家庭礼拝 2013年9月4日 ヨハネ7章37-52 生きた水の流れ

  賛美歌454 愛する神にのみ聖書朗読  祈り 奨励説教 一分黙想 全員祈り 主の祈り  賛美歌456 わが魂を愛するイエスよ

 

 今日の舞台背景もまた、仮庵の祭りの最中であり、8日間の最後の日です。これはユダヤの三大祭りの一つであり、過ぎ越しの祭り、ペンテコステの祭り、そして仮庵の祭りです。この仮庵の祭りについてはレビ記23章に詳しく書かれていますが、特に42節から44節にはこう書かれています。

レビ 23:42 あなたたちは七日の間、仮庵に住まねばならない。イスラエルの土地に生まれた者はすべて仮庵に住まねばならない。

レビ 23:43 これは、わたしがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたたちの代々の人々が知るためである。わたしはあなたたちの神、主である。

レビ 23:44 モーセは、以上の主の祝日のことをイスラエルの人々に告げた。

 このように、この祭りはモーセによって、出エジプトを思い起こさせるために記念として行われているのです。過ぎ越しの祭りもそうですから、出エジプトが、イスラエルの民にとって、どれほど大きな出来事だったのかが分かります。この仮庵の祭りの最中に、祭司達は金の水差しをもって、シロアムの池に降りてそれに水を満たしました。その水は神殿にまで運ばれて、神様への供え物として祭壇の上に注がれました。これは水に対する感謝であり、雨乞いの行為であり、荒野を旅していた時に岩から水を生じたことを記念することでもありました。

 このような水の儀式の行われている中で、イエス様のこの言葉が言われたのです。37と38節です。

ヨハ 7:37 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。

ヨハ 7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 この言葉は、良く知られているように、5人もの夫を替えたサマリアの女が井戸に水を汲みに来た時に言われたイエス様の言葉と同じです。水の儀式は体の渇きですが、イエス様の言った渇きは心の渇きです。儀式の水はシロアムの水ですが、イエス様の言った水とは聖霊です。イエス様は、「心の渇いている人、救いを求めて渇いている人は誰でも、私のところに来て聖霊の恵みを飲みなさい。そうすれば、その人の内から聖霊の命の水が川となって流れ出るようになる。平安に満たされる。」と言ったのです。イエス様の言葉には、「私を信じるものは、聖書に書いてある通り」とありますが、この聖書の箇所はハッキリしていません。むしろ箇所ではなく、聖書が語ろうとしているように、と言うことかもしれません。ヨハネは、この言葉の意味が分かるように、次の39節のような注釈をつけました。

ヨハ 7:39 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。

 イエス様の言われた約束は、信じれば今すぐにではなく、いつか、そのようになるとの約束だったのです。それは、イエス様がまだ天に召されていないために、その聖霊がまだ下っていなかったためだというのです。

 この生きた水の言葉を語った、イエス様には神様の言葉のような威厳がありました。そしてその言葉を聞いていた人たちの心を震わせたのです。人々はこう言い合いました。

ヨハ 7:40 この言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、

ヨハ 7:41 「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。

ヨハ 7:42 メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」

ヨハ 7:43 こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。

ヨハ 7:44 その中にはイエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった。

 イエス様の言葉を聞いた人々は、その時直接感じたままに、経験したままに、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う人や「この人はメシアだ」と言う人々がいました。その一方で、一呼吸おいて「メシアはガリラヤから出るだろうか。」「メシアはベツレヘムから出ると書いてあるではないか。」と言う人々もいました。これは、直接経験したことを大切にするのか、文字に書かれたことを大切にするかと言う、決断の大きな分かれ目なのです。どちらが良いとは言い切れませんが、私たちもこのような決断を迫られるのです。このように群衆の間にも意見が分かれたのです。ですが、まだイエス様を捕えようとして手にかけるものはいなかったのです。その言葉の力に圧倒され、手を出すことが出来なかったのです。

その人々の中に、イエス様を捕えに行った下役の人たちがいました。その人たちは、イエス様を捕えることなく帰ってきました。するとユダヤ人の指導者たちはこのように言いました。45から49節です。

ヨハ 7:45 「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。

ヨハ 7:46 下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。

ヨハ 7:47 すると、ファリサイ派の人々は言った。「お前たちまでも惑わされたのか。

ヨハ 7:48 議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。

ヨハ 7:49 だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」

 これが典型的なファリサイ人たちの考え方なのです。自分たちの考えのみが正しくて、そうでない人たちは惑わされている人々、呪われている人々と決めつけてしまうのです。上から目線で人を裁いてしまい、素直な心で物事を見つめることのできない人々なのです。すなわち、律法を第一として、それを偶像化してしまっているのです。信仰に熱心な人が陥りやすい間違いです。そして人々にもそれを要求するのです。こうしなければならない、ああしなければならないと要求するのです。それは人の心を束縛するのです。そのようなことは、一般の群集だけではなく、教養があり、衆議会の議員になっているニコデモに対してもそうでした。ニコデモが、律法を根拠に正当な意見を言った時にでさえも、彼らはこういったのです。50節から52節です。

ヨハ 7:50 彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。

ヨハ 7:51 「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」

ヨハ 7:52 彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」

 つまり、彼らは、自分たちの都合のよいところだけ律法を振りかざし、自分たちがその律法に背いていても何の反省もないのです。要するに矛盾しているのです。ニコデモが一方的に裁くことは、律法に反していることを言っても、そのことを意に介していないのです。このようなことが、信仰者にはよく起こります。裁いてはいけないと言いつつ、人を裁いている人や、神様を第一にしなければならないと言いつつ、実は律法を第一としていたり、嘘を言ってはいけないと言いつつ、自分自身が正直でない人などいろいろあるのです。ですから私たちには謙虚さが必要なのです。私たちには人を裁くような権威がないどころか、多くの罪の中にいることを認めて、主に救いを委ねるのです。そして裁きをも委ねるのです。

 結

イエス様は私たちに約束されました。「私を信じるものは、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」私たちはこの言葉を信じることによって、あふれるほどの聖霊に満たされて、命に満たされるのです。ですが、イエス様を信じることが出来ず、自分の考えにしがみつく人は、自分以外の考えをする人々を否定し、見下し、侮辱するようになるのです。私たちは、自分の考えがどれほど確かなものだと思っているのでしょうか。本当に命に満ちた人生を歩むために、このイエス様にこの人生を賭けて歩む勇気を与えられたいと思っています。

 

 

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様。イエス様は「私を信じるものは、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と約束されました。この約束を信じます。私たちに求められているのはただ信じることだけです。与えられるものはあふれるばかりの命です。どうかこの約束の尊さを受け入れつつ信じて歩むことが出来ますように。信じないで、自分の考えにしがみつくものではなく、信じて豊かに生きるものとさせてください。

この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

 


<<聖書の箇所(新約聖書:ヨハネによる福音書)>>

◆生きた水の流れ

ヨハ 7:37 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。

ヨハ 7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

ヨハ 7:39 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。

◆群衆の間に対立が生じる

ヨハ 7:40 この言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、

ヨハ 7:41 「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。

ヨハ 7:42 メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」

ヨハ 7:43 こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。

ヨハ 7:44 その中にはイエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった。

◆ユダヤ人指導者たちの不信仰

ヨハ 7:45 さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。

ヨハ 7:46 下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。

ヨハ 7:47 すると、ファリサイ派の人々は言った。「お前たちまでも惑わされたのか。

ヨハ 7:48 議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。

ヨハ 7:49 だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」

ヨハ 7:50 彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。

ヨハ 7:51 「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」

ヨハ 7:52 彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」