家庭礼拝 2013年11月20日 ヨハネ12章1-19 エルサレムに迎えられる
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起
今日のベタニアで香油を注がれる話は、四つの福音書全部に書かれている重要な話です。これはイエス様が十字架につけられる前に、香油を注がれて、葬りの準備がなされたという象徴的な意味で、重要なのです。ですがそれぞれに、微妙に表現が異なっています。香油を注いだのは今日のヨハネによる福音書ではマリアであるとはっきりと書いてあるのに、マタイとマルコ福音書では「一人の女」としてあり、ルカ福音書では「一人の罪深い女」と書いてあるのです。どうして名前を隠しているのでしょうか。イエス様とマリアたち兄弟とはとても親しくしているのに、まるで別人のような扱いにしてあり、聖書を読んだ人は、最初の内はこれらがみな同じことの記述とは思えないのです。
もう一つ不思議なことは、このことが起こった家です。ヨハネ福音書では、そこは「ベタニアにある家」となっており、ラザロとマリアが居り、マルタが給仕しているので、これは当然マルタの家と言うことになります。ところが、マタイとマルコ福音書では、同じベタニアの家でも、「ライ病人シモンの家」となっています。そこには、マルタもマリアもラザロの名前も出てきません。ただ一人の女が高価な香油をもってイエス様に近づいてくるのです。一説では、このライ病人シモンと言うのはマルタの夫であり、すなわち、このシモンの家はマルタの家であるというのです。ルカ福音書では、「ファリサイ派の人の家」と言うことしか書いておらず、ベタニアかどうかも書かれていないのです。ですが、そのファリサイ派の人と言うのはシモンであることがわかります。
全部に共通しているのは、ある女の人が、イエス様に高価な香油を注ぎかけたこと。弟子たちがそれを憤慨したこと。イエス様がその女の人を弁護し、ルカを除く福音書では、それがイエス様の葬りの準備だと言ったことなのです。香油を注ぎかけた場所も、マタイとマルコ福音書では頭に注ぎかけており、ヨハネとルカ福音書で足に注ぎかけているのです。そして、ヨハネ福音書ではその香油を髪で拭い、ルカ福音書では涙で足を濡らしてから髪で拭い、脚に接吻をしてから香油を塗ったのです。
このように、細かいところでは、それぞれの福音書は違ったニュアンスでこの事件を伝えています。ヨハネによる福音書に関していえば、ヨハネはこの香油が注がれた出来事が、ラザロの復活と関連付けて語られているところが、他の共観福音書と全く違うところなのです。ヨハネ福音書にとっては、このラザロの復活、香油の油注ぎ、エルサレム入城、イエスの十字架での死、そして復活が一連の話として語られているのです。
今日のこの香油の油注ぎの出来事で一番大切な事は、この出来事がイエス・キリストの死と復活の予告として告げられていることであり、愛のある行為とは、損得や都合の良し悪しを超えて注ぎ込まれる行為の事であるということです。このことを今日の聖書から聞き取っていきたいと思います。
承
イエス様は、エルサレムで、石で打ち殺されそうになってからは、あまりエルサレムに近づくことをしませんでした。エルサレムに近づいたのはラザロが病気だと知らされたベタニアに行って、ラザロを復活させたときだけでした。ですから、この時イエス様がエルサレムに行くというのは決死の覚悟で行くことだったのです。エルサレム入城と言うと何かお祭り騒ぎのように思えますが、イエス様にとっては死を覚悟した入城だったのです。
多くのイスラエル人と同じように、イエス様は、過越祭をエルサレムで送るために旅をしてベタニアのマルタとマリアの家まで来たのです。それは過越祭の6日前でした。そこにはイエス様が死者の中から蘇らせたラザロもいました。イエス様が来ると夕食が用意され、マルタはその給仕をしていました。ラザロはイエス様と共に食事の席についていたのです。
この時、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった、と書かれています。家は香油の香りでいっぱいになりました。この時代、女の人が髪を結えないで長い髪のまま人前に出ることはありませんでした。それはとてもふしだらな事とみられました。ルカ福音書に書いてある「一人の罪深い女」と言うのは、このように髪を結えないで、長い髪のままで出てくるような女は娼婦であることが多かったからだと思います。なぜマリアは長い髪のままで出てきたのか、それは、この香油がそもそも髪につけてもいいものであり、イエス様とこの香油を共有したいという気持ちがあったのではないかと思います。その香油の香りは家の中に満ちていっぱいになったのです。それはみんなとその良いものを共有できたのです。ところがそれを共有できない人がいたのです。それはイエス様を裏切ることになっていたイスカリオテのユダでした。4節から6節です。
ヨハ 12:4 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。
ヨハ 12:5 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
ヨハ 12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。
ヨハネによる福音書では、ユダに対して非常に厳しい態度で表現しています。ほかの共観福音書ではこの非難をしたのはユダとはなっていないのです。弟子達であるとか、ファリサイ人のシモンであるとかとなっているのです。ヨハネはこの非難をしたのが裏切ったユダであり、さらに彼は盗人で、金入れの中身をごまかしていたとさえ書いてあります。惜しみなく、高価な香油と愛とを注いだマリアの姿勢と、金に汚く、打算的なユダの姿勢とを対比させているのです。そのユダの姿勢はさらに偽善的でした。「どうして貧しい人々に施さないか」とさえ言っているのです。打算的な人間は時として偽善的であり、愛に生きる人は、時として惜しみなく使い果たすのです。このユダの非難に対してイエス様はこういわれました。7節と8節です。
ヨハ 12:7 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。
ヨハ 12:8 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
イエス様は、マリアが意図していないことを言いました。それは、この香油注ぎがイエス様の葬りのために行われたことであると言ったのです。そしてそのことが出来るチャンスは今この時しかなかったのだと言ったのです。愛は惜しみなく注ぎだすので、その一度きりのチャンスに何も意識することなく、すべてを注ぎ込むのです。ですが打算的な人はそれを惜しんで、チャンスを逃すのです。イエス様はマリアの行為を評価したのです。
転
イエス様が、ベタニアのラザロのところにいることを聞いて大勢の人々は押しかけてきました。イエス様目当てだけではなく、死から蘇ったというラザロを見るためでもありました。ラザロによってイエス様の評判はますます高まったので、イエス様を殺そうとしていた祭司長たちにとって、ラザロも目障りな存在となったのです。ラザロのせいで、イエス様を殺しにくくなったのです。それで、イエス様の評判を高めているラザロを先に殺そうと狙い始めたのです。これらの事は、イエス様がエルサレムに入る直前に行われました。ヨハネ福音書にとって、このラザロの復活は、イエス様が大勢の群集に崇められ賛美されながらエルサレムに入るための伏線だったのです。ですがこのことはヨハネによる福音書にしか書かれていません。そしてその翌日イエス様はエルサレムに入ったのです。12節と13節です。
ヨハ 12:12 その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、
ヨハ 12:13 なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」
祭りに来た大勢の群集がイエス様がエルサレムに来た時に、賛美をもって迎えたことをヨハネは伝えています。これはラザロの復活の高まりが、そのままエルサレム入城の高まりへと導かれているのです。ところがマタイにもマルコ福音書にもこのことは記されていません。そしてルカ福音書では、賛美したのは群衆ではなく、弟子達であり、それを聞きとがめたファリサイ派の人々から注意されているのです。ですから、ヨハネ福音書では、特別のシナリオとして、ラザロの復活の話が、そのあとのマリアのナルドの香油の話と、エルサレム入城の話へと、どんどん盛り上げていることがわかるのです。そのような盛り上がりは、イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆が、その証しをしていたからであり、群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである、と記されています。このように、イエス様のエルサレム入城の最高潮に達するピークは、ラザロの復活にその起点を置いているのです。このような言い表し方をしているのはヨハネ福音書だけです。ヨハネは、イエス様がエルサレムに入るときの死を決意した姿に、このような栄光の姿を投射したといっていいのかもしれません。それは救い主である王の姿であり、ロバに乗ってこられる平和の主の姿であると思うのです。それは、ファリサイ派の人々に「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」と言わせるほどの、圧倒的な姿であったと言えるのではないでしょうか。
結
ラザロを復活させ、マリアによって香油を塗られ、死の葬りの準備をされたイエス様は、群衆の賛美の声の中をまっすぐにエルサレムに入っていきました。それはそのまま十字架へとつながる道でした。イエス様はそれを覚悟し、その結末を十分に知っていてエルサレムに入ったのです。その姿はヨハネにとってはまさに凱旋する王様の姿だったのです。すべてを神様にゆだねた姿だったのです。ヨハネはこのイエス様の救い主としての姿を、人々に知らせたかったのです。私たちは、このヨハネ福音書を読むとき、共観福音書には見られない、イエス様の死に向かう覚悟と、ヨハネがそのイエス様に見た王としての姿を、その行間から読み取ることが出来るのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、マリアはその愛を精いっぱい注ぎ込みました。イエス様の姿に何かしら、尋常ならざるものを感じたのだと思います。そしてもしかすると、これが最後かもしれないと思い、その出来る最善のものをささげたのです。何年間も苦労してためてきたナルドの香油でした。それを惜しげもなくイエス様にささげたのです。それをイエス様は、ご自分の葬りの準備と受け取りました。私たちのためにも死んでくださったイエス様のために、私たちは何を捧げることが出来るでしょうか。惜しみなく捧げることが出来るでしょうか。それともユダのように、なんと無駄なことをするのかと思ってしまうのでしょうか。マリアの愛は、イエス様に対して、正しいことを選びました。それはマリアの思いを超えたことでした。イエス様の求めるのはそのような愛であり、イエス様の行ったことは、ご自分の命さえも注ぎだして、人々に仕えることでした。その姿はまさに王様だったのです。私達もまた、この救い主イエス様に王様としての姿を見出すことが出来ますように。栄光と賛美とを捧げることが出来ますように導いてください。
この祈りを、主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:ヨハネによる福音書)>>
◆ベタニアで香油を注がれる
ヨハ 12:1 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。
ヨハ 12:2 イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。
ヨハ 12:3 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
ヨハ 12:4 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。
ヨハ 12:5 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
ヨハ 12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。
ヨハ 12:7 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。
ヨハ 12:8 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
◆ラザロに対する陰謀
ヨハ 12:9 イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。
ヨハ 12:10 祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。
ヨハ 12:11 多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。
◆エルサレムに迎えられる
ヨハ 12:12 その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、
ヨハ 12:13 なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」
ヨハ 12:14 イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。
ヨハ 12:15 「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。」
ヨハ 12:16 弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。
ヨハ 12:17 イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。
ヨハ 12:18 群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。
ヨハ 12:19 そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」