家庭礼拝 2013年10月16日 ヨハネ9章24-41 ファリサイ派の人々の罪

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今日は、前回お話しした生まれつき盲人の人の話の後半です。この生まれつきの盲人の人が、イエス様の癒しによって目が見えるようになったことに驚いた人々は、こんなことが起こるのだろうかと言う疑いをもって、また驚きをもって、それを証明させるためにパリサイ派の人々のところに連れて行きました。このパリサイ派の人々はそんなことは信じていませんでした。きっと誰かが共謀してこんな奇跡物語を演出しているのだろうと思っているのでした。それで、その親を連れてきて、確認しようとしましたが、その親は、パリサイ派の人々を恐れつつ、この子は本当に生まれつきの盲人だったが、どうして見えるようになったのかはわからないと言ったのです。それでもパリサイ派の人々は信じられなかったのです。何故かと言うとそれを癒したのがイエス様であり、安息日の戒律を破るような罪人がそのような奇跡を行えるはずがないと思っているのです。

それでユダヤ人たちは、もう一度その盲人であった人を呼び出して確かめようとしました。それが今日の聖書の話となります。それは、自分たちが知識と権威とを持っているので、自分たちがいつも正しい信仰を持っているのだと思い込んでいるパリサイ人たちの信仰と、知識も信仰もないかもしれないが、起こった事実をありのままに受け入れ信じようとしているこの盲人だった人の信仰を、静かに外から見ているイエス様の姿がそこにはあるのです。そしてイエス様の存在ははその信仰の裁きそのものなのです。

 盲人であった人に対して、ユダヤ人たちはこういいました。24節です。

ヨハ 9:24 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」

この言葉は、もう頭ごなしで、その奇跡はあり得ないから、神の前で正直に答えなさい、と言うのです。正しいことをありのままに聞こうというのではなく、自分たちがこう考えているから、それに合うように答えなさいと言っているわけです。どうしてその奇跡があり得ないかと言うと、イエス様が罪ある人間だと知っているからだというのです。その罪とは、安息日の律法に従わないで癒しを行っているということです。自分たちは何でも知っているのだから、お前が嘘をついているのはすぐわかる、だから神の前で正直に答えなさいと言うのです。なんという傲慢でしょか。自分は何でも知っているという思いはこのような傲慢を生み出し、ありのままの事実に目をふさいでしまうのです。

 それに対して、この盲人であった人はこう答えました。25節です。

ヨハ 9:25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」

この盲人であった人は、賢明な答えをしました。それはパリサイ派の人々の言う罪人かどうかという議論には加わらなかったのです。その議論をしたならば、知識のあるパリサイ派の人々に勝てるはずがないのです。ですが、この人はただ一つ知っていることを言いました。それは事実と言うことです。事実は誰にも曲げられないのです。その事実を私は知っていると言いました。その事実とは、目の見えなかった私が、今は見えるということです、と答えたのです。

 これは信仰を持ち続けるうえでとても大切な事です。多くの事を知っている必要はないのです。ただ一つの事を知っているだけでいいのです。私はこれを知っていると言えるものがあればいいのです。この盲人だった人は、目の見えなかった私が、今は見えるということ、この事実はどんな知識にも翻すことはできないという確信があったのです。

 私たちは、自分の信仰において、私はこれを知っているというものを持っているでしょうか。それは奇跡と言えるようなものでなくてもいいのです。ですが自分自身が体験し、本当にこれが起こったのだと確信するものがあればいいのです。たいていの人はそれをぼんやりと思っているのですが、良く思い起こせば、そのような確信にいたるのです。

私は信仰を持つ前は、いつも人生に不安と恐れを感じていました。何かに打ち負かされてしまうのではないか、惨めになるのではないかと言う不安と恐れを持っていました。私は若い時は虚栄心が強く、いつも自分をよく見せようとしていました。いつも劣等感を持っていました。その劣等感から解放されようとして、いつもとても努力しました。ですが努力すればするほどますます不安と恐れとに捕らわれるのです。そしてこの人生を砂漠のような灰色の世界のような気持ちで見つめていました。ですが、信仰を得て変えられたのです。異常な虚栄心から解放されたのです。心が自由になったのです。失敗を恐れなくなりました。惨めになってもしょうがないと思えました。心にいつも余裕がありました。そしてどんなことが起こっても、この信仰が私を救ってくれるという確信を持つようになったのです。祈ることが出来なかったのに、祈ることが出来るようになりました。そして、この救いを与えて下さったのがイエス様である事を知らされたのです。私はそれを経験し知ったのです。自分ではどうしようもなかったことが、信仰によって変えられたのです。これは、私が知っている事実であり、私は変えられたと言える事実なのです。私はそれを知ったのです。

 ファリサイ派の人々はこの盲人だった人の話をいくら聞いても信じることが出来ず、また根掘り葉掘り、どうして目が見えるようになったのだと聞いたのです。するとこの盲人だった人はだんだんとファリサイ派の人々に不信感を抱くようになったのです。そして、なぜまた同じことを聞くのかとか、あなたがたもあの方の弟子になりたいのですかとか、あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議ですとか、言って、ファリサイ派の人々の矛盾点を突いて反論しだしたのです。そして、彼の信仰告白ともいうべき言葉を述べたのです。32節と33節です。

ヨハ 9:32 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。

ヨハ 9:33 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」

 この盲人だった人はついに、イエス様の事を神のもとから来られた人、すなわち神の子であるとの信仰を語ったのです。彼は、最初はイエス様の事をあの方は、と呼んで、立派な人と言う受け止め方をしていました。ですがファリサイ派の人々と話をしている内に、お前はあの人をどう思うのかと問われて、あの方は預言者です、と告白するようになったのです。そしてさらに追及されている内に彼の信仰の確信は高まって、あの方は、神のもとから来られた方、神の子ですとの信仰告白にいたったのです。ファリサイ派の人々はいらだって、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返して、彼を外に追い出したのです。

 その追い出された人のところに、イエス様はやってきました。イエス様は求めない先に、その誠実な信仰者のもとに現れたのです。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われました。すると彼は「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」と言うと、イエス様は答えました。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」すると彼は、「主よ、信じます」と言って、ひざまずいたのです。イエス様は信じる者のもとへは自ら現れてくださるのです。わしたちに必要なのは、どのようにしてイエス様と出会うかと考えるのではなく、ただイエス様を信じて待つことなのです。

 そしてイエス様は言ったのです。39節です。

ヨハ 9:39 イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」

イエス様に出会うものはその信仰によって自らが裁かれるのです。信じるものは信じることによって報いを受け、信じないものは信じないことによって裁かれているのです。

 ファリサイ派の人々が「我々も見えないということか」と言った時、イエス様はこう言ったのです。41節です。

ヨハ 9:41 イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

この事は、私たちが知らないのに知っていると思うこと、見ないのに見えていると思うことの罪の深さを思うのです。もし知らないだけなら、見えないだけならまだ罪は軽いのです。それなのに知っていると言い張り、見えていると言い張るところに罪があると、イエス様は言っているのです。

 この盲人だった人は、きっと知恵も知識もなかったかもしれません。生まれつきの盲人だったのでそのような教育は受けていなかったのだと思います。ですが、この盲人は、ただ一つ知っていると自信を持って言えることを持っていたのです。イエス様が目が見えるようにしてくださったということです。そのことはイエス様への信仰告白へとつながるものでした。一方、ファリサイ派の人々は、自分たちは学問によって、何でも知っていると思い込んでいました。ところが何一つ知らなかったのです。目の前の事実を見ても知ることがなかったのです。知っていると思う心が、目をふさいでしまったのです。私達が自分自身を見えないものであり、知らないものであることを認めるとき、イエス様の方から現れて教えてくださるのです。ですからそのような謙遜な思いで待ち望むことが大切なのではないでしょうか。

 

(一分間黙想)(お祈り)

 天の父なる神様。私達もまた、この盲人だった人のように、私はただ一つ知っている、イエス様が私を変えて下さった、と言えるものとなりますように。その事実を受け入れ、信仰を告白するものとなりますように。自分が知っているものと思って、明白な事実に目をふさぐことがありませんように。私たちが生かされているのは、神様の業が私たちの上に現れるためであり、どのような苦難や不幸と思われることの上にも、その神様の業が現れていることを知るものでありますように。

 あなたによって、このように生かされていることに感謝いたします。どうか、神様の栄光を表すものとして、神様の業を表すものとして、生かされていることを賛美することが出来ますように。

この祈りを、主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

 


<<聖書の箇所(新約聖書:ヨハネによる福音書)>>

ヨハ 9:24 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」

ヨハ 9:25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」

ヨハ 9:26 すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」

ヨハ 9:27 彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」

ヨハ 9:28 そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。

ヨハ 9:29 我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」

ヨハ 9:30 彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。

ヨハ 9:31 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。

ヨハ 9:32 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。

ヨハ 9:33 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」

ヨハ 9:34 彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。

◆ファリサイ派の人々の罪

ヨハ 9:35 イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。

ヨハ 9:36 彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」

ヨハ 9:37 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」

ヨハ 9:38 彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、

ヨハ 9:39 イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」

ヨハ 9:40 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。

ヨハ 9:41 イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」