか聖霊の助けを熱心に求めて、心から信じていくものとなる事が出来ますように導いてください。私たちが、知識を求めるのではなく、聖霊の導きを求めるものでありますように。

この祈りを、主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

 

<<聖書の箇所(新約聖書:ヨハネによる福音書)>>

◆聖霊を与える約束

ヨハ 14:15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。

ヨハ 14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。

ヨハ 14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

ヨハ 14:18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。

ヨハ 14:19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。

ヨハ 14:20 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。

ヨハ 14:21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

ヨハ 14:22 イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。

ヨハ 14:23 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。

ヨハ 14:24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。

ヨハ 14:25 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。

ヨハ 14:26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。

ヨハ 14:27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

ヨハ 14:28 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。

ヨハ 14:29 事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。

ヨハ 14:30 もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。

ヨハ 14:31 わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」