家庭礼拝 2013年11月13日 ヨハネ11章38-57 ラザロの復活
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起
今日のラザロの復活の場面は、このヨハネ福音書の一つの頂点です。他の共観福音書には書かれていないのですが、ヨハネはこのラザロの復活をイエス様の復活にだぶらせて、大きな山場として描いているのです。イエス様のもろもろの奇跡物語は、ここで頂点を迎えるのです。なぜ、ヨハネはこれほどまでにラザロの復活を描こうとしたのでしょうか。それは、復活こそがイエスがキリストたる事を示すゆえんだからであります。
ここを頂点として、ユダヤ人たちのイエス様に対する態度はハッキリしました。イエス様を殺すことに決めたのです。しかもそれはパリサイ人たちが殺そうとしているというレベルではなく、サンヒドリンの最高法院で決定された公の決定の中で、イエス様はお尋ね者となったのです。ですがそれでもユダヤ人たちはイエス様を捕まえることが出来ませんでした。それは民衆の力が、イエス様を守っていたのです。この方こそ預言者であるとの思いが、民衆を支配しており、ユダヤ人たちは暴動を恐れて、捕まえることが出来なかったのです。また一方で、そのような暴動を起こす力があるイエス様をユダヤ人たちは恐れ、ローマから謀反の嫌疑を受ける前に何とか取り除きたいという思いが渦巻いていたのです。
このラザロの復活を契機にして、イエス様を取り巻く環境は険悪で切迫した状況となってきました。今日はそのことを学んでいきたいと思っております。
承
イエス様は、心に憤りを覚えながらも涙を流して、墓の前に来られました。墓は横穴式の洞穴になっており、その入り口は大きな石で塞がれていました。この時イエス様が覚えていた憤りは何だったのでしょうか、人々がイエス様の言った復活の事を信じなかったためなのでしょうか。でもそれは誰にも信じられるようなことではなかったのです。新約聖書の他の場面でも、死んだ人の復活の場面は出てきます。ですがそれらは皆、死んでその日のうち、によみがえった話です。このユダヤの国の言い伝えでも、死んでから三日間は霊がその体の周りにいて、また戻る機会をうかがっていると言います。ですから、死んですぐならまだ戻れると考えていました。実際に、仮死状態になって死んだと思われていた人が、生き返った話はいくらでもあるのです。
ですがこのラザロの場合は、その蘇るかもしれないという3日を過ぎ去った、4日目なのです。体が腐り始めて、もう完全に死んでいると言われる状態なのです。イエス様はあえて、この4日目を待っていたのです。ここで蘇らせようとしていたのです。それはイエス様が本当に死人を蘇らせる力のある方であることを知らせるためでした。イエス様が、「その石を取りのけなさい」と言われると、マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言いました。マルタは、やはりまだ信じていなかったのです。四日もたって腐っているので、蘇るはずはないし、そんな兄弟を見て欲しくないという気持ちもあったのです。イエス様は、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われました。ですが、この時でさえも、だれがその言葉を信じることが出来たでしょうか。人々は、不承不承にイエス様の言葉に従って、その石を取りのけました。決して、期待にわくわくさせていたのではないと思います。
そこで、イエス様は不思議な祈りをしました。それは死んだラザロを復活させてくださいと言う祈りではなく、すでに願いを聞き入れて下さったことに対する感謝の祈りでした。
イエスは天を仰いでこう言われました。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」それは、ラザロを復活させてくださいと言う願いの祈りではなく、神様がイエス様をお遣わしになったことを、このラザロの復活を通して、人々が信じるようになることを叶えて下さり、感謝しますという祈りだったのです。すなわち、この復活はイエス様が神の子であることを信じるために、与えられた復活なのです。ここの主題はあくまでも、イエス様が神の子であるということを信じるということなのです。
そしてそう言ってからイエス様は「ラザロ、出てきなさい」と大声で叫びました。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。と、淡々と語っています。その時の人々の驚きはどのようなものだったのでしょうか。恐怖のあまりに倒れる人も出たのではないでしょうか。ですがそれらの事は一切書かれていません。ただ感情抜きに、事実のみを記録したというような書き方です。
転
マリアのところ来ていて、この出来事を目撃した人々も、この出来事を見て大いに驚いたとは書いてはいないのです。何が書かれているかと言うと、「イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。」とイエス様を信じたことを中心に書かれているのです。この出来事の中心は、ラザロの復活ではなくて、人々がイエス様を信じたことなのですですが、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいたのです。多分これは、イエス様の事を告げ口したというよりも、このようなことをなさった方は預言者ではないのかと、学者たちのお墨付きをもらいたかったのだと思います。ですが彼らはお墨付きを与えるどころか、そのことを不安に思って、最高法院を招集して、いろいろ相談を始めたのです。
最高法院はユダヤの宗教的な意思決定機関です。このユダヤの国は複雑な支配体制になっているのです。まず普通あるように、王様がいるのです。それはヘロデです。ですが、その国を統治している国がその上にあるのです。それはローマです。王様といえどもローマの許可なしには勝手なことはできないのです。ローマが王様に支配の権限を一部委ねているだけなのです。ですが、このヘロデの王様もローマもユダヤ人ではなく、ユダヤ教も信じていません。そのユダヤ人を宗教的に裁いているのが最高法院で、イエス様が裁判にかけられてのもこの最高法院なのです。一方政治的に裁いているのはローマです。イエス様が最後にはローマによって十字架につけられたということは、政治的な犯罪者であることを印象付けるためなのです。最高法院は石打の刑を執行することもできたはずなのです。
この最高法院は、ラザロの復活の話を聞いて、いろいろとその対策を考え始めました。最高法院にはパリサイ派とサドカイ派と言う二つのグループがありました。パリサイ派は純粋に宗教的な団体で、律法主義的なグループです。サドカイ派は、宗教的なグループでもありますが、政治的なグループでもあり、この最高法院の主だった役割はサドカイ派が受け持っています。祭司長もサドカイ派なのです。そして、貴族たちもサドカイ派であり、富裕層もサドカイ派なのです。彼らは実はあまり宗教には関心がなく、自分たちの地位を守ることに関心がありました。ですから、イエス様が勢力を伸ばして、暴動を起こすようなことを始めると、自分たちの権益や地位がローマから取り上げられるのではないかと心配していたのです。
ファリサイ派の人々は最高法院を召集してこう言いました。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」
このカイアファはサドカイ派の代表なのです。ファリサイ派は物事を律法に即して解決しようとしますが、サドカイ派は、極めて現実的で、自分たちの利益のためなら、何でもするような傲慢な人々でした。ですから、何が正しいか悪いかではなく、何が都合がよく何が都合が悪いかによって判断するのです。そのためには、人の命をも何とも思わないのです。
ですがヨハネは、この事さえも、カイアファが自分でそう思ったから言ったのではなく、神様がカイアファを用いて言わせた言葉だと解釈しました。イエス様がその通り死ぬことになっていたからです。このような意見に押されて、最高法院はついにイエス様を殺そうと企み始めたのです。
この危険な状況はイエス様にも伝わってきました。最高法院の中にもイエス様に同調する人々はいたからです。それで、イエス様はもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在されました。エフライムはマルタのいるベタニアよりもさらに北にある離れた町でした。
ところが過ぎ越しの祭りが近づき、多くの人々が清めのためにエルサレムを目指しました。そこに行けばイエス様に会えると思っていた人々も多くいました。彼らはイエス様を捜し、神殿の境内で互いに言いました。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」と言っていたのです。と言うのも、祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していたからでした。イエス様を逮捕するためでした。
結
イエス様たちはユダヤ人たちを避けて、ヨルダン川の東側に隠れていましたが、ラザロの復活のために危険を冒してエルサレムの近くのベタニアまでやってきました。それも敢えて、完全な死と言われる4日目にやってきたのです。そしてそこでラザロを復活させました。それは、イエス様が、神様から遣わされたものであることを、人々が信じることが出来るようにするためでした。ここでは疑いもなく死んでいたものが蘇ったのです。ですがそのことはさらに、ユダヤ人たちにイエス様を殺す決心をさせたのです。宗教的にも政治的にも非常に危険な人物と目されたのです。私たちは、復活の信仰が大切な事は良く教えられています。ですが、ヨハネがここで伝えようとしたことは、復活よりもむしろ、イエス様は誠に神様のもとから来た方であることを信じなさい、と言うことです。何よりも神の子であり、生死を超えた力ある方であることを信じなさいと言うことを伝えようとしているのです。このことを信じなければ、私たちの真の信仰はないのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。イエス様はラザロの復活を通して、イエス様がまことに神様のもとから来られた方であることを示されました。私たちにこのことを信じる信仰がなければ、どのような奇跡の業も、無意味なものとなってしまいます。神様どうか私たちに、神の子イエス・キリストを信じる信仰を与え、信仰によって祈り、行い、生きるものとさせてください。
この祈りを、主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:ヨハネによる福音書)>>
◆イエス、ラザロを生き返らせる
ヨハ 11:38 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。
ヨハ 11:39 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。
ヨハ 11:40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
ヨハ 11:41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。
ヨハ 11:42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
ヨハ 11:43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
ヨハ 11:44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
◆イエスを殺す計画
ヨハ 11:45 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。
ヨハ 11:46 しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。
ヨハ 11:47 そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。
ヨハ 11:48 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」
ヨハ 11:49 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。
ヨハ 11:50 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」
ヨハ 11:51 これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。
ヨハ 11:52 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。
ヨハ 11:53 この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。
ヨハ 11:54 それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。
ヨハ 11:55 さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。
ヨハ 11:56 彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」
ヨハ 11:57 祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。