家庭礼拝 2013年4月17日 ヨハネ1章1-5初めに言葉があった
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起
今日から、ヨハネによる福音書をはじめますが、ご存知のように福音書には4つあります。マタイ、マルコ、ルカの共観福音書と呼ばれる3つの福音書とこのヨハネによる福音書です。共観福音書は、もともとマルコによる福音書をベースにして書かれていますので、それぞれがよく似ています。ただ、誰に対してかかれているかという事が違うのです。このヨハネによる福音書だけは他の福音書とは違う独自のスタイルを持っています。それで、今日は、本題の聖書の中味に入る前に、このヨハネによる福音書とはどのようなものなのかをあらかじめ学んでおきたいと思うのです。何が他の福音書とは違うのかを、理解した上で、本題の聖書を学んで行きたいと思います。
今回このヨハネによる福音書をテキストに選んだのは、前回、ローマ人への手紙をテキストに選んだ理由と同じです。それは宗教改革者ルターが、「聖書は、極論すればこの二つ(ヨハネ福音書とローマ人への手紙)があればよい、」とさえ言っているからです。私達の学びも、そのような聖書の中の聖書として、このヨハネによる福音書を学んで行きたいと思っているのです。
承
ヨハネによる福音書の始まりは独特です。一節では
ヨハ 1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
このような書き出しをする、ヨハネによる福音書は最初から独特の雰囲気をかもし出しています。そして人の心を、魅了するような力強さで迫って来ます。何故このような書き出しなのでしょうか。それは、この聖書が誰に対して書かれているかと大いに関係があります。4つの福音書はそれぞれ、誰に対して書かれているかが比較的明確です。
マタイによる福音書の1節は、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。」となっており、そこから延々と人の名前の羅列があります。これは聖書になれない人には辟易します。何故こんな人の名前を読まなければならないのだと思います。ところが、これはユダヤ人にとっては大切なのです。この系図が正統的なユダヤ人であることを証明するものだからです。すなわち、マタイによる福音書は、ユダヤ人のために書かれた福音書なのです。ユダヤ人にしか理解できない系図の話やユダヤ的律法や習慣の話が大切に語られておりますが、それは反対にユダヤ人たち以外にはなかなか理解しにくいのです。マルコ福音書よりももっと詳しく知りたいと思っているユダヤ人に対してある意味、教育的に書かれています。
次はマルコによる福音書です。一節は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と始まります。これは何か、記録報告書の雰囲気があります。事実その通り、マルコによる福音書は最初の福音書でもあるためか、イエスの生涯の事実に関して、はっきりとした記録を書きとめようとする意図があります。ですから、これはもともと記録的、宣教的な目的をもっています。多くの人々に事実を知らせるために書かれています。
次は、ルカによる福音書です。その3節に書いてあるように、「敬愛するテオフィロ様、私もすべてのことを初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのが良いと思いました。」となっています。ルカによる福音書は、ローマの役人のテオフィロという人に対して書かれているのです。彼は異邦人なので、異邦人にも分かりやすく、読みやすく、たぶんその人の好みも含めて書かれているのだと思います。
このように、共観福音書はその福音書が書かれた相手が理解できるように、興味を持つようにそれぞれに対して大切な事を書き表しているのです。ですが、共通のベースはマルコによる福音書なので、大体似てはいるのです。
転
ところが、ヨハネによる福音書は違います。驚くことに、共観福音書では、とても大切な事とされている事が全く無いのです。例えば、イエスの系図はもちろんの事、イエスの誕生の記事、荒野の誘惑の記事、最後の晩餐の記事、ゲッセマネの記事、昇天の記事などが無いのです。イエスが捕らえられる直前の、最後の晩餐の記事はあるではないかと思うのですが、それは、私達の先入観で、そこの記事が最後の晩餐の場面であると思いこんでいるだけで、共観福音書のように、最後の晩餐であるというはっきりとした記述はないのです。それは過越際の前のこととして書かれています。
むしろヨハネによる福音書は、共観福音書には書かれていない出来事を著わしていこうとしているようです。共観福音書では、イエス様の公的活動の開始は、バプテスマのヨハネの投獄より後であると、きわめて明瞭に述べられています。例えば、マルコ1・14では「さてヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の国の福音を述べ伝えられた。」と書いてあります。ところがヨハネ福音書では、イエスの活動とヨハネの活動は平行しているのです。ヨハネによる福音書の22節から24節ではこう書かれています。「その後、イエスは弟子達とユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。」このように、ヨハネとイエスはそれぞれ同時期に活動し、洗礼を授けているのです。
このように、ヨハネによる福音書は、むしろ共観福音書に書かれていないことを補足するように描かれています。この福音書が一番最後に書かれた事と関係があるのかもしれません。この福音書はエフェソにおいて西暦100年ごろに書かれたものだそうです。使徒ヨハネが生きていれば、100歳近くになっています。エフェソはギリシャ文化の影響の強い異邦の国です。ですからこのエフェソの人々にその頃既に出回っている、共観福音書を理解させようと思っても、まず、ユダヤ人の習慣や、ユダヤ教の基礎知識が無いと、なかなか理解できなかったのです。むしろギリシャ文化は哲学や論理の発達した文化だったので、そのような人々にも理解しやすい福音書が必要だったのです。それで、このヨハネによる福音書が書かれました。一節の、初めに言葉があった、と言うときの言葉はギリシャ語のロゴスです。これはギリシャ哲学にはとてもなじみのある言葉なのです。ヨハネによる福音書は、そのようなギリシャ文化になじみのある人たちが、読みやすいように、興味を持ちやすいように、その思考パターンにあわせて、書かれているのです。
イエス様が死んでから、既に70年も過ぎているので、その書かれている記事は、事実を表すものと言うよりも、イエス様はこのような事を言おうとしていたのですよ、という事を書き記しています。すなわち、事実よりもその霊的な意味を中心に書かれているのです。
この福音書を書き表した人は、使徒ヨハネといわれていますが、もう一説にはエフェソの長老ヨハネでは無いかとも言われています。このエフェソに使徒ヨハネと長老ヨハネがいて使徒ヨハネの教えを受けつつ長老ヨハネが書いたとも言われています。というのも、ヨハネの手紙、二と三は「長老の私から」で始まっているからです。すなわち、長老ヨハネがいたのです。
結
このようにまだまだ多くの点で、共観福音書とは違っている福音書です。そしてその霊的な意味をしっかりと伝えようとしている福音書です。今回はこのような背景をしっかりと受け止めつつ、次回から本題のテキストに入って行きたいと思います。
最後になりますが、このヨハネによる福音書にはこれが書かれた目的がはっきりとその中に、書かれています。20章31節です。ここには、「これらの事が書かれたのは、あなた方がイエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受ける為である。」とあります。私達の学びを通して、信じるものとなり、命を受けるものとなるように学びたいと思います。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。今日からヨハネによる福音書の学びを始める事が出来、感謝であります。どうかヨハネが伝えようとしている、福音書の意味をしっかりと捕らえ、神様とイエス様のみ心を理解し、信じて行くものとなる事が出来ますように。そしてイエス様の御名によって命を受けるものとなるように、導いてください。これから、長い学びのときとなると思いますが、どうかあなたに守られて、倦まずたゆまず、喜びをもって学びを続ける事が出来ますように。また、学びの仲間があなたの導きによって加えられますように。
この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:ローマの信徒への手紙)>>
◇ヨハネによる福音書
◆言が肉となった
ヨハ 1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
ヨハ 1:2 この言は、初めに神と共にあった。
ヨハ 1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
ヨハ 1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
ヨハ 1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
ヨハ 1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
ヨハ 1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
ヨハ 1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
ヨハ 1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
ヨハ 1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
ヨハ 1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
ヨハ 1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
ヨハ 1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
ヨハ 1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
ヨハ 1:15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
ヨハ 1:16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
ヨハ 1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
ヨハ 1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。