家庭礼拝 2013年11月27日 ヨハネ12章20-36 人の子は上げられる

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今日の聖書の箇所は、共観福音書には載っていません。反対に、共観福音書に書いてある、ゲッセマネの祈りはヨハネの福音書には書いてありません。ですが、それに相当する言葉が今日の聖書の箇所に書いてあるのです。今日の聖書の箇所は、イエス様が、民衆の前で公に語りかけた最後の場面となります。この後もイエス様の言葉はいろいろ出てきますが、民衆に語り掛ける言葉としては今日が最後となるのです。

今日の聖書の箇所にはギリシャ人が出てきます。この話は、ヨハネの福音書らしいことを表しています。それは、ヨハネによる福音書は、もともとギリシャ人のために書かれた福音書なのです。ギリシャ人や異邦人にもわかりやすく語りかけている福音書なのです。ですから、その書き出しも「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。」とはじまるように、ギリシャ人に受け入れやすい表現で始まっているのです。

今日の箇所で、ギリシャ人が何気なく出てきますが、これが実にイエス様の十字架へのトリガーになっているのです。ギリシャ人が訪ねてきたことによって、ついにその時が来たとイエス様は悟られたのです。ギリシャ人が訪ねてきたというのは、異邦の民にも本格的に神の国が伝えられ始めたことを表すものであり、これを読むギリシャ人にとっては、自分たちとイエス様との関係を知る手がかりとなる箇所なのです。

うがった見方なのかもしれませんが、このギリシャ人の話にはこんな説もあります。それは、イエス様がユダヤ人たちに殺されるかもしれないといううわさを聞いたギリシャ人たちが、イエス様を救い、その教えをギリシャに広めるために、ギリシャに来て伝道してくれと頼みに来たというのです。これはイエス様にとって、死なずに済むかもしれないという誘惑なのです。それに対して、イエス様は、ついにこの時が来た、私はこのサタンの誘惑に勝って栄光を表す、と言うのがこの場面だというのです。私にとっては、この説も妙に納得してしまう説なのです。

何人かのギリシャ人がフィリポのもとに来て「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼みました。きっとフィリポと言う名前がギリシャ人と同じ名前なので、話しやすかったのかもしれません。フィリポは直接イエス様に話さないで、アンデレに言いました。アンデレはよく人をイエス様に紹介する人でした。ペトロをイエス様に紹介したのもアンデレです。アンデレはフィリポを連れてその話をイエス様に伝えたのです。そしてその時に、イエス様はこう言ったのです。23節から26節です。それは、ご自分の死を決意する言葉でした。

ヨハ 12:23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。

ヨハ 12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

ヨハ 12:25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

ヨハ 12:26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

イエス様は、ギリシャ人が会いに来たと言うだけで、「人の子が栄光を受けるときが来た。」とはっきり言いました。その栄光の時とは、十字架の死の時です。イエス様は、ギリシャ人が会いに来た時がその時であると、神様から告げられていたのかもしれません。そしてこう言ったのです。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」この言葉はイエス様の非常に有名な言葉です。イエス様の生涯を表す言葉でもあり、アンドレ・ジイドの自伝にも「一粒の麦」と言うタイトルの本があるくらいです。死を、それで終わりのものとしてとらえるのではなく、再生するために一度死ぬ、またはさらに多くの命に生きるために、死を通って行く、と言う理解の死なのです。現代人はなぜか死んだらおしまいだという考えに取りつかれています。ところが、神話的な世界では、古事記などの日本の神話でさえも死は終わりではなく、新しい命の初めなのです。非常にダイナミックな死生観なのです。死ねば多くの実を結ぶという希望を持った死なのです。そしてこう言いました。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」このことの意味は、死なない者、すなわち自分の命を愛するものは、結局は本当の命さえも失ってしまうが、この世の命を惜しまず、それを捨てようとさえするものは、本当の命を保って、永遠の命にいたることが出来るということです。命には、この見かけの命と、本当の命があるのです。イエス様はこの本当の命に生きるために、見かけの命にこだわってはいけないと言っているのです。そして突然話題を変えたようにこう言いました。「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」これは話題を変えたわけではなく、これもまた永遠の命の事を言っているのです。すなわち、たとえイエス様が死んだとしても、イエス様は永遠の命の中に生きているのだから、イエス様に従うものは、ともにその永遠の命の内に生きることが出来ることを言っているのです。

 ですが、イエス様の語る言葉は突然、不安を帯びたものに変わります。27節と28節です。

ヨハ 12:27 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。

ヨハ 12:28 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」

 イエス様は、その時苦しんでいたのです。そして、私をこの時から救ってくださいと、祈り求めたいような不安にとらわれたのです。ですが、イエス様は、自分を取り戻して、私はまさにこの時のために来たのだ、と言うのです。イエス様は、「父よ、御名の栄光を現してください」と言いました。この栄光とは十字架の栄光です。何か他に素晴らしい出来事が起こる事ではないのです。そして天から聞こえる神様の声もそれに答えました。私はすでに栄光を表したと、それは、イエス様のこれまでの奇跡の人生です、この世に生まれたということです。そして再び栄光を現そうというのは、十字架の栄光の事です。

 ヨハネ福音書にはゲッセマネの祈りの事は書かれておりませんが、この場面はまさにゲッセマネで起こった出来事とそっくりなのです。マルコによる福音書の14章36節にはこう書かれています。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私が願うことではなく、御心にかなうことが行われますように。」表現こそ違いますが、イエス様に起こったことは、まさにゲッセマネで起こったことと同じことなのです。

 神様がイエス様に応えた時、そばにいた群衆は雷のような音を聞きました。ある人たちは、天使がこの人に語り掛けたのだと言いました。イエス様は、「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。」と言いました。それは神様がイエス様の言葉に応えられたことを人々が知るようになるためでした。後になって、あのとき神様が答えていたのだと知るためだったのです。そしてこう言ったのです。31節と32節です。

ヨハ 12:31 今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。

ヨハ 12:32 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

 この言葉もまた、非常に逆説的で、理解しにくいのです。今裁かれて十字架につけられ殺されようとしているのはイエス様なのですが、イエス様の理解はその反対なのです。イエス様が死ぬということは、イエス様を殺そうとしたこの世が神様によって裁かれていることであり、この世の支配者が追放されようとしていることなのだということなのです。すなわち、死んでしまうはずのイエス様が支配するものとなり、地上から上げられるとき、すなわちイエス様が死ぬときには、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう、救いを実現しよう、と言っているのです。このことを福音書を書いたヨハネは、「イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。」と説明しているのです。それは、殺されておしまいの死ではなく、神様と伴にこの世を裁き、人々に救いをもたらす栄光の死であるということになるのです。

 ところが群衆にはそのイエス様の言われることは理解できませんでした。そして、「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」と質問したのです。あなたがメシアならば、死ぬはずはないではないかと言ったのです。ですがイエス様はそれには答えずにこう言ったのです。35節と36節です。

ヨハ 12:35 イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。

ヨハ 12:36 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」

 イエス様は、光のあるうちに光を信じなさい、と言いました。信じるにも時があるのです。その時を失うと、信じることが出来なくなり、闇に追いつかれてしまい、迷いの中に生きることになるのです。これは今の私たちにも言えることなのです。私たちの周りには、イエス様を語る、光が小さいながらもともっているのです。その光を見つけて信じるものは光の子となる事が出来るのです。ですがその光も消えてしまうときがあるのです。その時には闇を歩かなければなりません。イエス様は、光のあるうちに光を信じなさいとすすめているのです。

 イエス様は、ギリシャ人が来たことを契機に、いよいよご自分の栄光の時、十字架の死の時が来たことを知りました。ですがそれは栄光の時とは言っても不安な出来事でした。イエス様は神様に、『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言いたい気持ちだったのです。ですが、イエス様は、ご自分の使命を思いだし、神様の御声を聞きました。そしてその栄光を受ける覚悟を固められたのです。そして人々には、その光がなくなる前に、光のあるうちに光を信じなさいと言い残しました。これがイエス様が人々に語った最後の言葉となるわけです。イエス様はこれらの事を話してから、立ち去って、彼等から身を隠されたのです。ですからこれが群衆への遺言のようなものなのです。


(一分間黙想)(お祈り)

 天の父なる神様、イエス様は、ご自分の栄光の時がやってきたことを知りました。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶと言う例えをもって、ご自分の死を語られました。それはイエス様と言えども、不安な出来事でした。ですが、わたしはまさにこの時のために来たのだと確信し、神様のみ言葉を聞いたのです。そして私たちに言い残したみ言葉は、光のあるうちに光を信じなさいと言うみ言葉でした。

 神様、このイエス様の死を覚悟したみ言葉に思いを馳せることが出来ますように。そして、イエス様が一粒の麦として命を捨てられて、多くの命の源になったことを知ることが出来ますように。イエス様が私たちに与えられた、光のあるうちに光を信じなさい、と言う言葉を大切にして、信じるものとなることが出来ますように。そして私たち自身が光を放つ光の子となる事が出来ますように

この祈りを、主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

 

 

<<聖書の箇所(新約聖書:ヨハネによる福音書)>>

◆ギリシア人、イエスに会いに来る

ヨハ 12:20 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。

ヨハ 12:21 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。

ヨハ 12:22 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。

ヨハ 12:23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。

ヨハ 12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

ヨハ 12:25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

ヨハ 12:26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

◆人の子は上げられる

ヨハ 12:27 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。

ヨハ 12:28 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」

ヨハ 12:29 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。

ヨハ 12:30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。

ヨハ 12:31 今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。

ヨハ 12:32 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

ヨハ 12:33 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。

ヨハ 12:34 すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」

ヨハ 12:35 イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。

ヨハ 12:36 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」