家庭礼拝 2013年12月11日 ヨハネ13章1-20 弟子の足を洗う

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今日の場面は、共観福音書に比べてわかりにくいですが、最後の晩餐の場面です。過ぎ越し祭の前の夕食の時の話なのです。この最後の晩餐をする前にいったい何が起こっていたのかと言うのはとても興味深いことです。イエス様はすでに、十字架の死を通して、神様のもとに帰られるという覚悟をしていました。その時ユダは、悪魔によって、イエス様を裏切る考えを持っていました。それでは弟子たちはどうだったのでしょうか。ヨハネの福音書には書かれていないのですが、ルカ福音書の22章24節からは興味深いことが書かれています。それは、使徒たちの間に、自分たちのうちで誰が一番偉いだろうか、と言う議論が起こっていたというのです。いったいなぜこんな議論になってしまったのでしょうか。イエス様が、もう死のうと決意されているときにどうしてこんなことになるのでしょうか。弟子たちは、イエス様と共に死を覚悟してエルサレムに入り、神殿から商人達を追い出して、神殿で権威をもって教えられ、祭司長、律法学者、長老たちさえも議論で打ち負かしてきたので、有頂天になっていたのかもしれません。いよいよイエス様の時代が到来する。いよいよ夢を見ていた時が来たのだと思ったのかもしれません。そして、その新しい王国の中で、だれがより高い地位につけるのかを争い始めていたのです。

そのような中で、ユダだけが、イエス様が何をしようとしているのかを理解し、何が起ころうとしているのかを冷静に理解していたのかもしれません。そのイエス様の進む先には、自分の計画していた希望がないことを悟っていたのです。

さて、聖書は、この時、最初にイエス様の状況とユダの状況を語っています。1節2節です。

ヨハ 13:1 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。

ヨハ 13:2 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。

 過ぎ越し祭の前の日ですから、これが最後の晩餐となります。イエス様はすでに、ご自分が栄光を受けられて、神様のもとに帰る時が来たことを悟っておりました。そして弟子たちとの別れを惜しんで、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と書かれています。イエス様の愛はあふれるばかりになり、弟子たちにしてあげられることは何でもしてあげようと思っていたのです。このような愛の光に満ちたイエス様の反面、イスカリオテのユダには悪魔が入り込みました。闇が迫ったのです。そしてイエス様を裏切る考えを抱かせました。人間的にはこのユダの行動をいろいろ解釈できるでしょう。イエス様が、政治的なメシアとして立ち上がろうとしないことに失望して、裏切る決心をしたのだとか、イエス様を窮地に陥れることによって、イエス様がローマと戦わざるを得ないようにしたのだとか、イエス様自身がこのユダを用いて、裏切らせたのだとか、いろいろ解釈はできます。ヨハネによる福音書ではこのことを、悪魔がユダに、イエス様を裏切る考えを抱かせたのだ、と理解しました。それ以外の事は考えなかったのです。これは悪魔の仕業と言うのです。

ルカによる福音書では、この食事の前に、弟子たちの間で、だれが一番偉いのだろうかと言う議論が起こっていたのですが、イエス様はこのような出来事をうけて思いもよらない行動を行ったのです。3節から5節です。

ヨハ 13:3 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、

ヨハ 13:4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。

ヨハ 13:5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。

 イエス様は弟子たちに大切な事を教えようとしていました。もうすぐ神様のもとに帰られる前に、イエス様は身をもって教えようとしたことがあったのです。イエス様は食事の席から立ち上がって上着を脱ぎました。そして手拭いを取って腰につけました。それからたらいに水を汲んで、弟子たちの足を洗い、腰にまとった手拭いで拭き始められたのです。

よく言われるように、この足を洗うという勤めは奴隷が行う仕事なのです。弟子たちは自分たちの中で誰が一番偉いかなどと話をしているので、だれもそのような卑しい仕事を進んでする人はなかったのです。ところがその仕事を、イエス様自身が行ったのです。弟子たちはあっけにとられて、驚いて声も出なかったのではないのかと思います。

 そして、順番にシモン・ペトロのところまで来たときに、ペトロはやっと言葉を発しました。6節から8節です。

ヨハ 13:6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。

ヨハ 13:7 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。

ヨハ 13:8 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。

 この足を洗うという話には二つの意味があります。一つは文字通り、イエス様が身を低くされて、弟子たちの足を洗ったという事実です。ですが、ヨハネはここにもう一つの意味を込めました。それは洗礼と言う意味です。ペトロにはその二つ目の意味が分かりませんでした。それで、ペトロは「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言い、それはとても恐れ多い事であり、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言ったのです。それは弟子たちの誰もが思ったことだと思います。ですがそれを口に出して言えたのはペトロだけなのです。イエス様は、ペトロに「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われました。私たちがイエス様の事を本当に理解できるようになるためには聖霊の助けが必要なのです。人間的な理解でできる範囲もありますが、イエス様を本当に理解するためには聖霊の助けが必要なのです。ですが聖霊はまだ下っていませんでした。ですから、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われたのです。聖霊が下ってから理解できるようになると言われたのです。ヨハネはそのことを後になって、気が付かされたのです。

 そのようなことを理解できず、ペトロが「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられました。これはこの足を洗う行為を、洗礼と言う意味に捕えないとなかなか理解できない言葉です。私たちは洗礼を受けることによって、清められ、イエス様とつながっていることが出来るのです。洗礼を受けないものは、いくら学んでも、イエス様とはかかわりないことになってしまうのです。そういわれると極端に走ってしまうのがペトロの特徴です。9節ではこう言いました。

ヨハ 13:9 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」

ヨハ 13:10 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」

ヨハ 13:11 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。

 ペトロは、イエス様が、あなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わり合いもないことになる」と言われると、「主よ、脚だけでなく、手も頭も」と言いました。ペトロにしてみれば、イエス様との関わり合いが洗うことで強くなるならば、脚だけでなくても頭もみんな洗ってもらって、イエス様との関わり合いを深めたい、強めたいという思いだったのだと思います。するとイエス様はこう言ったのです。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」と言いました。この時代は宴会に招待された時は、出席する前に沐浴して体を清めてから行くのですが、歩いていく途中に足が汚れてしまうので、最後にその家に着いた時には足を洗ってもらうのだそうです。このように体は自分で洗い、最後に足だけ、洗えば全身清くなると言うのです。この弟子達もまた、最後に足だけ洗えばよい状態になっていたのです。

 驚くべきことですが、この足を洗った弟子たちの中にはイエス様をすでに裏切ろうとしているユダもいたのです。イエス様はそのことを知っていましたが、そのユダの足をも身を低くして洗ったのです。ですが、イエス様は、最後に、「皆が清いわけではない」と言ったのです。イエス様はこのように、イエス様を裏切ろうとしているユダをも受け入れて足を洗っているのです。

 イエス様は、この足を洗う仕事を終えられると席に着き、そのことの意味を知らせました。こう言ったのです。14節から17節です。

ヨハ 13:14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。

ヨハ 13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。

ヨハ 13:16 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。

ヨハ 13:17 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。

 イエス様はこの出来事の意味を簡単に分かりやすく言いました。それは、これが模範であるということです。主であり、師である私があなた方の足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗い合わなければならないということです。どちらが偉いかなどと競い合うのではなく、イエス様が行ったように、足を洗い合いなさい。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしないのだから、その通りに実行しなさい。そうすることが幸いなのである、と言ったのです。イエス様が弟子たちに言い残した大切な言葉は、イエス様に倣いなさい。互いに足を洗いなさいと言う事なのです。

 そして最後にこう言い付け加えました。それは、「わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。」と言うことでした。イエス様は弟子にしたユダが裏切ることを知っていました。それは聖書の言葉が実現しなければならないからだと理解していたのです。そしてこう言ったのです。「はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」ユダは結局、イエス様を受け入れることが出来ませんでした。そして裏切ったのです。

イエス様は、弟子たちが自分たちの中で誰が偉いのかと言い争っている中で、身をもってどうすればよいのかの模範を示されました。それは偉くなろうとするのではなく、自ら進んで、卑しい仕事に奉仕する姿でした。そしてイエス様は、このようにしなさいと教えられたのです。ですが、ユダはイエス様の模範に従うのではなく、自分の考えに従ってしまいました。自分のほうを偉いと思ってしまったのです。そしてイエス様を裏切ることになってしまいました。このことは私たちが、何かを決断するときに、イエス様のなさるようにしようと決断するのか、自分の考えの損得で決断するのか、それによって、イエス様の弟子となるのか、悪魔にそそのかされているのかが決まってしまうのです。私たちは、何も難しい考えや、方法を選ぶ必要はないのです。ただイエス様が行ったように、教えて下さったように行えばよいのです。イエス様に従おうとすればいいのです。それは愛と慈しみに満ちたやり方なのです。 

 

 

(一分間黙想)(お祈り)

 天の父なる神様。私たちは自尊心にとらわれたり、損得にとらわれたりして、イエス様がなさったような、自分を低くしての奉仕が出来ないものです。しようと思っても躊躇してしまいます。ですがイエス様は自ら模範を示してくださって、このようにしなさいと教えてくださいました。それは足を洗うだけではなく、その生涯がそのように教えて下さっています。十字架の死に至るまで、私たちにその愛に生きる姿の模範を示されました。そのイエス様を受け入れるものは神様をも受け入れるものだとおっしゃりました。勇気がなくて、出来ないこともありますが、神様どうか、あなたが私たち一人一人を導いてくださって、イエス様に倣うものとさせてください。考えることによって迷うよりも、何も考えずにイエス様に従うことが出来ますように。この祈りを、主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

 

 


<<聖書の箇所(新約聖書:ヨハネによる福音書)>>

◆弟子の足を洗う

ヨハ 13:1 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。

ヨハ 13:2 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。

ヨハ 13:3 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、

ヨハ 13:4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。

ヨハ 13:5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。

ヨハ 13:6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。

ヨハ 13:7 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。

ヨハ 13:8 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。

ヨハ 13:9 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」

ヨハ 13:10 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」

ヨハ 13:11 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。

ヨハ 13:12 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。

ヨハ 13:13 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。

ヨハ 13:14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。

ヨハ 13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。

ヨハ 13:16 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。

ヨハ 13:17 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。

ヨハ 13:18 わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。

ヨハ 13:19 事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。

ヨハ 13:20 はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」