家庭礼拝 2012年12月12日 ローマ8章18−30 将来の栄光
賛美歌241 来たり給え我らの主よ 聖書朗読 祈り 奨励説教 一分黙想 全員祈り
主の祈り 賛美歌247 今こそ声上げ
起
今週は風邪を引いてしまって、十分な準備が出来ず、中止する事も考えましたが、今年最後の集会なので、とにかくありのままでやってみようと準備してみました。先週の聖書の箇所では、肉と罪と霊がキーワードになっていましたが、今週もそのようなキーワードがあります。今日の聖書の箇所は、「将来の栄光」と小見出しの付いた18節から30節までの短い箇所ですが、ここも二つに分けられます。前半は18節から25節までで、「私達の希望」について語られています。ここだけで、希望と言う言葉が4回、望むや待ち望むという言葉が 5回使われています。そしてその中に苦しみと言う言葉が2回、栄光と言う言葉が2回使われています。そしてこれらの言葉は、ここだけに集中的に使われているのです。私達は一体何を希望とし何を待ち望むべきなのかが語られています。私達の信仰するキリスト教は、この待ち望む事にその姿勢があるようです。夢が実現してその中に浸ることではないようです。その事を今日は聖書から学んでいきたいと思います。
後半は26節から30節までの短い箇所です。ここでは、私達をとりなしてくださり、あらかじめ定め栄光をお与えになられた方について語られています。特に26節と27節は私達の祈りにおいて大切な姿勢に関してかかれています。私達が、祈るとき、何を思い、どのような姿勢であるべきかが語られているのです。そして最後にあらかじめ定められた者たちに栄光をお授けになったということが書かれているのです。
今日の聖書の箇所を学ぶとき、思い出さなくてはならない言葉は、前回最後の箇所の言葉の17節の言葉です。それは、『もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人であります。キリストとともに苦しむなら、ともにその栄光をも受けるからです。』この言葉は、私達が神の子供として、栄光の相続人である事を約束しているのですが、苦しむ事もまた覚悟しなければならないこととして、語られているのです。パウロは、ローマの教会の人々に対し、この苦しむ事に対して、例えどんなに苦しいことが起こっても、それに耐えて受け入れなさい。あなたたちにはそれに勝る栄光が与えられるのですからと励ましているのです。当時のローマ社会では、最初緩やかだった規制から、だんだんと迫害へと変わろうとしていたのです。パウロはその迫害が、間近に迫ってきている事を感じて、ローマの人々に対し、希望を持って苦しみに耐えることを訴えたのです。
人生に意味があるかとはよく問われる言葉です。若い人々だけでなく、年老いた人々の間でさえも言われる事です。こんなに苦しむことばかりなのに生きていて意味があるのだろうかと、人生に対して、生きる意味を失いかけて、生きる希望をも失ってしまいそうな人々がいかに多くいるのかを思わされます。ですがパウロは言うのです。あなたたちの苦しみがいかなるものであっても、それに勝る希望がある、それに勝る栄光がある。あなたたちの人生には、大きな意味が満ちている。それはあなたたちが神の子とされるということである。その苦しみは神の子とされるための相続財産であり、それに勝る希望と栄光とが待っているのだ、と言う事なのです。これは当時の迫害の中にあって立派に耐えた人生に対してだけ述べられているのではなく、私達の日常の生活の中での、苦しいこと、いやなこと、悲しい事などにも立派に耐えて、神の子とされる栄光と希望の内に生きることを、今の私達にも望まれているのです。ですからクリスチャンには、意味の無い人生はないのです。どんなに人に見捨てられた、さびしい人生を歩んでいるように見えたとしても、そこにはちゃんと意味のある人生、意味のある苦しみ、そして希望と栄光とがあるのです。それが信仰者の生活である事をパウロはここで私達に訴えているのです。
承
さて、本文に戻りまして、まず18節です。17節の言葉を受けてこのように語られました。
ロマ 8:18 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。
パウロは、私達は苦しみをも相続しなければなりませんが、その現在の苦しみは将来の私達の栄光に比べれば取るに足りないものだというのです。多くのスポーツ選手は、勝利の栄光を夢見て、多くの苦しみを自ら課して、自分を鍛え上げ、その苦しみを意味のあるものにしていきます。また、仏教には千日行という、山の中を一日も休まず駆け回る千日の荒業がありますが、その荒業に耐えていけるのは、その達成したあとの悟りの境地の栄光を思えばのことです。V・Eフランクルは、そこに意味が見出せればどんな事にも堪えられる、と言いました。収容所の飢餓にも死にも耐えられると言いました。私達がこの世で受ける苦しみが将来私達に現されるはずの栄光に比べれば取るに足りないものだとパウロは言いました。この世で受ける苦しみには意味がある。それはキリストと同じ苦しみを受ける事なのだから、そして同じ栄光をも受ける事なのだからとパウロはその苦しみを受け入れる意味を教えてくれているのです。
そしてパウロは不思議なことを言い始めました。それは被造物たちのことです。被造物たちもまた、神の子達の現れるのを切に待ち望んでいると言っているのです。19節から22節です。
ロマ 8:19 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。
ロマ 8:20 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。
ロマ 8:21 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。
ロマ 8:22 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。
パウロは、20節で『被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものである。』と言っています。それは創世記3章17節で「神はアダムに向かって言われた。お前は女の声に従い、とって食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。」と言われた事をさしているようです。アダムとエバの出現によって土は呪われ、被造物もまた虚無に服していると言うのです。そしてともにうめき、ともに生みの苦しみを味わっていると言うのです。そしてそれから開放されるために、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいると言うのです。私達は神の子となる約束は与えられましたが、まだ約束の物を受け取ってはいません。それはキリストと同じ苦しみと栄光に預かってからの話なのです。それを被造物たちもまた、切に待ち望んでいると言うのです。
そしてパウロは、23節から25節でこう言いました。
ロマ 8:23 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。
ロマ 8:24 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。
ロマ 8:25 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。
パウロは人間だけではなく被造物もまた待ち望んでいるとは言わずに、被造物だけでなく、私達も待ち望んでいると言いました。この救いを待ち望んでいるのは世界中が被造物全体が待ち望んでいる事なのです。その中に私達は人間として、心の中でうめきながら待ち望んでいるのです。人間も含めて被造物全体が、完成を待ち望んでいるのです。忍耐して待ち望んでいるのです。パウロは、私達はこのような、忍耐して待ち望んでいる希望によって救われているのだと言いました。救われると言う事は、もう希望が満たされ、忍耐しなくても目の前にあることではなかったのです。私達はいろいろな事を願い、その願いが現実のものとなって満たされる事を、信仰的な願いだと思っていますが、パウロは、目に見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものを誰がなお望むでしょうかと言っています。私達は、目に見えないものを望み、忍耐して望み、その希望によって救われているのだと言っているのです。ですから私達は、目に見えないものを信じる信仰、忍耐して待ち望む信仰を守り通さなければならないのです。その中にこそ本当の信仰、本当の救いがあるからです。
転
後半部分に入って、パウロは祈りについて私達に教えてくれました。26節と27節です。
ロマ 8:26 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。
ロマ 8:27 人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。
私達は、祈るときに、神様に対して何かまともな事を祈らなくてはいけないと思っています。思いを整え、言葉を整えて、これなら信仰的ではないかと思って祈っています。ところが私達が祈る祈りは、それが本当に正しいのかどうかは分からないのです。正しいと思って祈る祈りでさえも、神様はそれを不適格としているのかもしれません。本来、願ってはいけない祈りかもしれません。ですから、パウロは私達はどう祈るべきかを知りませんと言っているのです。どう祈ってもだめなのです。ですがパウロはたとえ私達がどう祈るべきか分からなくても霊が私達を助けてくださいます、霊がとりなしてくださいますと言っているのです。私達も本当にいろいろな祈りを聞いてきました。その中には火の様に激しい祈りもあり、演説のように叩き込む祈りもあり、訥々として消え入りそうな祈りもあり、型にはまった祈りもあり、聞き手を意識した祈りもあり、神様だけを見つめているような祈りもあります。ですがどれが正しい祈りと言うわけではありません。私達はどう祈るべきかを知らないのです。むしろ私達は、私達の言葉に表せないうめきをとりなし、助けてくださる霊の働きに委ねて祈るのが良いのだと思います。霊が私達のうめきをとりなしてくださると信じて、祈るのが信仰的な祈りなのかもしれません。ですから、私達の祈りは、『神様、助けてください』と言うだけで十分なのだと思います。もう少し言葉を付け足すなら、『神様、隣人を苦しみから助けてください、この私をも哀れんで助けてください。』と祈るだけで、霊は全てを理解し、神様にとりなしてくださるのだと思います。
そして28節から30節のところですが、ここにはご計画に従って召された者たちのことが書かれており、あらかじめ定められたことについて書かれています。ここは聖書の中の予定説を現しているものであるとの解釈もあります。予定説に従えば、その人が神の救済に与れるかどうかは、予め決定されており、この世で善行を積んだかどうかといったことではそれを変えることはできないとされます。例えば、教会にいくら寄進をしても救済されるかどうかには全く関係がない。神の意思を個人の意思や行動で左右することはできない、ということです。これは、条件的救いに対し、無条件救いと呼ばれます。神は条件ではなく、無条件に人を選ばれる。神の一方的な恩寵であるとしているのです。28節から30節にはこう書かれています。
ロマ 8:28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
ロマ 8:29 神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。
ロマ 8:30 神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。
予定説の話はちょっと置いておいて、まず28節ですが、召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています、とパウロは言いました。これはパウロの体験でもあり、聖書の中に見られるいくつもの不思議な出来事の事です。このことを信仰を持って信じていると言う事です。例えば、(創世記50章20〜21節)にあるヨセフ物語の一節では「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、善に変え、多くの民の命を救う為に、今日のようにしてくださったのです。どうか恐れないでください。この私が、あなた達とあなた達の子供を養いましょう」と言い「すべては神が私たちを祝福するためにあらかじめ御計画し、御心のとおりに導いてくださったことなのです。」と言ったのです。このようなことを信仰的事実として、信じており、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています、と言い切っているのです。パウロはこの言葉を、これから迫害に会ったり、拷問にあったりするかもしれない人々に対して、それでもあなたたちの苦しみに対して、神様が、万事が益となるように働いてくださるのですと言っているのです。私達もこの世にあって、どのような苦しみや困難や不幸の中にあっても、その中に、万事が益となるようにともに働いてくださる方のことを信じて、その苦しみや困難や不幸の中に意味を見出していけるのです。信仰を持つものは、決して行き詰る事はないのです。
そして神様の私達に対する目的は万事が益となるだけではなく、御子の姿に似たものにしようとすることなのです。もし私達が、この世の幸せで満足するようなところでとどまるならば、それは神様の目的には沿わないことになるかもしれません。私達は御子の姿に似たものになるように、あらかじめ定められたのです。それでは、ここに書かれている「神が前もって知っておられた者たち」とは誰の事なのでしょうか。それは深い信仰をもって神様を愛した人々なのでしょうか。神様の掟をきちんと守った信仰深い人々だったのでしょうか。それを神様は前もって知っておられたと言う事なのでしょうか。それは人間のほうからは分からないのです。そのような比較や評価で決まるようなものではないのです。これは神様が前もって、恵みによって選ばれた人たちなのです。そうすると、果たして自分は神様から恵みによって選ばれた人なのだろうか、そうでないとしたら、もうどんなにがんばってもだめなのではないのかと心配してしまう人もいるのではないかと思います。ですがパウロがここで言おうとしているのは、予定で選ばれている人と選ばれていない人がいると言うことを言おうとするよりも、迫害が間近に迫って、不安にあるローマの信仰者達に対して、「あなたたちは皆、神様からあらかじめ定められたものとして召しだされたものであり、義とされ、栄光をお与えになると約束されている人々なのですよ。」と、神様の選びを語ってその約束がゆるぎないものである事を語ろうとしたのだろうと思います。それは、神様が選んだ信仰者達はどんな苦しみや困難の中にあっても、その事すらも益となって、御子の姿に似たものとなり、義とされ、栄光あるものとなるのですよ、と励ましているのだと思います。
結
私達クリスチャンの人生には、例えどんな人生を歩んだとしても、意味があります。希望があります。神の子とされ栄光を受けると言う約束があります。ですから、私達は喜んで苦難をも引き受けることが出来るのです。その苦難から逃げようとするなら、その栄光からも逃げることになります。ですがその栄光はその苦難よりもずっと大きなものであるとパウロは約束しました。苦しいときには私達は祈る事ができます。どのように祈ればよいか分からなくても聖霊が私達のうめきをとりなしてくださいます。万事が益となるように共に働くという事も約束されています。私達に理解する事が出来なくとも、万事が益となるようにともに働いてくださる方が居られるのです。私達はその事を信じ、目に見えないものに希望をおいて、この人生を歩みとおす事ができるのです。その時、私達はいつのまにか御子の姿に似たものにされていることに気が付くのかもしれません。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。私達には大きな約束と希望とが与えられている事に感謝いたします。私達に起こるどんな事にも意味があり、全ての事は益となることを教えていただきありがとう御座います。私達はいやなことがあるとすぐにつぶやき、批判し、逃げようとしますが、それらの事のうちにも私達がクリスチャンとして、受け入れて行く意味があるのだと教えられています。神様どうか私達が、イエス様と似たものとなるように作り変えられていきますように。全ての事を喜び感謝して受け取っていくことが出来ますように。そして、神の子とされて、あなたの相続人として、立派に歩んでいく事ができますように。
今年の最後の水曜会の集いが出来ました事を感謝いたします。また来年もあなたによって呼び集められて、御言葉を聞くことが出来ますように。クリスマスのときも近づいてまいりました。これを機会に信仰に入る人々、洗礼を受ける人々がいるかもしれません。どうかあなたがその一人ひとりを省みてくださり、祝福を与えてくださいますように。
この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:ローマの信徒への手紙)>>
◆将来の栄光(私達の希望)
◆ロマ 8:18 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。
◆ロマ 8:19 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。
◆ロマ 8:20 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。
◆ロマ 8:21 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。
◆ロマ 8:22 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。
◆ロマ 8:23 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。
◆ロマ 8:24 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。
◆ロマ 8:25 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。
◆(苦しみ2回 栄光2回 希望 4回 望む、待ち望む 5回)
◆(とりなしてくださり、あらかじめ定め栄光をお与えになられた方)
◆ロマ 8:26 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。
◆ロマ 8:27 人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。
◆ロマ 8:28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
◆ロマ 8:29 神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。
◆ロマ 8:30 神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。