家庭礼拝 2013年10月23日 ヨハネ10章1-21 イエスは良い羊飼い
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起
今日の聖書の箇所は、イエス様が「私は良い羊飼いである。」と語られた、有名な箇所です。当時のユダヤでのもっとも一般的な仕事は牧畜です。羊を飼うことです。日本の昔では百姓と言われた人々がもっとも一般的な人々で、米を作っていました。ですが、ユダヤの国にはそのような農業をするような土地はあまりなかったのです。それで、羊を飼って、その毛を刈り取って仕事とする牧畜が主だったのです。ユダヤの国がどこででもこの牧畜ができたわけではありません。日本は稲作ですから、平地の平らな場所で、稲作を行い、農民はその近くに住んでいます。ですから山の中はとても辺鄙なところとなります。ところがユダヤは違うので、ユダヤの大きな町の多くは皆山の中にあるのです。平地のあるヨルダン川沿いや死海のほとりにはあまり町はないのです。と言うのはそのような場所は、海抜マイナス400mで海よりもずっと下にある盆地の砂漠地帯なのです。ですから平地はあっても植物はあまりないのです。むしろ草が生い茂っているのは山の上の方なのです。このような牧畜が盛んだったのはエルサレムを中心にしたベテルからヘブロンにいたる50km位の山の丘なのです。その牧草地帯から外れると急に崖になり、砂漠地帯になるのです。迷える子羊のたとえはそのような危険地帯に紛れ込んだ子羊なのです。
ですから、イエス様がご自分を羊飼いに例えたのはとても生活に密着した話でした。これはイエス様が初めて言ったのではなく、旧約聖書でも何度も、神様の事を羊飼いに例えて語られてきました。詩編をチラッと眺めただけでも「主は、私の牧者であって、私には乏しいことはない。」であるとか、「われらはその民、牧の羊である。」とかよく知られた言葉が豊富にあります。どうして神様がこのような羊飼いに例えられるのかと言うと、単に羊を導くというよりも、その姿勢にあったのだと思います。当然羊飼いは羊を守り導くという働きなのですが、それは、この柵の無い放牧地に羊たちを自由にはなって、草を食ませ、羊飼いはいつも静かにしかも真剣に羊たちが安全にしていられるか、じっと忍耐強く見守っているのです。その忍耐深い愛を人々は神様に羊飼いの姿を彷彿とさせたのではないのかと思います。すなわち、この羊飼いに抱くイメージは、忍耐深い愛をもって見守っている姿なのです。そして危険が生じると姿を現して守ってくださる方なのです。
このイエス様による羊飼いのたとえ話がいつ行われたのかと言うと、イエス様が、あの生まれつき盲人の人を癒されて、ユダヤ人たちに非難され、「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、見える、とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」と言った後の言葉なのです。
承
イエス様は羊の囲いの例えを話されました。この羊の囲いと言うのは、日本人的な感覚からするとちょっとイメージが違うのです。羊は昼間の間、羊飼いが適当な牧草地に連れて行って放し飼いにします。夜になると、オオカミや盗人から羊を守るために羊の囲いに入れます。この羊の囲いには自分の羊だけではなく、他の人の羊のもまた、一緒に入ってくるのです。すなわち、村などで共有している共同の羊の囲いなのです。それでは自分の羊がわからなくなるのではないのかと思うのですが、羊飼いは自分の羊の一匹一匹に名前を付けており、その名前を呼んで連れ出していくのです。羊の方でも自分の羊飼いの声を知っていて、その声に従うのです。ですから、何組の羊飼いがいても、自分の羊と他の人の羊は間違わないのです。自分の家族を見失わないのと同じです。そして、その羊の囲いには、門番が居り、その門番はちゃんと知っている羊飼いにだけ門を開いて出入りさせるのです。ですから門を通らないでほかの所を乗り越えてくるものは盗人であり、強盗なのです。羊飼いに連れ出された羊たちはその羊飼いの声を知っているので、その羊飼いについていきますが、他のものが連れて行こうとしても逃げてしまうのです。
そのような意味の事をイエス様は例えで話されました。この例えはファリサイ派の人々に話したのですが、彼らはその話が何のことかわかりませんでした。何のことかわからないので反論もできなかったのです。分かる言葉で教えようとすると、それはそうではないと分かったつもりで反論してくるからでした。この例え話では、反論する前に一度相手の心に届くので、中には理解できる者もいたのです。
ここで言われている羊飼いとは、イエス様に任命され許可されて御言葉を取り次ぐ人です。牧師と言う言葉はもともと羊飼いと言う言葉のラテン語なのです。そして、この門番は牧師のような人々を任命し派遣しているイエス様です。この羊の囲いは神様の国です。この神の国に入ることが出来るのはイエス様が任命した羊飼いとその羊たちです。そして羊は信じる者たちです。強盗や盗人とは、イエス様の言葉によらないで、勝手に神の国を伝えようとするものです。すなわち、ファリサイ人たちも含まれるのです。ですがこのことの意味がファリサイ人たちには理解できませんでした。
転
イエス様はだんだんとファリサイ人たちにもわかる言葉で話し出しました。7節から10節です。
ヨハ 10:7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。
ヨハ 10:8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。
ヨハ 10:9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。
イエス様はご自分の事をこう言われました。私は羊の門であると言ったのです。そうすると羊の囲いとは何か、羊とは何か、盗人とは誰の事であるかがわかるのです。イエス様は私より前に来たものは皆盗人であり強盗であると言いました。これは以前の預言者などをも含むものではなく、イエス様の時代にユダヤの民衆を扇動して、騒ぎを起こそうとした、熱心党のような人々の事を指しています。ですが人々は彼らに従おうとはしなかったのです。イエス様は、私は門であり、私を通って入るものは救われると言いました。救われるためにはイエス様の門を通らなければならないのです。勝手に入ることはできないのです。
ここの箇所は、イエス様がご自分の事を説明している、最も詳しい場所です。イエス様は私は門であるといって、神の国に入る門であることを示されましたが、次にはイエス様がこの世に来られた目的を話しました。10節と11節です。
ヨハ 10:10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
ヨハ 10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
盗人たちは、自分たちの利益のために殺したり滅ぼしたりするためにくるが、私は羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるために来たのであると言いました。イエス様は、私たちが命を豊かに受けることが出来るために、来られたのです。そのためには命を捨てる覚悟で来られたのです。イエス様は良い羊飼いなのだと言われました。良い羊飼いは羊のために命を捨て、悪い羊飼いは、自分のために、羊の命を奪うのです。また雇人である羊飼いは、危険が迫ると羊を残して逃げてしまうとも言いました。そして、もう一度ご自分がなんであるのかを言われました。14節と15節です。
ヨハ 10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
ヨハ 10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
これがイエス様がご自分をどのように思われているのかの証言です。良い羊飼いであり、羊と羊飼いがよく知っているように、神様とイエス様は良く知っており、羊のために命を捨てる羊飼いであるということなのです。イエス様は、まだ囲いに入ってこない羊のためにも導かなければならないといって、ユダヤ民族だけでなく、世界の人々のためにも遣わされていることを言いました。このようにして、人類は一人の羊飼に導かれ一つの群れとなり平和を得ることを言っているのです。
イエス様は、ここで、命を捨てるということを繰り返し言っています。殺されたり、命を奪われたりするのではなく、自らの意志としてその命を捨てることを述べています。17節と18節です。
ヨハ 10:17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。
ヨハ 10:18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」
イエス様の御業の不思議は、命を自ら捨てることが出来るだけでなく、再び受けることもできる、としていることです。むしろ、再び受けるために捨てるのだと言います。それが神様から受けた掟であるとも言っています。こんな不思議なことがあるでしょうか。他に誰がこのようなことを言えるでしょうか。そのように捨てることが出来るために、神様はイエス様を愛してくださるのだとも言っています。正に、人間離れした言葉です。ですがイエス様は本当にそれが出来た方なのです。
それを聞いているファリサイ人たちはとても信じられませんでした。ですが一部の人々はそれを信じました。そしてその中で意見が対立したのです。そして、「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」という人々もあれば、「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」と言う人々もいたのです。イエス様に従うものと従わないものとが分けられたのです。
結
イエス様は、神の国に入る門であり、イエス様を通らなければその中に入ることはできません。またイエス様は、良い羊飼いです。命を捨てて羊を守る良い羊飼いです。それは命を奪われるのではなく、自ら命を捨てて、羊を守り、また命を得ることのできる方なのです。イエス様はこれを実行しました。恐れることなく、十字架へと進み命を捨てられたのです。そして、そのイエス様を神様は愛し、また命を得るものとしてくださいました。これを信じるのは信仰のみです。知識ではどうにもなりません。イエス様は、今でも、忍耐強い愛をもって、羊飼いのように、その群れの一つ一つの命を見守ってくださっているのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。イエス様が私たちを良い羊飼いのように、命を投げ出してでも忍耐強く、深い愛をもって見守ってくださっていることを覚えて感謝いたします。私たちはただ、良い羊飼いの声を聞き分けてそれに従っていくだけです。良い羊飼いに従っていくとき、私たちは神の国の門を通って、神の国へと出入りすることが出来ます。私たちに問われているのは、良い羊飼いの声に従うのかどうかだけです。神様、どうか私達もまた、良い羊飼いを知る羊となって、従っていくことが出来ますように。間違った声に従うことがありませんように。イエス様が命を捨てることが出来、又得ることが出来る方であることを信じることが出来ますように。神の御国へと入ることが出来ますように。
この祈りを、主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:ヨハネによる福音書)>>
◆「羊の囲い」のたとえ
ヨハ 10:1 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。
ヨハ 10:2 門から入る者が羊飼いである。
ヨハ 10:3 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
ヨハ 10:4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。
ヨハ 10:5 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」
ヨハ 10:6 イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
◆イエスは良い羊飼い
ヨハ 10:7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。
ヨハ 10:8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。
ヨハ 10:9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。
ヨハ 10:10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
ヨハ 10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
ヨハ 10:12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――
ヨハ 10:13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
ヨハ 10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
ヨハ 10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
ヨハ 10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
ヨハ 10:17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。
ヨハ 10:18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」
ヨハ 10:19 この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。
ヨハ 10:20 多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」
ヨハ 10:21 ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」