家庭礼拝 2013年1月22日 ローマ9章1−18 イスラエルの選び
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起
今日からメンバーが代わって、最初の正式な家庭礼拝となりますので、少しやり方を変えて進めてみたいと思います。今までは解説風に順を追って、講解して来たのですが、これからは少しテーマを絞って、説教風にそして短くお話しようと思っています。ですから聖書の内容を全部お話しするということは致しません。今日与えられた聖書の箇所から、語りかけられていると思うことに絞って話したいと思います。
聖書を読んでいて、語りかけられる箇所と言うのは人それぞれです。しかも同じ人でも読むごとにその箇所が違った意味で語りかけられる事がよくあります。私達が信仰的に成長すればするほど、それに従って、語り掛けられて来る言葉の意味も異なってくるのです。
今日の聖書の箇所の小見出しは、「イスラエルの選び」となっています。これは、イスラエルの民が、神様から特別に選ばれて、養われ、導かれてきたのだと言う、パウロの信仰と認識を中心に語られています。すなわち、イスラエルの民は、選ばれて導かれてきたのであって、自分から選んできたのでは無いという事です。これはクリスチャンであっても同じです。私達は、自分で信仰を選んで信じるようになったと最初は思っていますが、それは信仰を生きるにしたがって、自分が選んだのではなく、神様に選ばれたのだと言う思いが強くなってきます。でも勘違いしてはいけないのは、私達が選ばれたのは、私達に何かとりえがあったからではなくて、ただ神様が恵によって選んでくれたからであって、その理由は人間には理解できないのです。ですが人間は何時もそれに理屈をつけて、自分が良い事をしたから選ばれたのだと思いたがるのです。これが大きな間違いでした。
承
パウロは、今日の聖書の箇所の中で、とても悲しんでいます。どうして悲しんでいるのかと言うと、パウロは神の子イエス・キリストの教えを異邦人達の間に広めているのに、自分たちの同胞の間にはそのことを伝えるのに成功していないからです。同胞が救いに預かることが出来ないでいるからです。むしろ、同胞からは、パウロがユダヤ教を裏切る裏切り者のように評価されているのです。パウロが悲しいのはそのように思われていることが悲しいというよりも、この素晴らしいイエス様の福音をユダヤ人たちが、拒絶し、受け入れようとせず、救われようとしていない事が悲しいのです。そして、もし同胞が救われるならば、自分はキリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています、と言っているのです。
こうなってしまったのは、イスラエル民族が悪かったから神様の罰を受けているのでしょうか。イスラエル民族は捨てられて、異邦人が救われるようになったのでしょうか。パウロはイスラエル民族の素晴らしさを数え上げています。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束を述べていますが、その一つ一つにユダヤ民族の豊かな選びと栄光との物語があるのです。その話を語り始めれば何日でもかかるでしょう。そのように素晴らしい民族なのだけれども、ユダヤ民族に属していると言う事だけで、自分自身が本当にすばらしい事になるのでしょうか。そうではないのです。今日の聖書の箇所でパウロが言おうとしているのは正にそのことです。
転
ユダヤ民族は素晴らしい、神様から愛され、神様の栄光を目撃し、神様との特別の契約を与えられ、そのしるしとして、律法を守り、礼拝し、神様から遣わされた、預言者も多数いるのです。このように神様から愛され、特別の選びの民族に属している事は本当にすばらしい事なのだけれども、それだけで、本当のユダヤ人といえるのだろうかといっています。ユダヤ民族には神様からのいろいろな選びがありました。その歴史の中には同じユダヤ人であっても選ばれたものと選ばれなかったものとがあったのだ、とパウロは言っているのです。例えば、アブラハムには最初に生まれたイシマエルと後から生まれたサラの子イサクとがいましたが、神様の約束に従って生まれたのはイサクでした。それでユダヤ人を受け継ぐものとされたのはイサクの子孫なのです。イシマエルの子孫はアラブ人と呼ばれるようになりました。この人々は今ではイスラム教を信じる人々となりました。また、イサクから生まれた、双子の兄弟ヤコブとエサウの場合もどちらもユダヤ人とされたのではなく、約束の子となったのは弟のヤコブでした。それでユダヤ人はヤコブの子孫から生まれたものが引き継ぎました。エサウの子孫はエドム人と呼ばれたのです。
このように、ユダヤ人に生まれればそのままユダヤ人になるのではなく、そこには神様の選びがあり約束の子となった者達がユダヤ人となって、神様の祝福を受け継いできたと言うパウロの理解があるのです。そしてその神様の選びは、イエスキリストを約束の子として、そこから生まれる約束の子供達に本当のユダヤ人と信仰とが継承されて行くのだという事なのです。ここで言っているユダヤ人とは肉体的なユダヤ人というよりも、神様から愛され、信仰と祝福とを継承する人々と言う意味のほうが強いと思います。
この事はクリスチャンにおいても同じ事が言えるのです。ただ教会に行って礼拝していればクリスチャンと言えるのではなく、神様に選ばれ、約束の子となった者たちがその信仰を受け継ぎ、本当に神の子となるのです。では誰が、その神様に選ばれたものになるのか、それが問題です。熱心な信仰者なのか、たくさん献金をした人なのか、奉仕をする人々なのか、いろいろな考え方が出てきます。中には、これだけがんばっているのだから、きっと神様に選ばれ喜ばれるに違いないと思っている人もいるはずです。これはユダヤ人が律法を守って救われようとしている姿と何の違いもないのです。
パウロはこういいます。私達が、神様から選ばれるのには、私達に理解できるような理由などは無いのだ。ただ神様の恵みによって選ばれているだけだというのです。そしてパウロは、旧約聖書の例を上げて、神様がこう言っていることを教えました。それは、神様はモーセに、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。またこうも言いました。神様は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。
そこには、人間の意志や努力の入る余地はないのです。ですから神様に気に入られようとして努力する事はとても愚かなことなのです。ですが残念ながらクリスチャンにはこのような人が多くいるのです。それは根が真面目なだけに、そのような努力をして、救われようとする傾向に陥りやすいのです。
私達にとって必要な事は、神様に気に入られようとする事ではなく、神様が憐れみの神様であり、慈しみのあることを信じて、そこに委ねて、生きていく事だけでは無いでしょうか。神様の選びは確かに有ります。ですがそこにも神様の計画があり、選ばれようと選ばれまいと、ただ神様の計画に用いられて生きて行くのが、信仰者の生き方では無いでしょうか。
結
ユダヤの民の歴史は、神様の選びの歴史と言ってもいいのです。そして今パウロが悲しんでいるのは、今は、そのユダヤ人が選ばれないで、異邦人が選ばれているという事実を目の当たりにしているからです。ですがパウロはこのことに対してもこう考えています。それは、神様はユダヤ人に異邦人に対するねたみを起こさして、ユダヤ人もまたイエス・キリストを信じるようになり、世界中がユダヤ人も異邦人も無く皆一つになって神様を信じるようになるのだと言うことなのです。パウロはその悲しみの中で、このような希望を持って宣教しているのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、今日の家庭礼拝を導いてくださり感謝いたします。あなたは憐れみの神様であり慈しみの神様です。あなたはその愛によって私達を選び導いてくださいますが、私達にはそのことを本当には知る事が出来ません。選ばれたと思って誇りに思う事も、選ばれていないと思って悲観する事も出来ないのです。ただあなたが私達に良い業をしてくださることを信じて、あなたをあがめるものであります。私達にとって、悪いと思われることもまた、あなたの恵である事を思って、感謝して受け入れるものでありますように。そのことがあなたの恵の計画の中で、いつか栄光に変えられることを希望を持って生きていくことが出来ますように。この家庭礼拝が、あなたの導きの下で、祝されて、イエス様の教えてくださる信仰を引き継いでいくことが出来ますように。
この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:ローマの信徒への手紙)>>
◆イスラエルの選び
ロマ 9:1 わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、
ロマ 9:2 わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。
ロマ 9:3 わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。
ロマ 9:4 彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。
ロマ 9:5 先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。
ロマ 9:6 ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、
ロマ 9:7 また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」
ロマ 9:8 すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。
ロマ 9:9 約束の言葉は、「来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる」というものでした。
ロマ 9:10 それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。
ロマ 9:11 その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。
ロマ 9:13 「わたしはヤコブを愛し、/エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。
ロマ 9:14 では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。
ロマ 9:15 神はモーセに、/「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。
ロマ 9:16 従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。
ロマ 9:17 聖書にはファラオについて、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と書いてあります。
ロマ 9:18 このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。