家庭礼拝 2013年6月26日 ヨハネ5章1-18ベトサダの池で病人をいやす
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起
イエス様と弟子たちの旅は、ユダヤで洗礼を授けていた所から、不穏な空気を感じてサマリアを通り、ガリラヤに行かれました。ガリラヤでは役人の息子をいやしました。ところが今日の5章ではいきなりエルサレムに戻っているのです。それも珍しいことに周りに弟子たちはいないようなのです。イエス様一人しか感じられません。さらに不思議なのは次の6章になるとまたイエス様はガリラヤ湖にいるのです。あの有名な5千人に食べ物を与える奇跡が起こるのです。
このイエス様の動きは、あまりにも不自然なので、5章と6章は前後が入れ替わってしまったのだろうというのが定説です。すなわち、イエス様はサマリアを通って、ガリラヤに行き、役人の息子をいやした後、6章のガリラヤ湖で5千人の食事の奇跡を行ったということです。そしてそののちイエス様は5章のエルサレムに戻られたというのが自然な流れだといわれています。
イエス様は弟子たちと別れて、一人でエルサレムに行くことがたびたびあったのです。例えば7章の0節11節にはこう書いてあります。それは仮庵祭の時でした。
ヨハ 7:10 しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。
ヨハ 7:11 祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、「あの男はどこにいるのか」と言っていた。
このように、この5章のイエス様も、7章の時と同じように弟子たちが先に祭りに行き、イエス様は人目を避け、隠れるように一人でエルサレムに昇ったのではないかと思います。
承
多分そのように、イエス様が一人で秘かにエルサレムの祭りに行ったとき、ベトザタと呼ばれる池の近くまでやってきました。これは恵みの家、とか、憐みの家という意味の言葉です。そこには五つの回廊があって、その回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていました。何故かというと、その池の水が突然動き出した時に、一番最初に水の中に入るとその病がいやされるという言い伝えがあったからです。この突然水が動き出すというのは、池の中で地下水が突然多く湧き出るときがあるのか、または温泉などにある間欠泉が出るのではないかと言われています。このユダヤでは、動く水、すなわち流れる水を生ける水と言い、動かず流れない水を死んだ水と言います。イエス様がサマリアの女に言った生ける水という意味の中にはこの流れる水という意味もあるのです。ですから水が突然動き出した時、そこには命が宿っていると考えられて、そこにいち早く入ったものがいやされると考えていたのです。
ところがそこに38年も病気で苦しんでいる人がいました。イエス様はそこにいて、その人が病気で横たわっているのを見て、長い間苦しんでいるのを知りました。イエス様はその人に声をかけました。「よくなりたいのか」と言ったのです。長い間、治りたい一心で、ここにいたのです。ですからよくなりたくないはずがありません。ですが本心はわかりません。38年も長い間病気でいると、それが当たり前になって、このままでもいいやという思いになっているかもしれません。下手に健康になると、いろいろな責任が出てくるからです。病気だといって、責任を逃れているのが幸せということもあるのです。私たちの信仰も同じなのです。38年間も教会に通っていて、まだ迷い苦しんでいる人がいて、イエス様が、「本当に救われたいのか。」と言っているようなものです。本当に救われて、イエス様に従って生きるようになれば、どんな迫害に会うかもしれないし、財産も失うかもしれないという恐れを持っているかもしれません。そしてぐずぐずと中途半端にただ教会に通って、この病人のように寝そべっているのかもしれません。
その人に対して、イエス様は、「よくなりたいか」と言ったのです。本心を聞いたのです。すると病人はこう答えました。7節です。
ヨハ 5:7 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
これはイエス様の質問に答えたのでしょうか。私には答えているように思えません。言い訳をしているようにしか聞こえないのです。確かにその通りに誰も助けてくれる人がいないために、水に入ることができなかったのかもしれませんが、イエス様の良くなりたいか、という問いに対して、「よくなりたいと思ったって駄目でしょう、」と答えているようなものです。もしイエス様の力を信じるなら、そんな答えをするはずがありません。信じているならば、「よくなりたいのです。助けてください。」というはずなのです。私たちも同じ間違いをしてはいないでしょうか。イエス様が救われたいのか、と尋ねられた時、「何度も救われるように祈ったけれども、救われませんでした」と、答えていないでしょうか。
転
にもかかわらず、イエス様はこういったのです。8節と9節です。
ヨハ 5:8 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
ヨハ 5:9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
イエス様は、この人に何を見て憐れまれたのでしょうか。ほかの人の癒しの時に見られるような、信仰のかけらが、この病の人には見られないのです。イエス様の言葉も、その病気が癒されるようにという言葉ではありませんでした。それは「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」でした。病気とは関係なく、起き上がりなさいといったのです。まるで仮病の人に言うように、「いつまでも寝ていないで、本当の自分に戻りなさい。あなたは起き上がれる、」と言っているようです。ですが、その周りで見ていた人たちには、イエス様が安息日に癒しを行ったとしか見えなかったのです。
ユダヤ人たちはその病気を癒していただいた人に「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」と言いました。するとこの人は、またしても言い訳をするのです。11節です。
ヨハ 5:11 しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。
本来ならば、癒しを感謝しなければならない人が、「あの人が癒したために、私は律法を犯さなければならなかったのだ。」と文句を言っているようにも見えます。ユダヤ人たちは「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と詰問すると「分からない」と答えたのです。癒してくれた大恩人のことを分からないといっているのです。ところがその後に、この病人だった人はイエス様と境内でまた出会いました。イエス様はこの人に「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」と言いました。イエス様は、この言葉で何を言おうとしていたのでしょうか。そのはっきりしたことは何もわかりません、ですがイエス様はきっと見通していたのです。そしてこの病人も見通されていることがわかったから起き上がったのです。私は、この病人は、自分にも周りの人々にも、神様に対しても嘘をついていたのだと思うのです。本当は病気でないのに病気だと思い続けようとしていたのだと思うのです。それをイエス様に見抜かれて、起き上がらざるを得ないようにしたのではないかと思います。この人は、そのことをむしろ恨みにさえ思っていたのかもしれません。もっと寝ていたいのに起こされた子供のようにです。この人はそこを立ち去って、自分を癒したのはイエスだとユダヤ人たちに知らせました。癒されたことの感謝のかけらも見られません。どうして癒してくださった人に対してこんなことをするのでしょうか。そのためにイエス様は、ユダヤ人たちから迫害を受けるようになったのです。恩を仇で返すと言った格好です。
ユダヤ人たちはイエス様が安息日の戒めを守らないで、癒したり、床を担ぐように言ったりしたことを非難しました。するとイエス様は、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」と答えました。このことのためにユダヤ人たちはますますイエス様を殺そうと思いました。自分と神様を同じ様にみなしたからでした。神様が安息日にも休まずに働いておられることを振り返る事すらできなかったのです。イエス様の言葉が正しいことなど考えることもできなかったのです。
結
私たちは信仰生活の中で、本当に癒されたいと思っているでしょうか。救われたいと思っているでしょうか。何か自分にも人々にも嘘をついてごまかしてはいませんでしょうか。イエス様は私たちに「本当によくなりたいのか」と尋ねているのです。そして「自分の足で起き上がりなさい」と命じているのです。ここが私たちの信仰の出発点です。そこをしっかりと見つめてみる必要があるのではないでしょうか。そうでないと何十年たっても同じことの繰り返しなのです。イエス様は、今日も働いており、「本当によくなりたいのか」と尋ねているのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。今日の聖書のみ言葉から、私たちの本当の気持ちをもう一度見つめなおす機会が与えられたことを感謝いたします。私たちは自分をも人々をもごまかしながら生きているのかもしてません。イエス様は「本当によくなりたいのか」と尋ねており、「起き上がりなさい」と命じています。どうかこの命令に従って、自分で起き上がり、しっかりと自分に対しても神様に対しても正しく生きることができますように導いてください。自分をごまかさずに生きていくことができますように。
この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:ヨハネによる福音書)>>
◆ベトザタの池で病人をいやす
ヨハ 5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。
ヨハ 5:2 エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。
ヨハ 5:3 この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。
†
ヨハ 5:5 さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。
ヨハ 5:6 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
ヨハ 5:7 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
ヨハ 5:8 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
ヨハ 5:9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
ヨハ 5:10 そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」
ヨハ 5:11 しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。
ヨハ 5:12 彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。
ヨハ 5:13 しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。
ヨハ 5:14 その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」
ヨハ 5:15 この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。
ヨハ 5:16 そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。
ヨハ 5:17 イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」
ヨハ 5:18 このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。