家庭礼拝 2013年7月31日 ヨハネ6章22-59イエスは命のパン
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起
今日の聖書の箇所はヨハネ福音書のとても大事なところに来ていると思います。前回の5千人の食事に続いて、今日は「イエスは命のパン」であることが語られ、次回には「永遠の命の言葉」について語られています。要するに、ここでは命とは何か、命は誰から与えられているのか、永遠の命とは何かというとても大切な事が語られているのです。
5千人の食事の話は、最後の晩餐と同様に、聖餐式を表すものであることが言われています。天を仰いでパンを裂き、分け与えていることが聖餐式と同じように感じられるです。ですが5千人の食事の話は4つの福音書全部に語られているのに、最後の晩餐の話はヨハネ福音書には書かれていないのです。こんな大切な事をどうしてヨハネは省いてしまったのだろうかと思います。むしろヨハネは、弟子たちとだけのこじんまりとした最後の晩餐のようなことよりも、5千人もの大勢の人々とともに、場所をもこだわらず、野原の草原の上で行った、5千人による聖餐式のほうを大切だと考えたのかもしれません。本当の聖餐式は。時と場所にもこだわらず、食事のたびに多くの人々とともに分かち合い感謝をささげるのが、聖餐式なのかもしれません。とりわけ、教会の聖餐式のみが特別な事と考えるのは、ヨハネのの思いとは違うかもしれません。
承
ですから、ヨハネはここに5千人との食事の後に大切な命について語っているのです。多くの大切な御言葉があるので、順を追って語っているととても語り切れないので、今日はイエス様が語った大切な言葉を取り上げながらそのことについて語っていきたいと思います。
5千人の食事の後、イエス様は弟子達だけ小船で先に行かせて、ご自分は後から歩いて行かれました。ですが群衆はそのことに気づきませんでした。ところが、そこにイエス様がいないことに気づいた群衆の一部はきっとカファルナウムに行ったのだろうと予測して、小船で先回りしようとしたのです。ところがすでにそこにはイエス様がいたのです。それで群衆は驚きました。そこでイエス様が群衆に言った言葉は次のような言葉でした。26節と27節です。
ヨハ 6:26 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。
ヨハ 6:27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
イエス様は、群衆の思いがどこにあるのかが分かっていました。5千人の食事の事に驚いた群衆は、この人を王様に祭り上げれば、自分たちはいつでもおなかいっぱい食べられる、と考えていたのです。それで、その金のなる木を逃してなるものかと追いかけてきたのです。ですがイエス様の戒めは、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」でした。この世のものはいずれ、朽ちて無くなるのです。そのようなものをいくら追い求めても、同じことの繰り返しなのです。イエス様は永遠の命に至る食べ物のために働きなさい、と言いました。永遠の命にいたる食べ物とは、イエス様の御言葉を信じることです。この世のものを求めるのではなく、イエス様の霊的な御言葉に生きなさい、と戒めたのです。
ですが群衆にはそのことの意味が分かりませんでした。いつもこの世的な事しか思っていないので、いったいどんな良い事をしたらいいのですか、と律法的な考えでイエス様に質問したのです。するとイエス様は答えられました。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」イエス様が答えられたのは、これをすればよい、これをしてはいけないというような律法的行為について言ったのではなく、信じること、と言う信仰の問題を言ったのです。しかも、神がお遣わしになったものとは、イエス様の事です。そのイエス様を信じることが、神の業であり、永遠の命にいたる食べ物のために働くことであると教えられたのです。
転
今度は、群衆にもイエス様の言っている意味が少し分かったようです。「神がお遣わしになった私を、信じなさい」と言っていることがわかったのです。ですが群衆はそれをすぐには受け入れませんでした。あなたが神がお遣わしになった方だというならばその証拠を見せてください、と言ったのです。信じない人は証拠を見せろと言い、幾ら証拠を見ても信じないのです。一方信じる人はそれを見ないで信じることが出来るのです。この群衆はイエス様に、モーセと同じような証拠を見せろと言ったのです。そのモーセの証拠と言うのは天から降らせたマナすなわち天のパンだというのです。ここでも群集の関心は自分たちの胃袋を満たすことにあったのです。
イエス様は、モーセがパンを与えたのではない、天の神様が与えたのだ。神様のパンは命を与えるパンであると答えました。すると群衆はそのパンが欲しいといいました。まだイエス様の言っていることがわかっていないのです。あくまでも胃袋を満たすパンの事を言っているのです。
イエス様はそれにもかかわらず答えました。35節です。
「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」
ここで初めて、群衆はイエス様の言っているパンと言うのが群衆が言っている胃袋を満たすパンではなく、霊的なパンであり、私が命のパンである、と言った、イエス様自身であることに気が付いたのです。群衆はむしろがっかりしました。食べるパンを求めてきたのに、私が命のパンであるなどと言われて、それで満足するような人たちではなかったのです。それでつぶやき始めました。ヨセフの息子のくせに、私は天から降ってきたなどと、とんでもないことを言うものだと、言い始めたのです。結局、群衆はこの世的な考えしか持たず、自分の胃袋を満たすことしか考えられませんでした。イエス様が何を言おうとしているのかなど少しも理解しようとしなかったのです。この無理解が結局はイエス様を十字架につけてしまうのです。
イエス様は、群衆にはっきりと言ったのです。イエス様がなぜこの世に来たのか、神様の御心とは何だったのかをはっきりと言ったのです。ですが、群衆の心には届きませんでした。そのイエス様のみ言葉とは、38節から40節です。
ヨハ 6:38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。
ヨハ 6:39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。
ヨハ 6:40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
これを要約すれば、「イエス様が、やってきたのは、神様の御心を行うためであり、それは、イエス様を信じるものを、終わりの日に復活させることであり、イエス様を見て信じるものが皆永遠の命を得ることである。」と言うことです。もっと、一言で言えば、信じるものに永遠の命を与えるため、と言うことが出来ます。それが命のパンであり、それがイエス様なのです。
結
私たちも、この群衆と同じく、この世的な願いばかりを思っているのかもしれません。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。と言われてもそれに気が付かず、いつもこの世的な願いに終始しているかもしれません。でも、パンを信じるのではなくイエス様を信じるなら、私たちは導かれて、永遠の命にいたるのかもしれません。私たちは、イエス様を信じるものとなるために、生きているのです。それが永遠の命へとつながっているのです。この世のものから、解放されて、永遠のものへと導かれるとき、私たちの思いには本当の平安と喜びとがあるに違いありません。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。私たちがいかにこの世的な思いにとらわれて、永遠の命である、命のパンを求めることが少ないのかを思わされます。イエス様はその永遠の命を私たちに与えるためにやってきましたが、私たちの目は曇らされて、この世的な願望のみを願っています。神様どうか、イエス様の御心にかなって、イエス様を信じるものとなり、イエス様の命のパンをいただくものとなることが出来ますように。その命のパンを多くの人々とともに分かち合い、あなたのもとにある聖餐の食卓につくことが出来ますように導いてください。
この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:ヨハネによる福音書)>>
◆イエスは命のパン
ヨハ 6:22 その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。
ヨハ 6:23 ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。
ヨハ 6:24 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。
ヨハ 6:25 そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。
ヨハ 6:26 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。
ヨハ 6:27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
ヨハ 6:28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、
ヨハ 6:29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
ヨハ 6:30 そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。
ヨハ 6:31 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
ヨハ 6:32 すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。
ヨハ 6:33 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
ヨハ 6:34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、
ヨハ 6:35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。
ヨハ 6:36 しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。
ヨハ 6:37 父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。
ヨハ 6:38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。
ヨハ 6:39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。
ヨハ 6:40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
ヨハ 6:41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、
ヨハ 6:42 こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」
ヨハ 6:43 イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。
ヨハ 6:44 わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。
ヨハ 6:45 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。
ヨハ 6:46 父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。
ヨハ 6:47 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。
ヨハ 6:48 わたしは命のパンである。
ヨハ 6:49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。
ヨハ 6:50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。
ヨハ 6:51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
ヨハ 6:52 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。
ヨハ 6:53 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。
ヨハ 6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。
ヨハ 6:55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。
ヨハ 6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。
ヨハ 6:57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。
ヨハ 6:58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
ヨハ 6:59 これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。