家庭礼拝 2013年10月2日 ヨハネ9章1-23 生まれつきの盲人をいやす

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今までの8章は、姦淫を犯した女の話とそのあとに続くイエス様とユダヤ人との論争の話でした。この時は不思議と、周りに弟子たちがいる気配はありませんでした。今日の9章は、生まれつき盲人の話だけです。三つの小見出しがありますが、私は2回に分けてお話をします。最初は盲人がイエス様に癒されて、ファリサイ派の人々がその事情を調べ始めたところです。二回目は、ファイリサイ派の人々がもう一度もう一度盲人を呼び出して論争し、盲人が会堂から追い出されるとイエス様と出会った話です。

8章には周りに弟子たちがいる気配がなかったのですが、9章では弟子たちに囲まれています。その前の7章は仮庵祭での話ですが、この時も弟子たちの姿はありませんでした。イエスの兄弟たちとの話が載せられているだけです。ではいつから弟子たちの姿が出ていないかと言うと、5千人の食事をした後、湖の上を歩き、カファルナウムの会堂で、「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければあなた達のうちに命はない。私の肉を食べ、私の血を飲むものは、永遠の命を得、私はその人を終りの日に復活させる。」と言った時以来なのです。この時は、この話を聞いて弟子達の多くが「ひどい話だ」といって、離れ去った時以来なのです。ですから、この9章では、ごく限られた弟子たちだけが残って、イエス様と再会したのではないかと思われます。そしてイエス様はしばらく弟子たちと離れ、一人で行動し、そして今また、残りのわずかな弟子たちとエルサレムで再会したのではないでしょうか。

 今日の話しは、生まれつきの盲人をいやす話です。使徒言行録には生まれつき体の不自由な人の話が2回出ていますが、実は福音書では生まれつき病んだものが癒される話はこれだけなのです。使徒言行録では2回とも、足の不自由な人でした。ヨハネ福音書では生まれつきの盲人です。

 一節で、イエス様が通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけました。それはチラッと見られたというよりも、ジッと見ていたのだと思います。それで、弟子たちは不思議に思って、「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と尋ねたのです。弟子たちにとっても、この盲人との出会いは初めてではなく、いろいろ聞いていたのでしょう。この盲人が生まれつき目が見えないということを知っていました。ですが、当時のユダヤ人たちの間では、病気になるのは何か罪を犯した結果であると考えられていたのです。ですが生まれつきとなるとそれは誰のせいなのだろうかと言う疑問がわいたのです。それは本人の罪なのか、親の罪なのかと聞いたのです。するとイエス様は答えました。3節です。

ヨハ 9:3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。

これは、今まで全く聞いたこともないような答えでした。その病気は罪のせいではないと言ったのです。そして、むしろ神様の業がこの人に現れるためであるといったのです。この言葉に、救われた人、励まされた人がどれだけいるでしょうか。何の罪もないのに、病気と言うだけで変な目で見られ、差別されました。きっと何か悪いことをしたせいなのだと考えるのはユダヤ人だけでなく、日本人にもあるはずです。イエス様がこの人をじっと見ていたのはその神様の業を今まさに起こそうとしていたのかもしれません。この盲人は自分から救いを求めたわけではありませんでしたが、

イエス様のほうからその眼を注いでくださって、癒しを与えてくださるのです。このようなことは私たちの生活の中にもあるのかもしれません。私たちの気が付かない先から、イエス様のまなざしが注がれ、神様の業が行われているのかもしれません。イエス様は生まれつきの盲人に、こういって癒されました。4節から7節です。

ヨハ 9:4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。

ヨハ 9:5 わたしは、世にいる間、世の光である。」

ヨハ 9:6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。

ヨハ 9:7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。

 イエス様は、私は世の光である、と言いました。そして唾と土とで泥を作りそれを目に塗って、シロアムの池に行って洗いなさい、と言ったのです。盲目の人はそこで目を洗うと、目が見えるようになって帰ってきたのです。この時代、唾や土には癒しの力があると思われていました。ですから、この癒しの方法は広く行われていた方法なのです。ですが、本当に癒されるためにはその人の特別な力が必要でした。イエス様は世の光なのです。心の光だけではなく、肉の目の光ともなったのです。シロアムの池と言うのは、戦争の時の飲み水の確保ために岩に隧道を掘って作られた特別の池なのです。イエス様はこのシロアムと言う意味の「遣わされたもの」、と言うことと、私を「お遣わしになった」方によっている、と言うことをかけて、シロアムの池で洗いなさいと言ったのです。それは神様によって遣わされたイエス様によって清められなさい、と言う意味でもあるのです。

 人々は、生まれつき目の見えない物乞いが目が見えたという奇跡を聞いて驚きました。彼は本当にあの物乞いか、と言う人もいれば、そんな馬鹿な似ているだけさ、と言う人もいたのです。ですが本人は「私がそうなのです」と証言すると、どのようにして目が見えるようになったのかと、大騒ぎになったのです。

 その騒動を聞いて、ファリサイ派の人々は動き出しました。実はその癒しが行われたのが安息日であったからです。安息日には働くことは一切禁止されていました。ファリサイ派の人々は安息日に何をしてよく、何をしては悪いのかと、こと細かく研究する人々でした。実は安息日の決まりでは、泥を作ってもいけないし、泥を塗ってもいけないし、癒しを行ってもいけないのです。ファリサイ派の人々にとって、生まれつきの盲人が見えることが出来るようになることを喜ぶよりも、安息日の規則が破られるほうが重要だったのです。そこで、ファリサイ派の人々も「どのようにして見えるようになったのか」と尋ねました。すると盲人は「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」と正直に答えました。この話を聞いたファリサイ派の人々は二つの意見に分かれました。すべての人がイエス様に敵対したわけではありませんでした。敵対する人たちは、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」といい、その奇跡を認める人たちは、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言ったのです。すなわち、安息日を守らない人は罪人であるという人々と、このようなしるしを行う人は罪人ではないという人々とに分かれたのです。信仰は、何を以て判断するのかが問われます。私たちは何を以て判断しているでしょうか。ファリサイ派の人々は今度は盲人に対して尋ねました。「お前はあの人をどう思うのか。」すると彼は「あの方は預言者です」と答えました。この盲人はその奇跡のうちに神様の力を感じたのです。神の業がこの人に現れたことを感じたのです。一部のファリサイ派の人々は、安息日を破るような人に奇跡が出来るとは到底信じられませんでした。それで、本当に生まれつきの盲人が見えるようになったのかを確認するために、その両親を呼び寄せました。そして尋ねたのです。19節から21節です。

ヨハ 9:19 尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」

ヨハ 9:20 両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。

ヨハ 9:21 しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」

 ファリサイ派の人々はその両親に生まれつき見えなかったのかどうかを訪ね、どうして今は見えるようになったのかを尋ねました。この両親はユダヤ人たちを恐れていました。何故かと言うと、ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたからでした。いわゆる村八分に会い、ひどい場合は財産まで没収されるのです。それでこの両親は、「自分たちにはわからないので、本人に聞いてください。もう大人ですから自分で話せます。」と答えて、ユダヤ人たちの思惑にはまらないように逃げたのです。

 ファリサイ派の人々は、イエス様の神の業を認めようとしませんでした。自分たちが認めないだけではなく、ほかの人たちが認めようとすることすらも認めようとしませんでした。自分たちの権力によって、認めさせまいとしていたのです。ですが、何の学問も教養もないこの盲人とその両親でさえも、その方が神の業を行っていたことは分かっていたのです。それは学問ではなく、経験であり、出会いなのです。ファリサイ派の人々は学問はできましたが、事実と出会うとそれを認めることが出来なかったのです。

 ファリサイ派の人々は知識や常識にとらわれて、また自分たちはその権威であるという意識にとらわれて、事実を素直に受け入れることが出来ませんでした。すなわち形式主義に陥っていたのです。そして、目の前で行われた神の業を認めようとはしませんでした。むしろ、何も知らない盲人のほうが、その神の業を認め、「あの方は預言者です」と答えることが出来ました。私たちが生きているこの世界にも、神様の業が日々行われていることを受け入れていくことが大切かもしれません。知識であるとか常識にとらわれることなく、素直に神様の業を見て感謝し、賛美し、主の御名を崇めていくことが大切ではないでしょうか。イエス様と出会い、イエス様の業を経験する人がそれを受け入れていくのです。

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様。私たちには良いことも悪いことも起こりますが、それらはあなたの御業が現れるためになされたことです。自分たちの思いで、そのことを判断するのではなく、あなたがそれを通してどんな御業を表してくださっているのかを見ていくことが出来ますように。知識や常識にとらわれることなく、素直なやわらかい心で、あなたの御業を賛美していくことが出来ますように。

この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


<<聖書の箇所(新約聖書:ヨハネによる福音書)>>

◆生まれつきの盲人をいやす

ヨハ 9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。

ヨハ 9:2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

ヨハ 9:3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。

ヨハ 9:4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。

ヨハ 9:5 わたしは、世にいる間、世の光である。」

ヨハ 9:6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。

ヨハ 9:7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。

ヨハ 9:8 近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。

ヨハ 9:9 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。

ヨハ 9:10 そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、

ヨハ 9:11 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」

ヨハ 9:12 人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

◆ファリサイ派の人々、事情を調べる

ヨハ 9:13 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。

ヨハ 9:14 イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。

ヨハ 9:15 そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」

ヨハ 9:16 ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。

ヨハ 9:17 そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。

ヨハ 9:18 それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、

ヨハ 9:19 尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」

ヨハ 9:20 両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。

ヨハ 9:21 しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」

ヨハ 9:22 両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。

ヨハ 9:23 両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。