家庭礼拝 2013年4月24日 ヨハネ1章1-18言葉が肉体となった
賛美歌434 主よみもとに聖書朗読 祈り 奨励説教 一分黙想 全員祈り 主の祈り 賛美歌436 十字架の血に
起
このヨハネによる福音書は、非常に格調の高い調子で始まっています。他の共観福音書が人間の語り口で始められているとすれば、このヨハネによる福音書はまるで、神様か天子が語っているような語り口ではじめられているのです。この語り口はどこか他の聖書の語り口に似ています。そうです、それは、創世記の初めの語り口と同じなのです。創世記の初めには、「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面(おもて)にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ」、こうして光があった。」と書かれています。ヨハネによる福音書では、
ヨハ 1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
ヨハ 1:2 この言は、初めに神と共にあった。
ヨハ 1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
と書かれています。そしてヨハネ福音書は続いて光と命について語り続けるのです。ここの聖書の箇所の中で、大切な言葉は、言と光と命と言う言葉です。これらは繰り返し何度も出てきます。そしてこれらのことばは、このヨハネの福音書全体を示す言葉となっているのです。クラシック音楽の序章のように、この福音書全体の雰囲気をここに書き表しているのです。
先週も言いましたが、このヨハネによる福音書は西暦100年ごろにエフェソで書かれました。エフェソはギリシャ文化の色彩の強い地域でした。ですから、ヨハネはギリシャ哲学にとっても大切な言葉の意味である「言(ロゴス)」と言う言葉を使って書き出しました。それは単に言葉と言う意味だけではなく「理性」と言う意味をも持つ哲学的言葉でした。その、ロゴスと言う言葉を使って、ヨハネは、初めに言があったと始めたのです。この書き出しは、ギリシャ人にとってはとても分かりやすい書き出しなのです。ですが、ヨハネが本当に言いたかったのは言葉の事ではないのです。この言という言葉をイエス・キリストと置き換えても意味が通じるのです。
ヨハ 1:1 初めにイエスがあった。イエスは神と共にあった。イエスは神であった。
ヨハ 1:2 このイエスは、初めに神と共にあった。
ヨハ 1:3 万物はイエスによって成った。成ったもので、イエスによらずに成ったものは何一つなかった。
ヨハネは、本当はこのことを直接言いたかったのですが、それではこのギリシャ文化世界には受け入れられません。何の事か理解できないのです。それで、「言(ロゴス)」と言う言葉をもちいて、なじみやすくしたのです。
承
ですが、この聖書を読み進めて行くうちに、言葉と言うのが「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」となって行き、この言葉と言うのがイエス・キリストである事が分かってくるのです。
最初、言葉と言う書き出しに少し面食らって、一体どういう意味だろうと考え出すのですが、これがイエス・キリストを表している事が分かれば、クリスチャンにとってはそんなに難しいことではありません。そして次に続く4節の言葉も
ヨハ 1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
となっていますが、ヨハネ14章6節では、『イエスは言われた。「私は道であり、真理であり、命である」私を通らなければ、だれも父の下に行く事が出来ない。』と言っているのと同じ事なのです。
そして、この言すなわちイエス・キリストの本質は命であり、光であると言う事なのです。そして、ここからこの命と光について話されて行くのです。
転
そして福音書は5節でこう言いました。
ヨハ 1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
イエス様は、世に現れましたが、世はイエス様を理解しなかったのです。そしてその光を証しするものとして、洗礼者ヨハネが登場します。このヨハネの登場の仕方は、他の共観福音書とは違うのです。共観福音書では、ヨハネは救い主の登場前の道をならす、先駆者として現れますが、ヨハネによる福音書では光を証しするものとして現れるのです。光、すなわちイエスこそキリストであると証しするものなのです。8節と9節ではヨハネのことをこういっています。
ヨハ 1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
ヨハ 1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
ここでは言葉も命も光も皆イエス様を表すものです。8節の彼とは洗礼者ヨハネのことです。光は隠されたものを明るみに出し、真実を明らかにするものです。イエス様はその誠の光であって、全ての人を照らして、真実を明らかにするといっているのです。ところが暗闇は光を理解せず、世は言を認めなかったと書いてあります。イエス様は理解されず、世に認めらず、民は受け入れなかったのです。しかし一部の人々は受け入れ信じました。そしてその名を信じるものに神の子となる資格を与えました。それは、その人々が神によって生まれたからでした。
私達クリスチャンは、自分でクリスチャンになったのではなく、神によってクリスチャンとして生まれ変わる事が出来、神の子となる資格を与えられた者なのです。ですから、私達は神様のことを、堂々と、父なる神様、と祈る事が出来るのです。
ついに14節でヨハネは言とは何かを明らかにします。言が肉となり人間となって、私達の間に現れたと言ったのです。それは、14節と15節です。
ヨハ 1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
ヨハ 1:15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
もうこれで、言とはイエスである事がはっきりしたのですが、ヨハネはさらにはっきりとこう言います。17節です。
ヨハ 1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
結
ついにイエス・キリストの御名が現れました。ヨハネは慎重に言葉を選びながら、その言とはイエス・キリストの事であると導いたのです。そして、この方が本当の神様のことを明らかにしたのだといったのです。ヨハネは、ギリシャ文化になじんだ人々に、いきなりユダヤ文化を押し付けるのではなく、相手のよく知っているギリシャ文化の言葉を使って、徐々にイエス・キリストへと導きました。言葉であり、命であり、光である方、それはイエス・キリストだったのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、このヨハネ福音書を学ぶ幸いを与えられ、感謝いたします。ヨハネは慎重に言葉を選びながらも、イエス様が神の一人子であり、この世に現れた事、そしてイエス様はまことの言葉であり、命であり、光であり、真実を表す方であることを宣言しました。それをどう受け取るかは私達の信仰的決断にかかっています。暗闇は光を理解せず、世は言を認めなかったと書いてありますように、私達もまた、闇を愛するものとなるかもしれません。神様どうか、私達が信じないものではなく信じるものになり、認めないものではなく認めるものとなる事が出来ますように。どうか光を愛し、真実を愛して、命を得させてください。この世の全ての人に、イエス様の光が注がれ、真実が明るみに出され悔い改めにあなたに立ち返る事が出来ますように。
この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:ヨハネによる福音書)>>
◆言が肉となった
ヨハ 1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
ヨハ 1:2 この言は、初めに神と共にあった。
ヨハ 1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
ヨハ 1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
ヨハ 1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
ヨハ 1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
ヨハ 1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
ヨハ 1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
ヨハ 1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
ヨハ 1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
ヨハ 1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
ヨハ 1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
ヨハ 1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
ヨハ 1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
ヨハ 1:15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
ヨハ 1:16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
ヨハ 1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
ヨハ 1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。