家庭礼拝 2013年3月27日 ローマ15章1-13 自分ではなく隣人を喜ばせる。
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起
私達も、だんだん年をとり人生の本当の喜びと言うものを考えるとき、自分を喜ばすだけの喜びと言うものがいかにつまらないものであるかを感じ始めるものです。若いときは、自分が喜べる事が幸せだったし、たとえ利己的であったとしても、人を傷つける事があったとしても、わがままだったとしても、自分を喜ばせる事に夢中になっていたときがあったと思うのです。ですが、そのような喜びは、本当に子供の喜びでしかないと、だんだんと思うようになるものです。そして本当の喜びが、他の人に喜んでもらえる喜びの中にあることをいつしか知るようになってくるものです。たとえ損と思うような事でも、それが相手の喜びになるなら、喜んでやろうとするところに人間の成長を感じるのでは無いでしょうか。いつまで経っても自分のことしか考えられない大人は、子供のままの大人でしかないのでは無いでしょうか。今日の15章の最初の小見出しは、「自分ではなく隣人を喜ばせる、」と言うタイトルになっています。これはクリスチャンでなくても、多くの人々が、大切な事として、目指している事になるのでは無いかと思います。増してやクリスチャンなら、もっともっと大切にしてもよい事かもしれません。
承
前回学んだ14章では、強い人と弱い人という言葉が使われており、信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません、と教えられました。私達が隣人と交わるとき、裁いてはいけない、侮ってはいけない、互いに平和に過ごしなさい、と言うことを先週はいろいろな場面で何度も思い出させられ、私達の実際の生活でこの言葉の意味する事の大切さを思わされたものです。
そして、今週の15章でもまた、この強い者と弱い者という言葉で始まっています。一節では、
ロマ 15:1 わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。
と言う勧めから始まっております。14章の裁いてはならない、侮ってはならないと言う事から、さらに一歩進んで、強くないものの弱さを担うべきである、と言う事が言われました。すなわち、裁いたり、侮ったりして自分の満足を求めたり、するのではなく、積極的に弱い人を励まし、その人のために善となることを行いなさい、弱いものの苦しみや重荷を軽くしてあげなさいと言っているのです。聖書では正しい事を行いなさいと言うよりも善を行いなさいと勧めます。2節では、
ロマ 15:2 おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです
と言っています。隣人との交わりの中で、大切なのは、正しいことを言って裁きあう事よりも、善を行って隣人を喜ばせる事が大切なのです。このことを本当に分かる人が強い人であり、大人の人なのではないでしょうか。善を行って、隣人を喜ばせる事が、自分を喜ばせる事よりも大きな喜びとなってその人の人生を輝かせるものとなっていくのでは無いでしょうか。そして、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように、と、共に祈る事が出来るなら、私達の喜びは思いを越えて満ち溢れるものとなるに違いありません。
転
ここで言われている強い者と弱い者という言葉を振り返ってみると、弱い者という人は何かにこだわって、その考えに捉われてしまっている人々のように見えます。そこから自由になれない人々です。自分の考え以外は受け入れられない人々なのです。一方強いものと言われている人々は、そのような考えから解き放たれて、自由に生きることの出来るようになった人々です。その自由の元はイエス・キリストの教えです。本当に自由な人であり、強い人であったイエス様は、弱い私達を受け入れて、救いへと導いてくださったのです。ですからパウロは言うのです。
ロマ 15:7 だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。
私達クリスチャンは、自由にされた者として、互いに相手を受け入れるものとなりなさいと、勧められています。その受け入れる事にどのような犠牲が起ころうとも、それを恐れずにイエス様が私達を受け入れてくださったように受け入れなさい、と教えられているのです。
そして、このイエス様の福音はユダヤ人のためにも異邦人の為にも与えられたものである事を、旧約聖書の言葉をもって、証ししているのです。
ユダヤ教や、イスラム教、そしてキリスト教さえも、時として、自分たちの立場しか受け入れられない狭い考えになりやすいのですが、キリスト教の教えは本来そのようなものではありません。強いものは弱いものを受け入れ、さらにその弱さを担っていくものであるのです。私達もまた、そのようなものとして歩んでいく事が出来るなら、そこにこそ、本当の自由と喜びが泉のように湧き出るものだと思うのです。福音が現実のものとなるのだと思うのです。
結
私達は、えてして、自分の得になることをしよう、自分がよければ本当の幸せを獲られるのではないかと思って、利己的になりやすいものですが、そこには決して本当の喜びを見出す事が出来ないでしょう。むしろ、人の弱さを担い、自分だけではなく、隣人を喜ばせるとき、本当に心のそこから喜び合える生き方が出来るのでは無いでしょうか。イエス様がその見本を示してくださいました。イエス様が私達を受け入れてくださったように、私達も互いに相手を受け入れ、その弱さを担い、隣人を喜ばせるとき、私達の本当の幸せが訪れるのだと思います。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。私達は、自分のことばかり考えている愚かで貧しいものです。周りには、必要を求め、喜びを求めているたくさんの人々がいるのにそれに気がつこうとしません。あなたは弱い人の弱さを担いなさいとおっしゃいました。手を差し伸べなさいと言いました。それによって失うものが少しあるかもしれませんが、あなたの約束される事は、その何十倍も何百倍もの喜びを与えてくださると言う事です。どうかイエス様のなさった事の中に、本当の喜びや幸せがあることを信じて、イエス様に従わせてください。イエス様はご自分の命をささげてまで、弱い人の弱さを担ってくださいました。その弱い人とは私達のことでした。どうかイエス様に習って、少しでも弱い人の弱さを担う事が出来ますように。世界が互いに助け合い、励ましあう世界となりますように。
この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:ローマの信徒への手紙)>>
◆自分ではなく隣人を喜ばせる
ロマ 15:1 わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。
ロマ 15:2 おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。
ロマ 15:3 キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。
ロマ 15:4 かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。
ロマ 15:5 忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、
ロマ 15:6 心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。
◆福音はユダヤ人と異邦人のためにある
ロマ 15:7 だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。
ロマ 15:8 わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、
ロマ 15:9 異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、/あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。
ロマ 15:10 また、/「異邦人よ、主の民と共に喜べ」と言われ、
ロマ 15:11 更に、/「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」と言われています。
ロマ 15:12 また、イザヤはこう言っています。「エッサイの根から芽が現れ、/異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。」
ロマ 15:13 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。