家庭礼拝 2013年12月25日 ヨハネ14章1-14 イエスは父にいたる道

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クリスマスおめでとうございます。このイエス様の誕生を記念する日に、家庭礼拝をすることが出来たことは幸せなことです。クリスマスの行事の中で、ともすると忘れてしまいそうな静かな礼拝の時を思い起こさせ、その準備を備えて下さった、神様に感謝いたします。

この世にイエス様が与えられ、世に救いがもたらされて、人々の心に光が宿り、新しい世界が開かれることを喜ぶこのクリスマスの時が、イエス様の苦難と十字架に繋がっていることを同時に思い起こして、感謝と賛美を捧げることが大切なのかもしれません。片方だけではいけないのかもしれません。

今日の聖書の箇所は、まさに、イエス様が、弟子たちとの別れの言葉を交わす時であり、イエス様がどこに行かれるのかを語る時であるのです。ですが、弟子たちには、それを理解することはできませんでした。イエス様が重大な決意をし、自分たちの下からいなくなることを言っているのは分かるのですが、それでは自分たちはどうなるのか、イエス様は一体どうなるのかと恐れとおののきの中で、交わされる弟子たちと、イエス様との会話がここにはあるのです。

人の死や、自分の死を目前にした時、その時自分はどの道を歩んでいるのか、自分の足元がどこに立っているのかをしっかりとつかめる人は幸いな人です。多くの人はそこで、未知の不安に襲われて動揺してしまいます。私たちには、これまで自分の生きてきた延長でしか物事を考えられないのです。本当に死んだらどうなるのか。何を信じたらよいのかが問われているのです。

イエス様は、この夜、弟子たちの足を洗い、最後の晩餐をし、ユダに「しようとしていることを、今すぐしなさい」と言って外に出した後、「今や、人の子は栄光を受けた。」と言いました。イエス様はその後、「しばらくするとあなたたちの来ることのできないところに行くだろう」と言ったのです。そして、遺言ともいうべき、「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」と教えられたのです。

弟子たちにもイエス様の異様な決意がわかったのです。これは死を覚悟しているなと言う事がわかったのです。それで、ペトロは「主よ、どこへ行かれるのですか」と言いました。そして、「あなたのためなら命を捨てます」とさえ言ったのです。弟子たちの心は不安で一杯でした。イエス様が死んでしまったら自分たちはどうなるのだろう。イエス様が死んでしまったら、何もかもが、無意味になってしまうのではないだろうか、と恐れたのです。

それを知っているイエス様は、今日の聖書の箇所の一節でこう言ったのです。

ヨハ 14:1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」

イエス様は弟子たちの動揺を知って、心を騒がせるな、と言いました。そして神様を信じなさい、と言いました。心が騒ぐような不安に陥ったら、まず神様を信じなさい、神様は必ず、私たちに良いことをしてくださると信じなさい、と言ったのです。これだけなら、信仰者である私たちも言えるかもしれません。信仰者なら、心配している人に、神様を信じなさいと教えることはできるのです。ですが次の言葉はイエス様でないと言えない言葉です、それは、「そして、私をも信じなさい。」と言ったのです。死を前にして動揺している人々に、私をも信じなさいと言える人がいるでしょうか。それは死というものを知っている人にしか言えない言葉です。「私は死をも知っている、だから私をも信じなさい」と言っているのです。その死の先には何があるのでしょうか、それは2節3節に書かれています。

ヨハ 14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。

ヨハ 14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

 イエス様は、神様のもとに行って、弟子たちのために場所を用意しに行くと言ったのです。イエス様が行こうとしているところは、神様のもとです。死んだら、どこへ行くのかわからない、どうなるのかわからないと言うのではなく、明確に神様のもとに行くと言っているのです。そして弟子たちも、死んだらどこにも居場所がない、行先がないと言うのではなく、イエス様は神様のもとにその居場所を作ってくださると言っているのです。それはイエス様を信じる人々皆に言っているのです。私たちは死んだらどうなるのかわからないのではなく、神様のもとに行き、そこに住むことになるのです。死んだ後の生活が保障されているのです。

イエス様は、死んで神様のもとに行き、そして信じる者のために居場所を作ってくれたら、また戻ってきて、皆を迎えてあげようと言っているのです。イエス様は死んで、行きっ放しではなく、また戻ってくる、すなわち復活して、皆のもとにくると言っているのです。そしてどのようにしたらよいかわからずうろたえている人々を迎えてくれると言っているのです。ですから死ぬことは何の心配もない、あなたたちの行き先は保証されていると言っているのです。それは、「私のいるところに、あなた方もいる。」と言うことなのです。死んだら天国に行くと言います。そこは神様がいるところと言います。ですが、イエス様は、「私のいるところに、あなた方もいる。」と教えたのです。すなわち、天国とはイエス様のいるところなのです。イエス様はそのことを信じなさいと教えられたのです。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして私をも信じなさい。」と言うことは、このように、死んだ後も、イエス様が迎えて下さって、神様のもとへ行き、そしてイエス様と共に生きることが出来ると言うことを信じなさい、と言っているのです。あなたたちは死んで終わりでも、幽界をさまよってしまうこともないと言っているのです。

 ところが、わからないものは分からないとはっきり言う、正直者のトマスがこう質問したのです。そしてイエス様は、とても意味深い言葉を与えられました。4節から6節です。

ヨハ 14:4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

ヨハ 14:5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」

ヨハ 14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

 ペトロが、「主よ、どこへ行かれるのですか。」と尋ねたように弟子たちは、イエス様がどこへ行かれるのかを漠然とは知っているのですが、それをはっきりと言うことはできませんでした。怖かったのです。イエス様は、その心の動きを知って、弟子たちに「私がどこへ行くのか、その道をあなた方は知っている。」と言ったのです。ところがここに、物事を中途半端では終わらせない弟子がいました。それはトマスです。トマスは物事を現実的に考え、あいまいなことを嫌う弟子でした。それで、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」と尋ねたのです。それは、「もっとはっきり言って下さい、あなたはどこに行くのですか、そしてどうすればそこに行けるのですか」と尋ねたのです。するとイエス様が答えた答えは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と答えたのです。イエス様は、良く、私は何々である、と宣言されました。それにしてもこの言葉はすごいのです。「私は道を知っている、真理を知っている、命を知っている。」と言える人はいるかもしれません。ですが、「わたしは道であり、真理であり、命である。」と言える人はいないのです。これは、道がイエス様の中にあり、真理がイエスさまであり、命がイエス様から来るのです。イエス様に教わるのではなく、イエス様を見ればそれが見えるのです。イエス様に触れれば、それが伝わってくるのです。イエス様を信じれば、そのことが現実となるのです。そして、「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と言いました。神様のもとに行くためには、イエス様を通らなければならないのです。イエス様を通らずに、自己流であったり、他のものを信じることによってではいくことが出来ないのです。イエス様を通っていくとは、イエス様の示した道を通り、真理を通り、命を通って行くことです。

 そして、イエス様は驚くべきことを言いました。これは従来のユダヤ教では絶対に起こりえないことです。決定的にユダヤ教と違うことです。このことによって、キリスト教は成り立っていると言ってもいいのかもしれないのです。7節から10節を読んでみましょう。

ヨハ 14:7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

ヨハ 14:8 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、

ヨハ 14:9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。

ヨハ 14:10 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。

ヨハ 14:11 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。

 ここの会話での驚くべきことがわかるでしょうか。いつも聖書を読んでいると、何気なく自然に読み進んでしまいます。何も驚くべきことではないような気がします。イエス様だったら自然な語り口のような気がします。ですが、この時代の神様の教え、ユダヤ教では、神様を見たものは一人もいないと言われ、神様を見たものは死ぬと言われていたのです。それなのに、イエス様は、「あなた方は既に、父を見ている」と言ったのです。ところがそれに輪をかけるように、フィリポは「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言ったのです。この時代に神様を見せてくださいと言うことがどんなに不敬な事であり、もしそうなれば自分は死ぬかもしれない言うことを、何のこだわりもなくイエス様に言ってのけているのが驚くべきことなのです。このような会話は、この時代にはあり得ないのです。そして、イエス様はさらに大胆に「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。」と言うことを2度も繰り返して言っているのです。これはもう、ほとんど私が神であると宣言しているのと同じことです。だから、私を見たものは、神を見たのであると言っているのと同じなのです。当時のユダヤ人がこの聖書のイエス様の言葉を聞いたときにどんな反応を示したでしょうか。きっと完全に二つに割れたと思います。一つは、イエスは神を冒涜するものだ、と言う人々と、もう一つは、イエスこそキリストだと言う人々です。とは言っても、ユダヤ人にとって、このことを一挙に信じるようになるのは、たとえ信じるにしても、とてもハードルの高い事なのです。それは、神様はただ一人の神様であると言う、一神教のことを考えれば、イエス様と神様を一人の神様ととらえるのはとても難しい事だったのです。だからイエス様も、「わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」と言ったのです。言葉だけでは信じられないことは許されていたのです。ですから、言葉で信じられないなら、その行ったことを信じなさいと言いました。イエス様の奇跡、憐み、十字架での死、これらは事実であるから、そのことを信じなさい、と言っているのです。このようなことは、洗礼者ヨハネが弟子を遣わしてイエス様に尋ねた時も、同じようなことを言いました。その人の行ったことを見ればわかるはずだ、そのような業をイエス様は私たちに残してくださったのです。私たちも、イエス様の言葉だけでは信じられないなら、イエス様の行ったことを心静かに考えてみる必要があるのだと思います。この業が人間でできることなのかどうか、と言うことです。

 イエス様は、最後にこう言いました。12節から14節です。

ヨハ 14:12 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。

ヨハ 14:13 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。

ヨハ 14:14 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

 イエス様は、最後に、とても大きな約束をしてくださいました。「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」と言いました。そして、「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。」と約束してくださったのです。

 何でも叶えてあげようと言われるほど、心強いものはないのではないでしょうか。ですがイエス様はその言葉の前に大切な事を言っているのです。それは、「私の名によって願うことは、」と言うことです。これは単に「イエス様の御名によって、お祈りいたします。」と付け加えることではありません。そのように祈ったのにかなえられなかったと言って不平を言う人は多いのです。「イエス様の御名によって、お祈りすると言うのは、イエス様と共にお祈りすることなのです。イエス様が共に祈って下さらなければ、叶えられないのです。私たちの祈りは、イエス様が共に祈ってくださる祈りになっているでしょうか。自分勝手な祈りになっていないでしょうか。そこが、叶えられる祈りと叶えられない祈りの分かれ道です。ですから、自分のために祈る祈りよりも、人のために祈る祈りのほうが多く叶えられることが多いのです。イエス様が共に祈ってくださるように祈りたいものです。

今日はクリスマスです。イエス様の誕生を祝う日です。ですがイエス様の生涯は苦難の生涯でした。それはイエス様にとって、栄光の生涯でもありました。イエス様は死んだのちも、私たちのための部屋を神様の国に用意してくださり、イエス様と共に居られるようにしてくださいました。イエス様は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」と言ったのです。私たちはそのイエス様の言葉を信じて生きることが出来ます。そして、今日は、そのイエス様が私たちに与えられたその日なのです。そのことを覚えつつ、今日の祈りを捧げたいと思います。

 

 

 

 

 

(一分間黙想)(お祈り)

 天の父なる神様。今日のクリスマスの恵みを感謝いたします。あなたが神様から遣わされた方であり、神様が共に居られた方であることを信じます。私たちには、あなたが用意してくださった、天にある居場所があります。死んでしまったらどうなるのだろうと心配することはありません。あなたと共に居ることが出来るのです。あなたは愛であり、道であり、真理であり、命です。あなたを除いて大切なものは何もありません。どうかこの人生を信じて生きる人生とさせてください。イエス様の御名によって祈ることは何でも叶えてあげようと言う約束もいただきました。どうか、あなたと共にその祈りを捧げて、世の人々に、平安と喜びを届けることが出来ますように。

この祈りを、主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

 

<<聖書の箇所(新約聖書:ヨハネによる福音書)>>

◆イエスは父に至る道

ヨハ 14:1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。

ヨハ 14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。

ヨハ 14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

ヨハ 14:4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

ヨハ 14:5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」

ヨハ 14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

ヨハ 14:7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

ヨハ 14:8 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、

ヨハ 14:9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。

ヨハ 14:10 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。

ヨハ 14:11 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。

ヨハ 14:12 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。

ヨハ 14:13 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。

ヨハ 14:14 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」