家庭礼拝 2013年12月4日 ヨハネ12章37-50 イエスの言葉による裁き
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起
先週もお話ししましたが、イエス様の民衆に対する宣教は前回の場面で終わりました。これからはいよいよ受難の時となります。イエス様の今まで行ってきた民衆に対する宣教は一体どうだったのだろうかと総括しているのが今日の聖書の箇所と言って良いのかもしれません。先に結論を言ってしまえば、37節にあるように、「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。」と言うのがその総括となります。イエス様は、ユダヤ人たちの非難や、殺意の前でも、たじろぐことなく、多くのしるしと癒しを行い、多くのみ言葉を語りました。ですが、彼らはイエス様を信じなかったのです。なぜこんなことになってしまったのでしょうか。神様はどうしてイエス様を助けてくれはしなかったのでしょうか。それに対して、ヨハネはイザヤの預言の言葉をもってこれを説明しようとしたのです。それはイザヤの予言が実現するためであったと言うのです。
このように、今日の聖書の箇所は、イエス様の宣教活動が終わって、その総括的な考えをヨハネが述べている箇所なのです。あらかじめまとめて言えば「イエス様は、宣教のため、多くのしるしを行って人々の前に現れたが、人々はイエス様を信じなかった。それは、イザヤの予言が成就するためであった。イエス様は、その信じなかった人々を裁かないが、イエス様の語った言葉自身がその人々を裁くようになるだろう。」と言うのがその総括的な考え方なのです。
承
さて、ヨハネは、人々がイエス様を信じなかったのは、イザヤの予言が成就するためであったと言いました。それは、37節、38節に書かれています。
ヨハ 12:37 このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。
ヨハ 12:38 預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」
イザヤもまた、多くの非難と殺意の中で、神様の言葉を語り続けたのです。ですがそれは良くなるどころかますます悪くなるような状況でした。そして自分のやっていることが果たしていいのだろうかと言う傷ついた心で、このように叫んでいるのです。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」これは事実を言っているよりも、イザヤの嘆きなのです。その嘆きはついにイザヤにこのように言わせました。39節と40節です。
ヨハ 12:39 彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。
ヨハ 12:40 「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」
イザヤは、自分がどんなに頑張ってみても人々に神様の言葉を信じさせることが出来なかったことについて、いろいろ考えた挙句、このような結論に達したのです。それはイザヤの心が疲れ果て、傷つけられてどうしようもない気分で言ったのです。それは、彼らが信じないのは、神様がそのようにしたのだ。神様は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされたのだ。彼らが目で見ることなく、心で悟らず、神様のもとに立ち返らないのは、神様自身が彼らを癒さないとしたからなのだ。そのように考えざるを得ないような気分だったのです。ヨハネは、このイザヤの言葉を、イエス様に対する預言と受け取りました。人々がイエス様を信じることが出来なかったことを、神様がそのようにしたのだと理解したのです。
ですが、すべての人が信じなかったわけではなくて、イエス様を信じる人々もいたのです。議員たちの中にも、イエス様を信じる人々は多かったのです。ですがその人々は、臆病でした。イエス様を信じていると公に言えば、会堂から追放されるのではないかと恐れ、ファリサイ派の人々から非難されるのではないかと恐れて、公には言い表せなかったのです。結局彼らは、神様の側に立つよりも、人間の側に立つことを選んだのです。神様がどんなに恵みを与えてくれると言っても、今持っている恵みを他の人から奪われることを恐れたのです。どんなに立派な信仰を持っているといっても、最後の土壇場で、神様の側につくのか人間の側につくのかでその人の信仰は試されるのです。この世の平和、安全、喜びを神様よりも優先させるならば、私たちは神様の側に立つことはできないのです。そしてそれは、神様の恵みにも、与ることが出来ないということなのです。隠れクリスチャンは結局、本当の信仰を持つことはできません。私たちが本当の信仰を持つためには、人々に批判されても、奪われても、毅然として神様の側に立つ信仰が大切なのです。
転
次の44節から50節は、イエス様が語った言葉として伝えられています。ですが、イエス様は立ち去って、彼等から身を隠してしまわれたのですから、どこで語ったのでしょうか。イエス様がどこか別の所でこのようなことを語ったのでしょうか。それとも、ヨハネがイエス様の言葉を借りて、イエス様がこのことを総括するならば、このように言うだろうということを予想して書いたのではないかと思います。それはイエス様が何度も語っていることでした。ここにはこう書いてあります。
ヨハ 12:44 イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。
ヨハ 12:45 わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。
ヨハ 12:46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。
ヨハ 12:47 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。
ヨハ 12:48 わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。
ヨハ 12:49 なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。
ヨハ 12:50 父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」
ここには、ヨハネがこの福音書の中で繰り返し語っていることが要約されています。それは5つの事に要約されます。
@ イエス様を信じるものは、イエス様を遣わされた神様を信じる。
A イエス様は人の心の闇の中に、光としてやってきた。
B イエス様は裁かない。イエス様は世を裁くためではなく、世を救うために来られた。
C イエス様の言葉を受け入れないものは、そのイエス様の言葉が終わりの日にそのものを裁く。
D イエス様の語る言葉は、神様の命じられたままに語っている言葉である。
ここで語られていることの中で、先ほどのイザヤの言葉としっくりこないところがあるのです。それは、イザヤの言葉が、「人々が信じないのは、神様が人々を信じないようにさせたからである。」と言っているのに対して、イエス様は、「私は世を裁くためではなく、世を救うために来たのである。」と言っていることです。確かに、イザヤの言葉にあるように、ユダヤ教の中にも、キリスト教の中にも、神様の了解なしには何事も起こりえず、すべての出来事には神様の計画がある、と言うのも確かなことです。ですがイエス様は、世を救うために来られたのです。たとえ信じない人々がいたとしても、その人々の救いのためにもやってこられたのです。ですから、イザヤの言うように、信じない人々がいるからと言って、その人々は神様から信じないようにされていると、決めつけることはできないかもしれません。今は、信じないようにされているように見えるかもしれないが、その神様の深いご計画の中でその不信仰をも用いられて、すべてが救いの計画の内にあると考えるほうが、イエス様の教える神様の計画に従うものではないかと思います。イザヤの言葉は誰も信じてくれないという傷ついた心の中でつぶやいた言葉であるように思うのです。
もう一つ分かりにくい言葉があります。それは、「イエス様は裁かないが、イエス様の言葉が終わりの日に裁く」と言う言葉です。イエス様が裁かないと言うのは、私たちがいかに不信仰であろうと、いかに罪深いものであろうと、あなたは不信仰だ、あなたは罪人だ、とは裁かないということです。イエス様が裁かないのに、イエス様の言葉が裁くと言うのは、イエス様の語った言葉が、私たちの内に留まって、神様の言葉として、聞こえてくるということではないかと思います。その言葉が、私たちに、自分の不信仰を知らせ、罪を知らせて、結局は自分で自分を裁くということになるということだと思います。イエス様の言葉を、神様の言葉として受け入れた時は、そのようなことが起こってしまうのだと思います。そしてそれが起こるのが終わりの日にであるということは、終わりの日には、イエス様のみ言葉が神様のみ言葉であることをはっきりと知ることになるということだと思います。
いずれにしても、大切な事はイエス様を信じることは神様を信じることであり、イエス様の言葉は、神様の語った言葉であるということです。そのイエス様は裁くためではなく世を救うために来られたということを私たちが信じるかと言うことです。
結
私たちは、なかなか神様を信じることが出来ません。信じたとしても、公に言い表すことが出来ません。世の中の抵抗に逆らってまで、神様の側に立つことが出来ません。世の中の顔色を見ながら、自分の損得を考えながら、神様と世の中との中間に立って、様子を見ているような信仰なのです。イザヤは神様の言葉を伝えましたが、だれも信じないので嘆きました。イエス様も、多くのしるしを行いましたが、それでも人々は信じませんでした。ですがそのような私たちのために命を投げ出してくれたのがイエス様です。イエス様は現れました。そしてみ言葉を与えてくれました。そのみ言葉の前で、私たちはそれを信じるかと問われているのです。み言葉に対する態度が、私たちを裁いているのです。私たちには信仰的な決断が求められているのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、私たちの不信仰をお許し下さい。私たちはあなたの側にしっかりと立つことが出来ず、この世の誘惑に惑わされて、フラフラと生きているものです。ですが、イエス様の姿とみ言葉が私たちに信仰的な決断を迫ります。あなたはこれを信じるかと、問いかけてきます。神様どうかこの問いかけに目をそらすことなく、心を迷わせることなく、ただあなたの側に立って、信じていくことが出来ますように。信じない者ではなく、思い残すことなく信じるものとなる事が出来ますように。
この祈りを、主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:ヨハネによる福音書)>>
◆イエスを信じない者たち
イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。
ヨハ 12:37 このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。
ヨハ 12:38 預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」
ヨハ 12:39 彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。
ヨハ 12:40 「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」
ヨハ 12:41 イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。
ヨハ 12:42 とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。
ヨハ 12:43 彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。
◆イエスの言葉による裁き
ヨハ 12:44 イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。
ヨハ 12:45 わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。
ヨハ 12:46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。
ヨハ 12:47 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。
ヨハ 12:48 わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。
ヨハ 12:49 なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。
ヨハ 12:50 父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」