庭礼拝 2013年3月20日 ローマ14章1-23 兄弟を裁いてはならない

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今日の聖書の箇所は、教会内の兄弟の交わりについて語られています。どのようなグループであれ、みなが同じ考えでいることはなかなか難しいものです。ましてや、宗教のように世界の中に出て行って、そこに集まる人々がいろいろの国の人々であるならば、なおさら、そこにはいろいろな考えかたが出てきます。そうするとその中に、同じ考えを持つグループが自ずから形成されて、他のグループを互いに批判しあったりする事が起こります。これは、今の時代の教会においても当然起こりうる事です。また政治の世界でもよく起こります。また、私達の生活の中でもよく起こります。

今日の聖書が教えるのは、そのような考え方の違うグループが出来たとしても、兄弟を裁いてはいけないということです。違う考え方が起こると、互いに自分の立場を正当化しようとして、相手を非難し、不当なものだと決め付けようとします。聖書では、ここにも書かれているようにはっきりと兄弟を裁いてはいけないと教えられているけれども、キリスト教の歩んできた一番大きな罪は、何時も兄弟を裁いてきた事ではないかと思うのです。ちょっと考え方や、やり方に相違があるとそれをとりわけ取り立てて、異端審問の形で、必ず一方を排除しようとする事が、歴史の中で行なわれてきました。それが、神様に対して一番忠実な方法だと思って、行なってきましたが、いつしか、魔女狩りや、異端審問による拷問など、キリスト教の教えとは思えないような事が、さも正しいこととして行われてきました。キリスト教を外から見る人たちにとっては、キリスト教徒は、自分の立場ばかり正当化して、他のものを受け入れない狭隘な宗教であると見られて来ました。ですが、それがキリスト教の教えではありません。聖書に書かれている教えは、今日の聖書の箇所のように、たとえ違う考えであっても、兄弟を裁いてはいけない、兄弟を愛しなさい、と言う教えなのです。

今日の聖書の箇所で、特に問題となっているのは食物についての事のようです。ユダヤ教には清い食べ物と穢れた食べ物の規定があり、ユダヤ人達はそれを生まれてからずっと守ってきたのです。ですが、神様が、神が清めたものを清くないなどと言ってはいけない、と言ったことを受けて、新しいキリスト者はそのような規定からは自由になったのだと、考えてきました。食べ物からも、特定の日からも自由になって、何をしてもよいのだと言う教えが広まっていったのです。ですが、生まれつきユダヤ教の教えを受けてきた人たちにとっては、それはとても受け入れられない教えなのでした。イエス・キリストの信仰を信じるにしても、清くないものを食べる事は出来ないと考えていたのです。パウロは、このような旧来の規定に縛られている人々を信仰の弱い人々と呼びました。そして、キリスト者の自由を信じて行なう人々を信仰の強い人々と呼びました。ちょっと前まではこれが反対でしたから、不思議なものです。以前は食物規定を守る人が信仰の強い人々で、規定を守れない人々は信仰の弱い人々だったのです。

パウロは、こう言いました。「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。」信仰の強い人は、信仰の弱い人を軽蔑し、信仰の弱い人は、信仰の強い人を裁いていたのです。パウロは互いに軽蔑したり、裁いたりしてはならない。なぜなら、神様は両方共を受け入れてくださっているのだから、勝手に軽蔑したり裁いたりして仲たがいしてはいけないと言ったのです。そして4節ではこう言いました。

ロマ 14:4 他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。

 わたしたちは皆、神様の召し使いであり、もし裁くとすればそれは神様だけなのです。それなのに、自分が神様のつもりになって裁いてしまうあなたは一体何ものなのかと言っているのです。神様だけがその人々を立たせてくださるのだから、あなた達がとやかく言うことではないと言っているのです。私達の信仰生活の中でも同じような事が起こります。教会で、疲れて眠ってしまう人に、厳しい視線を向け、こんな人は教会にいないほうが良いと思ったり、服装のふさわしくない人を見て、なんてだらしの無いと思ったりする人々がいます。もしそれらの事が本当にふさわしくないならば、それは神様が裁く事であって、教会員が裁く事でも牧師が裁く事でもありません。実際にそれでも教会に来続ける事自体の中に、神様が招いてくださり、受け入れてくださっている出来事があるのです。「それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。」とパウロは私達の立場に気がつくようにと、言いました。

パウロの教えは、単に互いに侮ったり裁いたりしないようにと言う教え以上に、互いに愛し合うならばどのようにするだろうかと言う教えへと導くのです。自分が正しければ良いという考えから、愛と慈しみへと導いています。13節ではこういっています。

ロマ 14:13 従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。

パウロはつまずきとなるものや、妨げとなるものを兄弟の前におかないように決心しなさいと、命じています。これはたとえ何を食べてもいいのだという事が正しいことであっても、それを見てつまずく人がいるならば、またそれを嫌悪する人がいるならば、その人のために食べないようにするのが、イエス様の教えだと言うのです。人の嫌がる事はしないようにしようと言う事なのです。自分が正しいと思うと、相手がそれをいかに嫌がっても、自分の正しさを主張する人もいます。このような時、正しい人となるよりも相手の気持ちを思いやる良い人になる事が大切だと言う事です。キリストはそのような人々の為にも死んで下さったからなのです。ですから、互いに批判しあうよりも、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか、とパウロは勧めています。

私達は、意見が違うと、ついむきになって自分の正しさを通そうとして、相手を非難してしまいます。ですが、裁きの坐に立っているのは自分たちも相手も同じでした。その裁きの坐にあるものが裁判官のようになって相手を裁いてはいけなかったのです。むしろイエス様が求めているのは、憐れみと慈しみを持って、相手を立ててやることでした。互いに平和であるようにする事なのです。そうすれば、私達がさばきの坐につくとき、イエス様は、私達の隣に立って下さり、私達をとりなしてくださるのです。私達は一人で裁きの坐に着くのではなくイエス様と共につく事が出来るのです。自分の正しさを誇るのではなく、愛と慈しみを誇るものでありたいと思います。それを与えてくださる、神様を誇るものでありたいと思います。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様。私達は自分の正しさを通そうとして、相手を軽蔑したり裁いたりして、互いの平和をかき乱してしまいます。ですが、あなたが求めておられるのはそのような正しさではありませんでした。むしろ愛と慈しみによって、相手を躓かせないように心を配り、嫌悪を抱かせないように思いやる事でした。神様、どうか、自分の正しさにこだわることなく、捉われることなく、あなたの御心を行い、互いに平和に過ごす事が出来ますように。互いの向上に役に立つ事を行う事が出来ますように。今まで行なってきた多くの罪をお許しください。どうかあなたの愛と慈しみに生きるものとさせてください。

 どうかこの世の国々にあってもこの思いが与えられますように。世界は自分たちの正しさを通そうとして、弱いものを苦しめています。どうかあなたの御心に生きる事が出来ますように。あなたの御心がこの地にもなりますように、何時も祈り続ける事が出来ますように導いてください。

この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

<<聖書の箇所(新約聖書:ローマの信徒への手紙)>>

◆兄弟を裁いてはならない

ロマ 14:1 信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。

ロマ 14:2 何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。

ロマ 14:3 食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。

ロマ 14:4 他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。

ロマ 14:5 ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。

ロマ 14:6 特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。

ロマ 14:7 わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。

ロマ 14:8 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。

ロマ 14:9 キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。

ロマ 14:10 それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。

ロマ 14:11 こう書いてあります。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、/すべての舌が神をほめたたえる』と。」

ロマ 14:12 それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。

◆兄弟を罪に誘ってはならない

ロマ 14:13 従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。

ロマ 14:14 それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。

ロマ 14:15 あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。

ロマ 14:16 ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。

ロマ 14:17 神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。

ロマ 14:18 このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。

ロマ 14:19 だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。

ロマ 14:20 食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。

ロマ 14:21 肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。

ロマ 14:22 あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。

ロマ 14:23 疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。