家庭礼拝 2013年1月9日 ローマ8章31−39 神の愛
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起
今年の、新年の最初の聖書の箇所は、ローマ8章で「神の愛」が語られているところです。そしてここでは、私達が生きるにおいても、死ぬことにおいても神の愛から引き離される事なく、ずっと愛される存在である事が語られています。これは信仰を持つものにとってはとても大切な事です。もし、私達の信仰が、そんなことよりも、現実の生活が満たされるほうが良いと考えているならば、それは全く信仰を持っていないと考えても良いのではないでしょうか。
私達は、神様から愛されると言う事を一体どのように捕らえているでしょうか。それはクリスチャンにとって大切な問題です。神様から愛される事が、恵みや、導きが与えられる事だと考えており、それがなければあまり意味が無いと思っているならば、これもまたご利益信仰であって、聖書が教える信仰ではありません。
世の中には、生きる意味を見失って自殺する人がたくさんいます。アメリカのある統計では、大学生で自殺未遂をした人々を調べたら、その80%の人々が、生きることに意味を見出せなかったと言ったそうです。日本の自殺者は、近年だいぶ減ってきました。長い間は年に3万人以上いたのですが、最近は27000人ほどになっています。それでもインターネットの質問サイトを読んでみると、鬱病などで、死にたいと叫んでいる人が毎日何十人も現れており、人生に意味があるのかと問いかける人々もその何倍かあるのです。
人生の意味を失うとは、死に価する事なのです。そこでその意味や価値を得るために、熱心にそれを捜し求めます。ですが一方で、愛されている、と言う事を考えた場合、その人に何のとりえもなく、何の働きもなく、生きていても何の意味もなさそうに見えたとしても、愛されていると言う事だけで、それは大いに存在する意味が生じてくるのです。愛してくれるのが両親であったり、子供であったりした場合、自分が愛されていると言う事だけで、どんなに両親や子供達に愛する喜びを与え、生き甲斐を与えているでしょうか。そして愛されている自分自身も、生きているだけで、どんなに生きる意味を見出せ、幸せになるでしょうか。それは人生の中で何かを成し遂げるから意味があると言うのとは全く違うのです。ただ存在し、愛されていると言うだけで、何者にもかけがえのない意味が生じてくるのです。人生に意味がないと感じて、自殺しようとした学生達が、もし、自分が心から愛されていると思っていたら、自殺するでしょうか、それでも人生に意味がないと思ったでしょうか。
人間同士が愛する場合でも、このような大きな意味が生じてくるのですから、神様が私達を愛してくださっていると信じることが出来るなら、それはどんなに大きな意味が生じてくるかわかりません。神様が私達を愛すると言うとき、それは人類を愛していると言うような一般的なものではありません。私達が自分の子供一人ひとりを愛するように、神様は私達一人ひとりを、かけがえのないものとして、一人ひとりの名を呼んで愛してくださっているのです。他の人には代わりえない、ただ一人の人として愛してくださるのです。ですから、私達がその神様の愛を裏切るとき、私達が愛する子供達に裏切られる時よりもずっと心を痛めているのかもしれません。ですから、本当に神様が愛してくださっている事が悟れるならば、これ以上大きな意味を人生に感じる事は出来ないでしょう。これ以上大きな喜びもないのでは無いでしょうか。
このような、神様の愛が私達に注がれていると言う事を前提に、パウロは今日の聖書の箇所で、私達に神様の事を伝えようとしているのです。それは今まで語ってきた事のまとめと言ってもいいかもしれません。
承
今日の最初の箇所、8章31節ではこう書いてあります。
ロマ 8:31 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。
ここで言われる、これらのこととは広く取れば、今までこの手紙で語られてきた全体の事であり、狭く取れは8章28節から30節と理解する事も出来ます。ですが、パウロはここで、今まで語ってきた事の総括として、結局神様と私達の関係はどういうことなのだ、と言う事を端的に言いたかったのだと思います。そしてこの31節では、神様が私達の味方であるならば、誰が私達に敵対できますか、といっています。この意味は、すぐ分かるように、神様が私達を愛して、味方となってくださっているのだから、誰も私達に敵対することはできません、と言う事です。この敵対するものとは誰でしょうか。古いユダヤ教を信じるユダヤ人でしょうか、それともキリスト教を排斥しようとする異邦人でしょうか。私は、パウロはもっと大きな敵を念頭においていたと思うのです。それはローマそのものです。ローマの権力による迫害を意識していたのだと思います。教会がやっと出来たばかりの、新興宗教のキリスト教が、当時の世界を支配していたローマの権力に対して、誰が私達に敵対できますか、と言っているのですから、蟻が象に向かって、誰が私に勝てようかと言っているようなものです。ですがパウロは神様が味方になってくれると言う事はそのようなものだと言っているのです。その理由は次の32節に書かれています。そこにはこう書かれています。
ロマ 8:32 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
私達を愛し、私達のために、その御子をさえも惜しまず死に渡された方。この表現を聞いて、私達は神様のほかにもう一人の人を思い出します。それはアブラハムです。創世記22章15節から17節でこう語られています。
主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。「私は自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこのことを行い、自分の一人子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。」
このように、アブラハムの、神様を愛する思いは、自分の一人子である息子すら惜しまなかったので、神様はあなたを豊かに祝福すると誓ったのです。そして神様の、私達を愛する思いはご自分の一人子である、イエス様すら惜しまなかったので、御子と一緒に全てのものを私達に与えて下さらないはずは無いと、パウロは聖書からもそう信じているのです。
転
神様が私達に全てのものを与えてくださると言う確信は、神様が一人子のイエス様さえ与えてくださったと言う根拠からでした。そこからパウロは、31節で誰が私達に敵対できますかと言い、33節では、誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう、と言い、35節では、誰が、キリストの愛から私達を引き離す事ができましょう、と言って、何ものもパウロたちに敵対し、訴え、引き離す事が出来ないと言いました。それが出来るとすれば神様以外にはありえない、人間の力では決してできない事だと言う事を訴えたのでした。神様が味方であれば、もう何も恐ろしいものはないのです。生も死も何ものも、私達を愛してくださる神様から、私達を引き離すものは無いのだという確信が与えられているのです。その愛してくださる神様の下にいるならば、どんなに苦しい人生にも、困難な人生にも意味があり、例え迫害で、無駄死にのような死に方をしたとしても、そこにも意味を見出すことが出来たのです。このように、神様に愛されていると確信する事のできたパウロには、どんな事にも生きる意味、死ぬ意味を見出すことが出来、それに耐えることができ、決してそれから逃れたいとは思わなかったのです。33節と34節ではこう書いてあります。
ロマ 8:33 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。
ロマ 8:34 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。
パウロは、自分たちが訴えられるかもしれないと思っているのです。ですがたとえ訴えられたとしても、それを裁くのは人間ではなく神様であり、私達を選んでくださった神様は私達を義としてくださるに違いないと信じているのです。ですからパウロは、「誰が私達を罪に定める事ができましょう」と言うのです。これらの信仰者を罪に定めるのは、決して人間に出来る事ではなく、それは神様で有りイエス様であるといっているのです。
38節に書いてある、「死んだ方、復活させられた方であるイエスキリストが、神の右に座っていて、私達のためにとりなしてくださるのです。」と言う言葉を聞いて、何か思い出さないでしょうか。それは使徒信条なのです。使徒信条の中にある、「死にて葬られ、黄泉に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り全能の父なる神の右に座したまえり、かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁き給わん。」という言葉とよく似ているのです。ですが決定的に違うところもあります。それは使徒信条では、イエス様のことが、神様の右に座して、生ける者と死ねるものを裁く審判者として表されていますが、パウロの言葉では、イエス様は神様の右に座っていて、私達のためにとりなしていてくださる方として表されているのです。裁くのは神様であり、イエス様は、私達の味方となってとりなしをしてくださる方なのです。確かに、イエス様は雲の上の審判者としてよりは、とりなしてくださる友人としての、身近な姿が、パウロにとってはふさわしいと思われたのでないでしょうか。
パウロは身近に、とても大きな危険を感じていたようです。そしてそのために、信者達にもその事を理解したうえで、なおも信仰に立つ事を訴えたのです。いかなるものも私達をキリストの愛から引き離す事がないことを次のように訴えました。35節から37節です。
ロマ 8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
ロマ 8:36 「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
ロマ 8:37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
パウロはどんな困難や苦難や苦しみがあったとしても、キリストの愛から引き離される事なく、私達は私達を愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めていると、神様を賛美したのです。だから勇気を持ってその困難に耐えるようにと訴えたのです。最後には輝かしい勝利が必ず待っているのだからと言ったのです。
36節に引用されている言葉は詩篇44編の22節です。今の共同約聖書では、「我らはあなたゆえに、絶えることなく殺されるものとなり、屠る(ほふる)為の羊と見なされています。」と書かれています。この事は、イエス様を信じる者たちが、何時も殺されるかもしれない運命に定められており、犠牲の羊と見なされていると言う事です。ですが、パウロはその私達を愛してくださる方が、まず犠牲の羊となって死んでくださって、蘇ったのだ、輝かしい勝利を収めたのだと褒め称えているのです。だから勇気と希望を持ちなさいと励ましているのです。パウロは、苦難に満ちた人生だけではなく、死ぬことにさえも意味を見つけているのです。神の愛を知り、その事の意味を見出した人にとっては、全てが意味に満ちているのです。意味の無い人生などありえないのです。私達はこのことにおいても、信仰を与えられた事に感謝したいと思うのです。
パウロはその事を次のように声高く賛美し、その信仰を告白するのです。38節と39節です。
ロマ 8:38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
ロマ 8:39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
パウロは、ユダヤ教の神様が、きっと冷たく厳しい神様だと思っていたのでしょう。ですがそうではなかったのであり、イエス様が、神様の本当の愛を示してくださったのです。それはイエス様がその命を捧げるほどの愛だったのです。そして、その愛はどんな事があっても私達から引き離す事ができない強い大きな愛であることが分かったのです。
結
神様の愛を知ることがどんなに大切な事であるかを、思わされました。人生を生きる意味も、その価値も、私達が神様から、このように愛されていると分かるならば、全てが与えられているのです。たとえどんなに苦難の中にあったとしても、病気の中にあってもう何も出来なくなっても、年老いてもう明日死ぬかもしれない状況であっても、他の人からは生きている意味がないと思われたとしても、それでも私達は、生きる意味を見出し価値を見出します。それは神様が私達をそれでも愛してくださっていると言う事を知っているからです。何者も私達を神様から引き離す事が出来ないと言う事です。神様は私達一人ひとりの、名を呼んで、かけがえのないものとして愛し大切にしてくださる方なのです。だからこそ私達は、思いを尽くし、力を尽くし、精神を尽くして神様を愛し、隣人を愛する事が求められているのです。神様にこのように愛されている事に感謝いたします。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。あなたの御言葉が与えられました事を感謝いたします。あなたに愛され大切にされていることを知り感謝いたします。このことを知る者が、全てを与えられている事に感謝いたします。あなたがこのように私達を愛してくださるように、私達も誠心誠意あなたを愛する事が出来ますように導いてください。新しい年の最初に、あなたの愛を教えられ感謝いたします。どうか今年はその愛に満ちて、歩んでいく事ができますように。
あなたの愛を知らずに、この世の意味を失い、生きていく価値を失って悩んでいる人がたくさんいます。その人たちをも支えて行きたいと思いますが、どうかあなたが必要な力と知恵とを与えてくださいますように。どうかあなたが、私達の内にあって、あなたの御業を行ってくださいますように。
どうか生きている全ての人にあなたの祝福がありますように。世界に紛争がなくなり、友好と平和に満たされますように。世界が不安と恐れの中にあるのではなく、信頼と理解のうえに立つことができますように。
今年一年間の私達の信仰の歩みをも導いてください。
この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:ローマの信徒への手紙)>>
◆神の愛
ロマ 8:31 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。
ロマ 8:32 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
ロマ 8:33 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。
ロマ 8:34 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。
ロマ 8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
ロマ 8:36 「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
ロマ 8:37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
ロマ 8:38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
ロマ 8:39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。