家庭礼拝 2013年9月11日 ヨハネ8章1-20 姦通の女
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起
前回の、神殿でイエス様が「渇いている人は誰でも私のところに来て飲みなさい。」と人々に呼びかけ、「私を信じるものは、その人の内から生きた水が川となって流れる。」と教えられたのは、ユダヤの仮庵の祭りの最後の日でした。その日は、祭司長たちはイエス様をとらえることが出来ず、人々は各々家に帰り、イエス様はオリーブ山に行かれました。きっとイエス様はこの時オリーブ山で寝泊まりしていたのだと思います。
今日の話はその次の日の神殿での話です。もう祭りは終わりましたが、そのオリーブ山から下りて、朝早く、また神殿の境内に入られました。すると人々は皆、イエス様のところにやってきたので、座って教え始められたのです。20節では、「イエスは神殿の境内で教えておられた時、宝物殿の近くでこれ等の事を話された、」とありますので、一番外側の異邦人の庭ではなくて、その奥の婦人の庭にいたようです。ここには、賽銭を捧げにくる多くの女性も男性もいたのです。この場所で、あのよく知られた事件が起こりました。
承
それは、3節から6節に書かれています。
ヨハ 8:3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
ヨハ 8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
ヨハ 8:5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
ヨハ 8:6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕えられた女の人を連れてきたのです。この人たちは、自分たちでも裁けるはずなのですが、わざわざイエス様のところに連れてきて、「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところであなたはどうお考えになりますか。」と尋ねたのです。このユダヤ人たちは、結論は知っているのです。律法に関する知識は持っているのですから、わざわざイエス様に聞くまでもないのです。ですが、ユダヤ人たちがこの女の人をイエス様に連れてきたのは、イエス様を試すためだったのです。「あのイエスなら、きっと律法に反するようなことを言って、女を助けるように言うだろう。」そう見越して、イエス様のところに連れてきたのです。そして、もし律法に反するようなことを言ったら、議会に訴えて、捕えさせようと考えていたのです。このユダヤ人たちは、自分たちの律法の知識は正確であり、たとえイエス様でも翻すことが出来ないだろう。自分たちにはこの律法で裁く権利があるし義務もあると考えているのです。そして、もし、律法通り石で打ち殺せと言ったなら、今まで愛の教えを説いていたことが嘘になるので、きっと民衆の信頼を失うだろうと見越しているのです。このユダヤ人たちにとって、この姦通を犯した女の人は、人間扱いされず、イエス様を試す道具とされているのです。
イエス様はこの時座って教えておられました。ですから、その周りには、教えを聞くために集まってきた人も座っていたはずです。多くの人々が、イエスさまが、どのように答えるのかを固唾を飲んで、待っていたのです。イエス様はかがみこんだまま、地面に何かを書いていたというのです。この時イエス様が何を書いていたのかはわかりません。ある人の説によると、イエス様が書いていたのは、この連れてきたユダヤ人たちの罪を書いていたのだという話もあります。もしかするとそうなのかも知れませんが,分かりません。これは、まるで絵にかいたような構図です。この場面にひきつけられる人は多くいるのです。ユダヤ人たちは、イエス様に問い続けました。7節から9節です。
ヨハ 8:7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
ヨハ 8:8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
ヨハ 8:9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
イエス様の教えの中心は、愛と許しですが、この時は許してあげなさいとは言わなかったのです。そして、「あなたたちの中で罪を犯したことのないものが、まず、この女に石を投げなさい。」と言ったのです。イエス様の考えは、人を裁けるのは、罪のない人だけに与えられるものである、と言うことなのです。ユダヤ人は、自分たちの律法に関する知識で、人を裁けると考えて、イエス様にこの女の人を突き出したのです。それに対して、イエス様は、裁けるのは罪のないものだけである。罪のないものがこの女に石を投げなさい、と言ったのです。そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられたのです。多分この時、もし罪あるものがこの女に石を投げようとしたなら、決して神様のさばきを免れることが出来ない、と言う無言の迫力がひしひしと伝わってきたのだと思うのです。その迫力に押されて、だれも石を投げることが出来なかったのです。そして年長者から始まって、一人また一人と立ち去り、イエス様と女だけが残ったのです。そしてこういったのです。10節と11節です。
ヨハ 8:10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
ヨハ 8:11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
イエス様は、この女の人の罪を許したわけではないのです。罪は罪なのです。ですが、今は私もあなたを罪に定めない、と言っているのです。すなわち、罪はあるのだけれども、今は裁かないということなのです。そしてその代わりに、もう罪を犯してはならないと、約束させているのです。
これはイエス様が私たちに言われていることと同じなのです。私たちは多くの罪を犯しているのですが、イエス様はそれを十字架によって、すべて許してくれたということではないのです。やはり罪は罪なのです。ですが、イエス様がそれを十字架の贖いによって、今は裁かないといってくださっているのです。そして、私たちにもう罪を犯してはならない、と約束させているのです。
この女の人はそのあと、このイエス様の約束を守ったかどうかは書かれていません。ですが大切な事は、イエス様はこの女の人を信頼して、私も裁かないから、もう罪を犯してはいけない、と言ったのです。イエス様は、過去に犯した罪を言うのではなく、これからの新しい生き方を言っているのです。私たちに対しても、今は裁かない、だから新しい生き方をするようにと約束させているのです。それを守るか破るかは私たちの責任なのです。イエス様の信頼に応えること、それが私たちの主に従って生きる生き方になるのです。
転
次の場面は、今までの場面とは大分違うようです。前の場面では、イエス様と女の人だけになり誰もいなくなったのですから、その時から結構時間がたっているのかもしれません。イエス様は今度は、ご自分からユダヤ人たちと議論をしているのです。12節と13節です。
ヨハ 8:12 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
ヨハ 8:13 それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」
先週の場面では、イエス様は、「私は命の水である」と言うようなことを言われました。それは、神殿で水の儀式が行われていたからです。そして、今日は、「私は世の光である。」と言いました。これも光の儀式を受けての事なのです。ですが、このイエス様の言葉は、ユダヤ人たちには大きな衝撃を与えました。なぜならば、私は光であると宣言するのは、私は神であるとの宣言に等しいからです。そして、私に従うものは、命の光を持つと、宣言されたからです。これは神様にだけ許されるような言葉なのです。それに対して、ファリサイ派の人々は、「どこにそんな証拠があるのか。自分勝手に言っていることは、真実ではない」と言い返したのです。するとイエス様はこう答えました。14節から18節です。
ヨハ 8:14 イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。
ヨハ 8:15 あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。
ヨハ 8:16 しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。
ヨハ 8:17 あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。
ヨハ 8:18 わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」
イエス様は、ここで証しと裁きについていくつかの事を言っています。一つ目は、イエス様の証しは真実である、と言うことです。二つ目はイエス様は誰をも裁かない、と言うことです。三つめは、裁いたとしてもイエス様のさばきは真実である、と言うことです。共通していることはイエス様の証しも裁きも真実であるということです。なぜならばイエス様は神様を知っており、神様と共に居られるからなのです。神様自身が、イエス様を証しそして裁くからです。ユダヤ人たちは、このイエス様の言葉に恐れを抱きながら、「あなたの父はどこにいるのか」と言ったのです。イエス様は「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」と答えました。ユダヤ人たちは知識だけだったのです。神様を知るというのは知識ではなくて、経験なのです。
結
私たちは、多くの罪を犯しながら裁かれていません。イエス様自身が私は裁かないといっています。ですが、それは罪が許されたわけではありません。代わりにイエス様が罪を負ってくださっているだけなのです。そして、もう罪を犯さないようにと私たちに約束させているのです。知識を誇るものはその知識によって裁こうとしますが、イエス様は、神様を知っているのに裁かないと言って下さっているのです。それは、神様が愛の神様だからです。私たちを信頼してくださる神様だからです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、ユダヤ人たちは、自分たちのよく知っている律法によって、姦淫の女を裁こうとしました。ですが、神様を知っているイエス様は裁こうとしませんでした。そして「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言いました。罪ある私たちには、他人の罪を裁く権利はないのです。人を裁いたり、人を批判したりする前に、自分はどうなのかを、その権利があるのかを教えられるものです。裁くことが出来るのはイエス様だけです。ですがイエス様は、裁かないといって、私たちに救いをもたらそうとして下さいました。この愛と憐れみとに感謝いたします。どうか私たちも裁くものではなく、愛の豊かなものとなることが出来ますように導いてください。イエス様の、もう罪は侵さないようにと言って、放免して下さっているその信頼に応えることが出来ますように導いてください。この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン