家庭礼拝 2013年7月14日 ヨハネ6章1-21五千人の食事

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 今日の5千人の人々と食事を共にする話は、4つの福音書全部に書かれている数少ない記事です。それだけ、大切な出来事としてとらえていたのでしょう。そして、この食事の場面はイエス様と弟子たちの最後の晩餐の場面とよく似ているのです。それで、これらの事はイエス様の聖餐式を表しているものとして、大切な場面として、教会はこのことを受け継ぎ、教会の聖餐式と言う形で語り伝えてきたのです。新約聖書には不思議なほど共に食事をするという場面がたくさん出てきます。これは単に食事をするというよりも、信仰共同体の姿を象徴しているような気もします。神様によって養われ、生かされている姿なのかもしれません。

4章と5章と6章の順番が不自然であり、5章と6章が入れ替わったのではないかと言う話は、5章のベトサダの池で病人をいやす話があった時に一度話をしていますが、ここでもう一度確認してみます。

 イエス様がサマリアを通り、井戸で女の人と命の水の事を話した後、ガリラヤに行き役人の息子を癒しました。そのあと突然エルサレムに行って、ベトサダの池で盲人を癒し、またガリラヤに戻って来て5千人の食事を行ったというのでは不自然なので、ガリラヤで、役人の息子を癒した後、そのままそこに留まって、5千人の食事の話へと続くだろうということです。すなわちエルサレムにはそのあと行ったのだろうという説が定説です。

 イエス様が、ガリラヤ湖までやってくると大勢の群集が後を追いかけてきたことが書かれています。イエス様が多くの病人を癒し、そのしるしを表したので、その評判を聞いて大勢の人々が集まってきたのです。その時、イエス様たちは山に登り、そこで座って休んでいました。もしかするとお祈りをしていたのかもしれません。イエス様は目を上げて、山から下のほうを見ると大勢の群集が、ご自分のほうに来られるのを見ていました。この時は、ユダヤ人の大きな祭りである、過ぎ越し祭が近づいていたので、エルサレムまで旅をする途中の人も沢山いたのではないかと思います。でも、何も持たずにただイエス様をめがけて、癒しを求めてきた人も沢山いたかもしれません。すでに夕暮れも近くなり、イエス様の周りには大勢の人々が何かを期待して、待っていました。

マルコによる福音書では、こう書かれています。「一同は船に乗って、自分たちだけで人里離れたところに行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけていくのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼等より先についた。イエスは船から上がり、大勢の群集を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」と書いてあります。マルコ福音書では山ではなく船に乗って見ておられました。そして羊飼いのいない羊のように群がってついてくるのを見て深く憐れまれたといっています。そしてそこでいろいろと教えられたのです。

 そのようなことをしていると、夕方になりました。イエス様はフィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われましたが、それはフィリポの信仰を試すためだったのです。男だけでも5000人いるのです。女子供を入れれば1万人か2万人もの人が居たのかもしれません。人間の力ではどうしようもない状況の時にあなたはどうしますかと問われているのです。フィリポは信仰的にではなく、常識的に答えました。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えました。要するに、とてもとても私たちには無理な話ですと答えたのです。

 ところが、その話を聞いていたのか、弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエス様に言いました。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」

アンデレはペトロをイエス様のところに連れて行った人です。また、最後の晩餐の前にギリシャ人をイエス様のところに連れて行ったのもアンデレです。ここでも少年をイエス様のところに連れて行ったのです。その少年は大麦のパン5つと魚2匹を持っていました。どうしてアンデレはこの少年を連れてきたのでしょうか。きっとアンデレはイエス様とフィリポの話を立ち聞きし、この群衆のために必要なパンを探しに行ったのだと思います。そして、「イエス様がパンを必要としています。誰かパンを持っている人はいませんか」と聞いて回ったのかもしれません。ですが誰も自分のパンを出そうとはしなかったのです。きっとエルサレムの過ぎ越し祭に行く途中の人もいたでしょうから、パンを持っている人もいたのでしょうけれども、だれもそれは自分に必要なものだと思って差し出す人はなかったのです。ところが、ここにこの少年がいたのです。この少年はその純粋な思いで、イエス様が必要なら、僕のパンをあげるよと言って自分の弁当を差し出したのかもしれません。アンデレはパンを持って行ったのではなく、この少年をイエス様のところに連れて来たのです。アンデレは分かっていたのです。予感していたのです。イエス様のところに連れていけば、イエス様に差し出せばきっと素晴らしい奇跡が起こると思っていたのです。ですがイエス様の前ではそうは言いませんでした。むしろ、アンデレは、「けれどもこんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」と言ったのです。ですがやはり、イエス様が求めていたのはこのような捧げものだったのです。イエス様の喜ばれる捧げものはこのようなものだったのです。純粋な捧げものです。そして奇跡は起こったのです。10節と11節です。

ヨハ 6:10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。

ヨハ 6:11 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。

イエス様は人々を座らせ、パンをとって、感謝の祈りを唱えてから座っている人々に分け与えられました。そして、魚も同じようにして、欲しい分だけ分け与えられました。人々は満腹するまで食べたのです。そしてそのパンくずを集めただけでも12籠がいっぱいになるほどだったのです。

 どのようにして、みんなが満腹するまで食べられたのかと言うことにはいろいろな説があります。今の私たちにも納得できるような説明がいろいろとなされています。ですがここで大切なのは奇跡のからくりを知ることではなくて、イエス様が、少年の差し出した小さな捧げものを通して、大きな奇跡を行ったということです。フィリポは、常識的に、無理でしょう、と答えました。アンデレとこの少年はイエス様なら小さな捧げものでも何とかしてくれると信じたのです。ですから、私たちの力ではとてもかなうことのできないようなことがあったとしても、私たちの小さな捧げものをもって、イエス様にお願いしてもいいのです。こんなもので一体何ができるのでしょう、と思われるものを用いて、イエス様は大きな奇跡を行ってくれるのです。それを信じるのが信仰です。ですから、そのまず小さな一歩を信仰を持って歩みだすことが大切なのです。イエス様は、物事の成功や失敗を顧みることなく、信じて捧げるその努力や供え物を大切にされる方なのです。ですから私たちは、こんな私でいいのだろうか、何も出来ないけれどもいいのだろうか、こんなわずかなものでいいのだろうかと恐れることはないのです。純粋な気持ちで差し出すならばきっとイエス様は大きな恵みの奇跡を行ってくださるのです。

 ところがそのようなイエス様の思いとは別に人々にはこの奇跡の出来事を見て自分たちのはかりごとの思いを考えていたのです。「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」。このように多くの人々に食べるものを与えてくださるのだから、私たちの王様になってもらって、自分たちはいつでも満腹できるようにしよう、そう考えていたのです。自分たちのためにイエス様を王様に祭り上げようとしていたのです。その思いを知ったイエス様は、人々から逃れて、一人で山に隠れたのです。

私たちがイエス様の前に立つとき、その信仰的態度は二つに分かれます。一つはイエス様のなさろうとしていることに答えて、自分の持っているどんな小さなものでもよいから捧げようとするのか。それとも、イエス様のなさろうとすることよりも自分が実現したいことを考えて、イエス様を自分の側に引き寄せようとすることなのかなのです。前者の捧げようとする者に対しては、イエス様はその小さな捧げものを用いて、大きな奇跡をおこないました。後者の自分の願望の実現のみを願う者に対しては、イエス様は山にお隠れになったのです。自分に何ができるかではないのです。自分に何がささげられるかなのです。それを用いてやってくださるのはイエス様なのです。どうするかはイエス様が決めることなのです。そのことを信じて捧げていくことが出来るようにと願うものです。

 

 

 

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様。私たちの小さな捧げものを、どうか受け取ってください。こんなもので何ができるかではなく、あなたが小さな捧げものを用いてくださって、大きな奇跡を行う方であることを信じて捧げさせてください。捧げるとき、見返りを求めることがありませんように。ただあなたの御業が行われることのみを願って捧げることが出来ますように。そしてその小さな一歩が人々に働いて大きな一歩となるように、あなたが導いてください。一人一人が善なる思いで行うことが出来ますように。

この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

<<聖書の箇所(新約聖書:ヨハネによる福音書)>>

◆五千人に食べ物を与える

ヨハ 6:1 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。

ヨハ 6:2 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。

ヨハ 6:3 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。

ヨハ 6:4 ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。

ヨハ 6:5 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、

ヨハ 6:6 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。

ヨハ 6:7 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。

ヨハ 6:8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。

ヨハ 6:9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」

ヨハ 6:10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。

ヨハ 6:11 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。

ヨハ 6:12 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。

ヨハ 6:13 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。

ヨハ 6:14 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。

ヨハ 6:15 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

◆湖の上を歩く

ヨハ 6:16 夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。

ヨハ 6:17 そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。

ヨハ 6:18 強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。

ヨハ 6:19 二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。

ヨハ 6:20 イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」

ヨハ 6:21 そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。