家庭礼拝 2013年10月30日 ヨハネ10章22-41 ユダヤ人イエスを拒絶する

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今日の話もまた、生まれつき盲人の人を癒した時の後の話であり、私は羊飼い、と言われた神殿での話です。その時期はエルサレムで神殿奉献記念祭と言う祭りが行われている時期でした。神殿奉献記念祭と言うのはあまりなじみのない言葉ですが、新改訳聖書やリビングバイブルでは宮清めの祭りとなっていて、こちらのほうがよく知られています。この祭りは、紀元前の170年ごろシリアの王様エピファネスがエルサレムを攻撃して、エルサレム神殿の祭壇にギリシャのゼウスをまつったり、異教の神々のために祭壇に豚を捧げたりして、徹底的に神殿を汚したのでした。それに対抗して、ユダ・マカベウスと言う人が戦い勝利して、祭壇が再建され、祭壇の色々なものが清められて、また元に戻されたのです。その宮清めを記念して設けられたのがこの宮清めの祭りであり、神殿奉献記念祭なのです。この記念祭はなんと12月25日から8日間行われたのです。この日は今で言うとクリスマスの期間に当たります。クリスマスの日はローマの冬至の祭りから来たのだという話もありますが、この宮清めからも来ているのかもしれません。そしてこの祭りは光の祭りとも言われています。クリスマスに光のページェントが行われるように、この宮清めの祭りでも蝋燭をいろいろなところに掲げて光の祭りをしたのです。それはやはり冬至が過ぎていよいよ明るい日がやってくることに思いをはせていたのだと思います。この祭りは、今でもイスラエルでは行われていると言います。9章の5節で、イエス様が「私は、世にいる間、世の光である。」と言ったのはこの光の祭りの光を見ていったのかもしれません。

イエス様は今日の聖書の箇所のこの時には、神殿の境内で、ソロモンの回廊を歩いておられました。するとユダヤ人たちはイエス様を取り囲んで、また論争をしようとしていたのです。24節です。

ヨハ 10:24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」

ここでのユダヤ人たちの言い方には、いろいろな思惑が絡んでいます。本当にメシアだと思っているならば、「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」などと、失礼な命令口調で言うはずがないのです。「お願いですから、メシアだとおっしゃってください」と丁寧に言うはずです。確かにユダヤ人たちの中にはイエス様をメシアだと信じる人々も出てきたのですが、ここで論争しようとしているユダヤ人たちは、イエス様にメシアだと言わせて、捕えようとしているのです。もしイエス様がメシアだと言えば、神様を冒涜したものとして捕えて殺すことが出来るのです。ですからイエス様はそれにはハッキリ答えずに、こう言ったのです。25節と26節です。

ヨハ 10:25 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。

ヨハ 10:26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。

イエス様は、言葉によって証しし、行いによっても証しているのです。その行いとは神様の名によって行う業なのです。ユダヤ人達は「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」と言いながら、その二つの証しが示されているのに信じようとしてはいなかったのです。ですからイエス様は、あなたたちは私の羊ではないから信じないのだと言ったのです。私の羊でないものはどのような証しを示されても信じないと言うことを言ったのです。

そして、信じる者たちの事をこう言ったのです。27節から30節です。

ヨハ 10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。

ヨハ 10:28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。

ヨハ 10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。

ヨハ 10:30 わたしと父とは一つである。」

イエス様は、イエス様を信じる者たち、すなわち私の羊は私の声を聞き分ける、と言いました。これは誰に従っていったらよいのかがその声で分かるということです。そしてイエス様も彼らの事を知っていると言いました。そしてイエス様はその信じる者たちには永遠の命を与えると約束されました。この永遠の命は決して滅びることなく奪われることのないものです。ですから、この世の命とは違うものです。与えられれば消え去ることのない命です。

27節と28節は私、すなわちイエス様と羊の関係を語っていました。「私は」、「私の」と言う言葉を使って話していたのですが、突然29節で、私の父、すなわち神様の事を語りだしたのです。それは、私と羊の関係がただ二者の関係ではなく、そこにその関係を与えて下さった神様がいるということをイエス様は指し示そうとしているのです。そしてその神様が与えて下さった関係はすべてのものより偉大なものであり、だれも神様の手から奪うことはできない、すなわちイエス様からも奪うことはできないということなのです。それはイエス様と神様とは一つであると同じことである、と言うことをおっしゃったのです

 ここにイエス様の、深い信仰があるのです。イエス様の行うこと、イエス様の与えるもの、イエス様が築く関係は、皆、神様から与えられたものであり、人間に奪われるようなものではないということ、そしてそれはとりもなおさず、神様とイエス様は一つであるという思いがあるのです。ですがユダヤ人たちには、それは神様を冒涜する言葉に聞こえました。人間が神様と対等であるような言い方は許されないと考えたのです。それで、石で打ち殺そうとして、石を取り上げたのです。

 ここからは、ユダヤ人たちと、「神々」と言う言葉の解釈の論争になります。イエス様は、旧約聖書を取り上げて、自分を神の子と言ったからと言って、どうしてそれが冒涜になるのか、旧約聖書でもそう呼ばれているではないかと反論しました。そしてこう言ったのです。36節です。

ヨハ 10:36 それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。

 ここで大切なのは、イエス様はご自分の事を「聖なるものとされて世に遣わされている。」と言ったことです。聖なるものとは、清いものと言う意味もありますが、神様によって特別に分かたれたものと言う意味です。聖なる場所、聖なる人、聖なる時、聖なる働き、などすべて、この世のものからは神様によって分かたれた特別なものと言う意味になるのです。ですからイエス様が聖なるものとされて世に遣わされていると言った時、イエス様には神様から与えられた特別の使命があって、世に来られたことを言っているのです。そのことを強く意識しているのです。ですから、そのような特別に分かたれたものが、私は神の子であると言ったとしても、冒涜にはならないと言ったのです。イエス様が、神様からそのような特別の使命を受けた方であることを、言葉で信じられないならば、その業で信じなさいと言いました。言葉は議論になってしまいますが、業は事実であり、議論にはならないはずだからです。そしてこう言ったのです。37節と38節です。

ヨハ 10:37 もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。

ヨハ 10:38 しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」

 ですが、それでもユダヤ人たちはイエス様の言葉を理解しませんでした。そしてイエス様を捕えようとしたのです。イエス様はその手を逃れて、ヨルダン川の向こう側、すなわちイエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた場所に戻ったのです。イエス様は、これからの最後の働きをする前に、もう一度、その宣教の原点となった、洗礼を受けた場所に戻ったのです。そこにも人々は続々とやってきました。そして言ったのです。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」洗礼者ヨハネは殺されてもうこの世にいない人でしたが、この場所に来た時に人々は思い出したのです。洗礼者ヨハネがイエス様について話していたことは本当だった、と改めて思い、イエス様を信じたのです。

 イエス様は、ご自分が行うこと、語ること、ご自分が与えるもの、関係するものはすべて神様から与えられたものであり、だれもそれを神様の手から奪うことはできないと信じていました。だからこそ、イエス様はご自分と神様は一つであると信じていたのです。それは、ご自分が神様のように偉いものであるということではなく、ご自分が神様によって、全く用いられているもの、神様の働きを与えられているものと言う意味での一つの者と言うことなのです。すなわちイエス様の意志は、完全に神様によって占められているということなのです。そのようなイエス様の事を、ユダヤ人たちは信じることが出来ませんでした。イエス様の羊ではなかったのです。一方イエス様の羊には永遠の命が約束されました。私たちはそのイエス様の言葉で信じることが出来、その行いの事実でも信じることが出来るのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

 天の父なる神様、今日与えられた御言葉に感謝いたします。あなたはイエス様を通して働かれました。あなたはイエス様と一つでした。イエス様の持っている関係や言葉や命はすべてあなたが与えたものでした。それは言葉でも、行いでもそれを知る者には信じる機会が与えられました。ですがユダヤ人たちは、それでも信じることが出来ませんでした。神様、私たちに与えられているこのような証しを聞き、そして見ているのにそれでも信じない者にはなりませんように。どうか私たちも信じて、あなたの永遠の命のうちに生きることが出来ますように。それは奪われることなく滅びることのない命です。その命は神様の命です。それに共に与ることが出来ますように。

 

この祈りを、主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 


<<聖書の箇所(新約聖書:ヨハネによる福音書)>>

 

 

 

◆ユダヤ人、イエスを拒絶する

 

ヨハ 10:22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。

 

ヨハ 10:23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。

 

ヨハ 10:24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」

 

ヨハ 10:25 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。

 

ヨハ 10:26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。

 

ヨハ 10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。

 

ヨハ 10:28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。

 

ヨハ 10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。

 

ヨハ 10:30 わたしと父とは一つである。」

 

ヨハ 10:31 ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。

 

ヨハ 10:32 すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」

 

ヨハ 10:33 ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」

 

ヨハ 10:34 そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。

 

ヨハ 10:35 神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。

 

ヨハ 10:36 それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。

 

ヨハ 10:37 もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。

 

ヨハ 10:38 しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」

 

ヨハ 10:39 そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。

 

ヨハ 10:40 イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。

 

ヨハ 10:41 多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」

 

ヨハ 10:42 そこでは、多くの人がイエスを信じた。