家庭礼拝 2013年1月30日 ローマ9章19−10章4 神の怒りと憐れみ

  賛美歌441 信仰をもて 聖書朗読  祈り 奨励説教 一分黙想 全員祈り 主の祈り  賛美歌449 千歳の岩よ

 

前回の9章では、全ては神様の計画であり、選びであり、恵である事が語られました。良いものも悪いものも、人間の自分の意志や努力によってやってくるのではなく、神様の恵みとしてやってくるのであると言う事が語られた事でした。それはたとえ、ユダヤ人のように神様に愛され、選ばれたものであっても同じでした。その内にあっても、選ばれるものがあり選ばれないものがあり、恵みが与えられる者もあり与えられない者もあったのです。

そうすると、必ずこういう人が出てきます。「それなら人間には何の自由も無いではないか。全ては神様の操り人形では無いか。良いも悪いも皆神様の意志で行っているのならば、私達には何の責任もないではないか。全ては運命ではないか。」このような考え方は、大きな災害などで、大勢の人が死んだときなどもよく言われます。3.11の大震災のときにもよく言われました。「神様がいるならば、何故、こんなにも多くの善良な人々を犠牲者にしてしまうのだ。この人たちにどんな悪い事があったと言うのだ。」と言う議論です。戦争においてもそうです。一体何故、神様はそうするのだと、神様の非情を憤るのです。これは分からなくもない感情です。私達の伴侶や子供が、突然の事件や事故でまたは病気でその命が失われたとき、どうして、私の家族が、と思わずにいられないでしょう。それと同時に、どうして神様は、と思わずにいられないでしょう。その家族の絆が強ければ強いほど、その悲惨をもたらしたものを憎むようになるのです。抗議したくなるのです。それもまた、神様の恵みですとは言い難いのです。このような不幸や悲惨は何故起こるのか、神様は何故そうするのか、と言う疑問に、必死になって問いかけて行く物語がヨブ記です。そのなぜを神様に問い続けたのです。

今日の最初の19節では、同じように、このような問いかけがありました。

ロマ 9:19 ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。

このことの意味は、全ての選び、恵、計画は神様のものであるならば、全て神様の責任であって、神様はどうして人間を責めるのだろうかと言う事です。そして、誰も神様の御心に逆らう事が出来ないのだから、それは人間の責任ではなく、神様の責任ではないのかと言うもっともな意見なのです。このことに対して、パウロはどう答えるのか。または、それ以外の信仰者はどう答えるのかは、今でも私にとっては大きな関心のあるところです。ヨブ記の物語は、あれほど長い、その何故に答える議論の中で、ヨブが知り得た事は、人間には神様の考えを知る事は出来ない、と言う事でした。ヨブは、神様にしがみついででも、噛み付いてでも、どうして自分がいけないのか、何故自分がこのような目にあうのかの理由を知りたがりました。分かると思って、問い続けたのです。そして最後に分かった事は、神様が今も居られる、ということと、人間には神様の深みは知りえないと言う事だったのです。

ではパウロはその問いに何と答えたかというと、それは20節です。

9:20 人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。

パウロにとって、その理由がどうのこうの言うことよりも、神様に口答えすると言うその姿勢そのものが大きな問題だったのです。人間を神様と対等のようなつもりで応答すると言う事そのものが畏れ多いことだったのです。そしてあの有名な焼き物師の話をしたのです。焼き物師は自分の好きなようにその器を作り、だめならば壊してしまう権利があるではないかと言う話です。当然創造主なる神様にもその権利があるではないかと言う事です。ですが、この例えには異論も多く有ります。人間は焼き物のように、意志も感情もないのでは無い、生きているのである。そこで何故と問いかけることこそ人間ではないのか、という意見です。生きる意味を問うことこそ、人間に与えられた、最も人間らしい事なのではないのかということです。

さて、それではここでパウロの一番言いたかった事はなんだったのでしょうか。それは私達が神様の恵みの下にあると言う事ではなかったのでしょうか。たとえどのような状況の下にあったとしても、生かされている事が、神様の恵みなのだと言う事では無いでしょうか。そのことを省みることなく、自分の権利や主張ばかりに気にとられ、神様の恵みを忘れて、神様何故ですか、何故ですか、と、失われているものにばかり目を奪われて、神様を非難しようとする姿勢をパウロは避けようとしたのではないかと思うのです。私達は失ったものよりも、受けているものの方が、何百倍も何千倍もあることを忘れてはいけないのです。パウロは「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました」と言いました。憐れみの器とは、恵の器です。神様の憐れみと恵みとを注ぐ器として、ユダヤ人だけでなく、異邦人の中からも召しだしてくださったと言うのがパウロの信仰なのです。わたしたちが、憐れみの器、恵の器なのに、神様がそれらを下さらないはずはないのです。それなのに、何故ですかと失われたものだけに目を置いて神様を非難するような思いになるのは、理由を知りたいのではなく、自分の思いを叶えたいだけなのかもしれません。

パウロは聖書を解き明かすのに、聖書をもってします。神様がどのような方であるのかを解き明かす為にホセア書を語り、イザヤ書を語りました。そして、神様の救いがどのようにもたらされるかを語ったのです。そして、このローマ書のメインテーマである信仰義認の問題へと戻ります。それは、「イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しなかったのはなぜか。それは、イスラエルが、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。」と言うのがパウロの理解なのです。そしてこういったのです。

「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。」

パウロはユダヤ人が熱心な信仰者である事を否定するどころか証するとさえ言っているのです。ですがその熱心さは正しい認識に基づくものではなかったのです。正しい認識とは神の義を知り、神の義に従うことなのです。ヨブの苦悩もまた、自分の義を求めようとして、神の義を知らず、神の義に従えなかったところにあったのです。これらはまさしく、今の私達にも当てはまる問題です。ユダヤ人だけでなく、熱心なクリスチャンの危うさは、まさにここにあるのでは無いでしょうか。神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかった人々は、たとえ熱心であっても、皆同じような躓きをしてしまうのです。神の義を知るとは、神様が正しい方であり、私達を哀れんでくださる方であることを知る事です。たとえどんな状況にあってもそうなのです。そして神の義に従うとは、それを信じると言う事です。神様が正しい方であり、私達を憐れんでくださる方であると信じることです。ですから、信じるものは、何故ですか、とは問わないのです。ただ神の義を信じるのです。それが信仰ではないでしょうか。

神様の義を信じる事が私達の義です。ですから不幸の理由を知ろうともがくのではなく、神の義を信じられないことを嘆くのです。そしてその罪を悔い改めるのです。何よりも、私達が憐れみの器として創られたものであり、その中に数え切れないほどの恵が注がれていることに感謝したいと思うのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様。あなたが私達を憐れみ、多くの恵によって養っていてくださいます事に感謝いたします。私達はその一つでも欠けると、嘆き、あなたにつぶやき、何故ですかと言い出しますが、どうか与えられている恵の大きさに感謝するものでありますように。そして何時も喜び、感謝と賛美を奉げるものでありますように導いてください。

 世界が、足りないものに目を奪われて、争い奪い合うものではなく、どうか与えられた恵の大きさに感謝して、分かち合うものとなる事が出来ますように。まず第一に自分からそのように喜んで行う者となりますように導いてください。世の悲しみ、苦しみが取り去られますように。世界が平和でありますように。この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

<<聖書の箇所(新約聖書:ローマの信徒への手紙)>>

◆神の怒りと憐れみ

ロマ 9:19 ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。

ロマ 9:20 人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。

ロマ 9:21 焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。

ロマ 9:22 神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、

ロマ 9:23 それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。

ロマ 9:24 神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。

ロマ 9:25 ホセアの書にも、次のように述べられています。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、/愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。

ロマ 9:26 『あなたたちは、わたしの民ではない』/と言われたその場所で、/彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」

ロマ 9:27 また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。

ロマ 9:28 主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。」

ロマ 9:29 それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、/わたしたちはソドムのようになり、/ゴモラのようにされたであろう。」

◆イスラエルと福音

ロマ 9:30 では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。

ロマ 9:31 しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。

ロマ 9:32 なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。

ロマ 9:33 「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。

ロマ 10:1 兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。

ロマ 10:2 わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。

ロマ 10:3 なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。

ロマ 10:4 キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。