家庭礼拝 2013年12月18日 ヨハネ13章21-38 裏切りの予告

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今日の場面は、最後の晩餐の場面です。イエス様がユダに裏切られる場面です。神様であるイエス様がどうしてユダに裏切られたのでしょうか。ユダに裏切られることを知っていながら、どうしてほかの弟子たちに言わなかったのでしょうか。そして、他の弟子たちはどうして、ユダが裏切ろうとしていることに気づかなかったのでしょうか。イエス様とユダとは、どのような関係だったのでしょうか。この場面にはこのようないろいろな疑問が起こってきます。

ヨハネによる福音書では、ユダの事は他の福音書に比べてもひどく辛辣に扱っているところがあります。ヨハネにとってはユダは、とんでもない男であり、偽善者であり、裏切者なのです。ですがイエス様にとってはどのような存在だったのでしょうか。この最後の晩餐の場面で、ユダは一体どこにいたのでしょうか。裏切ろうとしていたので、イエス様から遠く離れた出口の近くにいたのでしょうか。ところがそうではないのです。ユダはなんとイエス様の左隣に座っているのです。そしてイエス様から直接パン切れをいただいたり、他の人には聞こえないような話を二人でしたりするような、密接な関係の内にいたのです。実に不思議な状況です。

そしてこの裏切りは起こらなければならなかったのです。この裏切りは、イエスさまよりもユダにとってのほうが不幸な出来事であったかもしれません。イエス様にとっては、このことは起こるべくして起こった出来事なのです。旧約の予言が実現したのです。

先週の箇所では、イエス様は弟子たちの足を洗いました。そして弟子たちに、イエス様の模範に倣って、互いに足を洗い合いなさいと教えられました。そして最後に「私を受け入れる人は、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。」と言いました。そして今日の箇所に移るのです。イエス様はこの話を終えると心を騒がせて言いました。このことを言うのはイエス様と言えども、つらい事であり、感情を高ぶらせることだったのです。それは、「あなた方の内の一人が私を裏切ろうとしている。」と言うことでした。弟子たちはそのことを聞いて動揺しましたが、それが誰であるかをはっきり聞こうとはしなかったし、イエス様もそのことを言おうとしていないのです。もしここでそれが、ユダであることがわかったならば、弟子たちはきっとそれを阻止したに違いないのです。どうしてそれを明らかにしなかったのでしょうか。このように言うことによって、ユダが思いとどまることを期待したのでしょうか。

イエス様の右隣には、弟子たちの一人でイエスの愛しておられたものが食事の席についておられた、とあります。これが誰なのかははっきり言われていませんが、ヨハネであろうと言われているのが通説です。イエス様から特別に愛されている弟子でした。この弟子はイエス様の右側におり、イエス様の胸元に寄りかかっていたのです。その弟子に対して、ペトロは、その裏切ろうとしているのが誰なのか尋ねるように合図を出しました。この弟子が、ペトロの合図を受けて、「主よ、それは誰の事ですか」と尋ねたのです。するとイエス様は言いました。「私がパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられ、パン切れを浸して取り、イスカリオテのユダにお与えになったのです。

この事は、ユダがイエス様のすぐ隣にいたことを意味しているのです。ヨハネがイエス様の胸元に寄りかかっている状態で、イエス様がパン切れを与えられるのは左隣の人しかいないのです。このことは特別の意味があります。主賓の左隣に座ることが出来ると言うのは、非常に名誉なことであり、しかもその人からパン切れをいただくと言うのも特別の事なのです。イエス様は、裏切ろうとしているユダに対し、どうしてこれほどまでの名誉のもてなしをしたのでしょうか。左側に座らせるということをしたのでしょうか。裏切りの汚名を受け取るユダに、憐みを感じたのでしょうか。

ところが、イエス様のパン切れを受け取ると、ユダの中にサタンが入り込みました。そして、イエス様はユダに「しようとしていることを、今すぐしなさい」と、彼に言われたのです。弟子たちはなぜイエス様がユダにこう言ったのかわかりませんでした。何か特別の用事を言われたのかと、思ったのです。イエス様はユダが裏切ることを知っていてこういわれたのですが、ユダも弟子たちもイエス様が、ユダに必要な仕事をさせるためにこう言われたと思いました。ユダ自身はこの機会に裏切ろうとしていたのです。

 弟子たちもユダもみんな裏切り者です。どの弟子たちもイエス様を置いて逃げたのですから裏切り者です。特にペトロは、イエス様を知らないと言ったのですから、本当の裏切者です。ですがユダほどには裏切者とは言われません。それはユダが、確信犯であり、計画的な犯行だったからです。ペトロや弟子たちは、恐れに捉われた一時的な裏切りだったので、許されるのです。それは誰にでもあるからなのです。確信犯のユダは、ある意味で、その晩餐の席から追い出されたのです。

 ユダがその晩餐の席から出ていくと、イエス様はついに語るべき時が来たという風に語り始めました。

「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。」と言ったのです。

 なぜイエス様は、この悲惨なことを栄光と言ったのでしょうか。しかもユダが出て行ってすぐに、「いまや人の子は栄光を受けた。」と言ったのです。ユダが、この晩餐の席から出ていくことによって、イエス様の十字架の死は確定したのです。イエス様は、最後までユダを憐れんで、この裏切りを思いとどまらせようとしたのかもしれません。ですが、イエス様は「しようとしていることを、今すぐしなさい」と言い、ユダが出て行ったことで、このことは決定的になったのです。もう後戻りはできなくなったのです。イエス様にとっての栄光とは、愛する者のために最大の犠牲を払うことなのです。犠牲は栄光なのです。その犠牲は永遠に人々の心にその人を留めるから栄光なのです。イエス様が、その命を投げ出して犠牲としてささげたのはまず第一に愛する神様のためなのです。イエス様は、「私は命を捨てるので、神様が愛してくださる。」と言っています。神様に対して犠牲となる事ほど、その愛を表すものはなく、栄光となるものはないのです。それは人間に対しても同じです。母親が、子供のために命を投げ出して犠牲になるほど愛を表すものはなく、母親としての栄光を現すものもないのです。イエス様は、その神様のために犠牲をささげるので、神様は人の子によって栄光をお受けになったのです。そして神様がイエス様にその栄光をお与えにもなったのです。

 そしてイエス様は、ここで本当に遺言を弟子たちに与えたのです。これは本当に遺言と言える言葉なのです。そしてそれは私たちに対する遺言でもあるのです。34節と35節です。

ヨハ 13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

ヨハ 13:35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

 イエス様の遺言は、互いに愛し合いなさいと言うことでした。ですが、これは新しい戒めでもなく、イエス様だけの言葉でもありません。旧約聖書にも書いてありますし、世界中の宗教のほとんどが、この愛し合いなさいと言うことを教えています。それでは何が新しい掟なのでしょうか。それは、その言葉の前に「私があなた方を愛したように」と言う言葉が付くことです。世の中の多くの宗教の中でも、道徳の中でも、イエス様のように、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と教えた人はいなかったのです。私たちが愛し合うのは、自分なりの愛し合い方でも、何かで教えられた愛し方でもなく、イエス様を模範とする愛なのです。それは第一義的にはイエス様が神様を愛したように、命まで神様にささげて愛したような愛であり、栄光にいたる愛なのです。第二義的にはイエス様が私たちを愛したように愛することなのです。イエス様が教えてくれた「愛する」ということは、イエス様が模範を示されたような愛なのです。その愛の実践を、私たちへの遺言として残されたのです。そして、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」と教えてくれました。私たちは互いに愛し合うことによって、イエス様の弟子となるのです。知識でも教養でも他の善行でもなく、私たちに必要なただ一つの事は互いに愛し合うものとなって、イエス様の弟子となる事なのです。

 イエス様が、『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』と言う言葉を引用したことにより、弟子たちは不安になりました。弟子たちはまだ、この言葉がイエス様の遺言であるとは思っていないのです。どこかに行ってしまわれるのかもしれないと思っているのです。それで、ペトロはこう言いました。「主よ、どこへ行かれるのですか。」この言葉は小説や映画にもなった、有名な言葉です。本や映画では「クウォ・バディス」と言う題名で知られ、その言葉のまま訳せば「クウォ・バディス・ドミネ」と言う言葉になるのです。この物語では、ネロの時代にキリスト教徒への迫害がひどくなり、ペトロがローマを夜になって逃げだし、明け方の街道を歩いていると、イエス様が反対方向からローマの方向へ歩いていたのです。それで、ペトロは「主よ、どこへ行かれるのですか」とこの言葉を言うと、「あなたが私の民を見捨てるなら、私はもう一度十字架にかかろう。」と言ったのです。この後、ペトロは気を失って気が付いた時、迷うことなくローマにもどり、十字架にかけられて、死んだのです。このように、この言葉は、私たちが、犠牲を嫌がって逃げるときに、イエス様が私たちの代わりに犠牲になりに行くことを示唆する言葉となっています。

 この時はペトロが「主よ、どこへ行かれるのですか。」と言うと、イエス様は「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」と言いました。ペトロはそれでも聞き分けることが出来なくて、こう言ったのです。37節と38節です。

ヨハ 13:37 ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」

ヨハ 13:38 イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

 ペトロは、イエス様のためなら命を捨てると言いました。それほどイエス様を愛していたのです。ですがそれでも人間というものは分からないのです。恐怖のために思いもよらないような行動をとってしまうのです。イエス様はそれを知っていました。ユダは欲望のためにイエス様を裏切ったのかもしれませんが、ペトロは恐れのためにイエス様を裏切ってしまうのです。それをイエス様は予告して言ったのです。「はっきり言っておく、鶏が鳴くまでに、あなたは3度私の事を知らないと言うだろう。」人間には確かなものはないのです。自分こそは大丈夫だと思っても、すぐに崩れてしまうものなのです。確かなものは神様と共にあります。神様に支えられてこそ、私たちは確かな信仰を持つことが出来ます。

ユダは裏切ってしまいました。イエス様の予告や、憐みにもかかわらず、自分の思いで裏切ってしまいました。ですがイエス様はそのことを、栄光を受けたと言いました。神様のために犠牲になる事は大いなる栄光なのです。そして、イエス様は、ペトロにもあなたも私を裏切るだろうと言いました。ペトロはそんなことはない、命を捨てでもあなたについていきますと言ったのにもかかわらず、私を3度知らないと言うだろうと言いました。

私たちは、どんなに自分だけは大丈夫だと思っても、弱いものです。神様の助けがなければすぐに崩れてしまい、裏切ってしまう弱いものです。私たちを支え、強くしてくれるのは信仰です。信仰に立ってこそ、困難にも、苦しみにも、悲しみにも立ち向かっていく力が与えられます。死にさえも、立ち向かうことが出来るのです。それをイエス様は手本として私たちに示してくださったのです。私たちはそのイエス様に倣って、互いに愛し合い、そして信仰によって、困難を乗り越えて生きていくものなのです。そして死をも超えた栄光を受け取ることが出来るのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

 天の父なる神様。あなたのみ言葉に感謝いたします。イエス様は私たちに愛することを教えられました。私が愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさいと教えられました。私たちはイエス様に倣って、イエス様が愛したような愛を行うことが出来ますように。私たちの周りには誘惑や恐れがいつも付きまとっています。自分では大丈夫だと思っても、思いもよらない弱さを示してしまいます。神様。どうかイエス様に倣って歩んでいくことが出来ますように、イエス様が私たちのために死んでくださり、その愛を示してくださったように、私たちもイエス様に倣って、その愛と勇気とを示すことが出来ますように。もうすぐクリスマスですが、どうか、あなたの恵みと導きが世界中の上にあり、平安と喜びへと導かれますように。どうか世界が平和で、祝福に満たされるものとなりますように。

この祈りを、主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

 


<<聖書の箇所(新約聖書:ヨハネによる福音書)>>

◆裏切りの予告

ヨハ 13:21 イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」

ヨハ 13:22 弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。

ヨハ 13:23 イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。

ヨハ 13:24 シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。

ヨハ 13:25 その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、

ヨハ 13:26 イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。

ヨハ 13:27 ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。

ヨハ 13:28 座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。

ヨハ 13:29 ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。

ヨハ 13:30 ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。

◆新しい掟

ヨハ 13:31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。

ヨハ 13:32 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。

ヨハ 13:33 子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。

ヨハ 13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

ヨハ 13:35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

◆ペトロの離反を予告する

ヨハ 13:36 シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」

ヨハ 13:37 ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」

ヨハ 13:38 イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」