家庭礼拝 2013年8月28日 ヨハネ7章25-36 この人はメシアか

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 私たちは、イエス様の姿を見るとき、イエス様のように人々に良いことをし、神様のもとで正しいことをなさる方であっても、人から悪いもののように言われることから逃れることはできないことを知ります。これは一つの慰めになります。私たちは人から悪く言われるのを嫌がります。そしてなんとか人から批判されないような生き方をしようとします。良い人になれば、人から批判されないで済むのかと思ってそのように努力します。ですが、イエス様でさえも人から批判され、悪く言われるのです。ですから、人から批判されないように生きようとすることは、ある意味間違ったところのある生き方となります。私たちがイエスの弟子となり、イエス様と共に歩みたいと思うならば、人々から悪く思われ、批判されることも覚悟しなければならないのです。私たちが、人の中で生きていくことにおいて、批判されることは当然のこととして受け止めていく落ち着きが必要なのではないでしょうか。

 イエス様がイスラエルで公然と教え始められると、人々は皆驚きました。なぜならば、当局のものはイエス様を捕えようとし、パリサイ人たちはイエス様を殺そうとしていたからです。ですがイエス様はあまりにも堂々としていました。ですから、とても当局から捕えられようとしている人とか殺されようとしている人には見えなかったのです。ですから人々は口々にこう言いました。25節と26節です

ヨハ 7:25 さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。

ヨハ 7:26 あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。

人々はイエス様の落ち着いた堂々とした姿を見て、サンヒドリンの議員たちは捕えるどころか、この人がメシアであることを、本当に認めたのではないのか。だからこんなにも自由に話をしているのではないのか、と思ったほどなのです。

 イエス様に対する、このようなメシアではないのかという評判が高まるにつれて、それに対する議論も多くなりました。聖書に詳しいものたちは、聖書を根拠にこのように反論しました。27節です。

ヨハ 7:27 しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」

この人たちは、メシアには故郷はない。どこから来られるかは人間にはわからないのだと理解しています。ですがイエス様の出身はナザレであると知っているので、メシアであるはずがないと言っているのです。すなわち普通の人間だということです。すると、そのような議論が聞こえてきたイエス様はこういわれたのです。28節と29節です

ヨハ 7:28 すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。

ヨハ 7:29 わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」

 イエス様がここで言おうとしているのは、出身がどこであるのかが大事なことではない。神様を知っていることが大切なのであるということなのです。イエス様は「わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」と言いました。このことは、ユダヤ人たちを、今まで以上に憤らせました。今までは安息日の律法を破ることが問題でしたが、今回の発言は、神様を知っている、と言った、神様を冒涜する発言としてとらえられたのです。

 私たちの信仰においても、大切なのは神様やイエス様と直接交わり祈ることです。神様についてイエス様ついて知っていることではないのです。ですが知識のある人はそれを振り回します。彼らは知識によって誇る気持ちがあるので、神様を知ることから遠ざけられてしまいます。私たちの信仰においても教理が大切だという教えと、聖霊を受けることが大切だという教えとがあります。これは車で言うとブレーキとガソリンの関係かと思います。いくら教理が大切でもブレーキをかけてばかりいたのでは車は走りません。ですが、聖霊だけを大切にしていると暴走しかねないのです。聖霊による力を受けて、教理によるブレーキをかけながら、信仰のコントロールをして行くことが必要になるのです。

 人々はイエス様の、神様を知っているとの発言を聞いて憤り、捕えようとしました。30,31節です。

ヨハ 7:30 人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。

ヨハ 7:31 しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。

 憤った人々はイエス様をとらえようとするのですが、怖くてできなかったのです。それはイエス様を信じる人々が大勢いたので、捕えれば暴動が起こるのではないかと心配したのです。イエス様を信じる人達は、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」とその働きを素直に認め受け入れていたのです。私たちも、神様の恵みをこのように素直に認める心が大切なのです。「神様がいなければ、これほど多くの恵みが与えられただろうかと。」思う心が大切なのではないでしょうか。

 聖書には、イエス様が捕えられなかったのは「イエスの時はまだ来ていなかったからである。」と、時の重要性を語っています。時が来なければ何も起こらないのです。その時を備えてくださっているのは神様です。私たちはその神様の備えてくださる時をいつも待ち望むのです。信仰者はその時を待つのです。ファリサイ派の人々はイエス様の評判が高まるほどに、何とか捕えようと考えていました。

 するとイエス様はこういわれたのです。33節と34節です。

ヨハ 7:33 そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。

ヨハ 7:34 あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」

 イエス様はハッキリ言っているのです。「私は、私をお遣わしになった方、すなわち神様のもとからやって来たのであり、今しばらく、あなたたちと共にいる。だが私はその後、お遣わしになった神様のもとへ帰る。あなたたちは私を探しても、見つけることが出来ない。あなたたちはその場所に来ることができないからだ。」と言ったのです。人々はこのイエス様の言っていることがわからなかったわけではないのです。ただ信じることが出来なかったのです。そしてこの言葉全体を信じないで、自分たちの受け入れられることだけを信じたのです。それは、「私はあなたたちの来ることのできないところに行く」と言うことだけが理解できたのです。そこだけを人々は議論しました。そしてこのように言ったのです。35節と36節です。

ヨハ 7:35 すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。

ヨハ 7:36 『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」そう言って、イエス様の言葉を素直に受け入れないで、自分たちのこの世的な考えで理解しようとしたのです。

 結

イエス様がいくらハッキリ言っても、ユダヤ人たちはそれを信じることが出来ませんでした。ユダヤ人たちは、自分たちが受け入れられる部分だけを切り取ってそれを議論したのです。私達もまた同じ間違いをします。聖書全体が教えようとしていることを受け入れないで、自分の都合のよい事だけを信じて議論したり考えたりしているのです。私たちの信仰には、信じがたいことをも、受け入れる素直な信仰が必要なのです。イエス様の御心を知ろうとし、受け入れようとする思いをもってその言葉を聞き入れる柔らかい心が必要なのです。ユダヤ人たちにはそれがありませんでした。いつも批判し排除しようとする思いで聞く者には、何も与えられないのです。素直に見る者には「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」との思いが与えられるのです。そして信じるものへと変えられていくのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様。このように信仰が与えられていることを感謝します。信じる心が与えられていることを感謝いたします。ユダヤ人たちの中には信じることが出来ない人々もいました。そのような人々はイエス様をとらえようとし、殺そうとしました。いくら、イエス様が真実を語っても、自分の都合のよい事しか受け入れられませんでした。今の世でも同じことは起こっています。自分の中でも起こっているのです。ですが、神様、どうか、あなたを受け入れ正しい信仰のもとに信じていくことが出来ますように導いてください。信じることによって見えてくる世界をどうか豊かに見させてください。あなたの救いが、この世に与えられ、多くの人々が信じるものとなりますように。

この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

 

<<聖書の箇所(新約聖書:ヨハネによる福音書)>>

◆この人はメシアか

ヨハ 7:25 さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。

ヨハ 7:26 あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。

ヨハ 7:27 しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」

ヨハ 7:28 すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。

ヨハ 7:29 わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」

ヨハ 7:30 人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。

ヨハ 7:31 しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。

◆下役たち、イエスの逮捕に向かう

ヨハ 7:32 ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。

ヨハ 7:33 そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。

ヨハ 7:34 あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」

ヨハ 7:35 すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。

ヨハ 7:36 『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」