家庭礼拝 2012年12月5日 ローマ8章1−17 霊による命
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起
ロマ書8章は、ローマ人への手紙の中でも最も中心的な部分です。最も大切な箇所となります。人によっては、新約聖書全体の中でも中心をなしている部分であると言う人もいます。ですが難解です。一度読んだだけでは、何のことか分かりません。肉と、罪と、霊という言葉が繰り返し出てきて、罪と肉と霊について語っているのであり、霊的に生きなさいと言う事は分かりますが、それぞれの言葉を忠実に理解していこうとすると、混乱しだします。そこで、今回はロマ書8章を少し丁寧に細かく読んで行きたいと思っています。今日は「霊による命」と小見出しの出ている部分だけを学びたいと考えています。
混乱の下になっているのは、ここで出てくる肉と、罪と、霊という言葉の使われ方です。今日学んでいく1節から17節の短い箇所の間でも、肉という言葉が13回、罪という言葉が7回、霊と言う言葉が18回も出てきます。これらの言葉が出てこないのは、17節一箇所だけです。肉と罪の言葉を合わせると20回ですから、霊と言う言葉の18回とちょうど同じくらい交互に出ている事になります。
このような分かりにくい事を理解するときの常套手段は、理解する事のできる小さなブロックに分けることです。そしてまず、全体をつかむ事です。これは聖書だけではなく、何でもそうです。分かりにくかったら、分かる単位に分けるのです。そして全体がつかめれば、後は比較的楽に理解できます。すなわち、自分でさらに小見出しをつけていくようなものです。
今日の箇所は、小見出しでは一つですが、まず、二つに分けたほうが理解しやすいようです。前半の1節から11節までは、御霊による生活について語っています。肉に従って歩むものの生活がどのようなものであり、霊に従って歩むものがどのようなものであるかを語っています。後半は、12節から17節です。「それで、」と言う言葉がここからまとめに入る事を示唆しています。それは、御霊によって歩むものは神の子とされるということが書かれています。
ここでの文章全体の構成と主旨は、「肉によって歩むものは神様に喜ばれず、肉の事しか考えないので滅んでしまう。霊によって歩むものはキリスト・イエスと結ばれ、罪と死から開放されるので、死ぬはずの体も生かされる。すなわち、霊によって歩むものは神の子とされるのである、」と言う事なのです。このことを基本に、しっかり頭に入れて読んでいけば理解の軸ができるので、あまり混乱はしないで済むかもしれません。
また前半も、1節から4節までと5節から11節までに分けたほうが分かりやすいかもしれません。1節から4節までは、「キリスト・イエスと結ばれる霊の生活は、罪と死から開放する」という事を語っています。そして、5節から11節までは「肉によって歩むものと霊によって歩むものの生活」を対比させて語っています。
承
さて、いよいよ本文に入りますが、今日は一節ずつ解釈して行くやり方はしません。たぶんその方法では混乱してしまい、何をいおうとしているのかが判らなくなると思います。ですから、今日は先ほど話しました様に、前半の前ブロックと後ろブロックそして後半の三つのブロックに分けて、そこで言わんとすることを中心に理解していきたいと思います。逐語的な解釈は致しません。そこで、言わんとすることを捉えていきます。では、まず1節から4節までを読んでみたいと思います。
ロマ 8:1 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。
ロマ 8:2 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
ロマ 8:3 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。
ロマ 8:4 それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。
ここのブロックの特徴的なのは、今日の箇所全体で罪という言葉が7回出てきますが、ほとんどここのブロックで出ているだけで、他の箇所には一箇所あるだけです。すなわち、ここでは霊と肉と罪の関係の中で、罪を中心に語っているのです。それは、「罪は霊によって開放された、罪は御子によって取り除かれた、」と言う事を中心に言っています。どんなに律法を守ろうとしても、どんなにがんばっても、罪の束縛から解放されなかった人間が、イエス様が十字架の上で、肉を罪として処断し、霊に従って歩む道を示してくださったおかげで、私達は律法を守ろうとするものから、進んで律法を満たそうとするものへと変えられたのです。肉の思い、それは自分の力で何とかしようとする思いが、霊の思い、すなわち、イエス様とともにありたいという思いによって乗り越えられたと言う事なのです。それは人間的な思いから信仰的な思いに変えられたといっていいのだと思います。信仰的な思い、すなわち、自分の思いによってではなく、イエス様の御心に従いたいと言う霊的な導きによって、私達は本当の救いへと導かれ、罪と死の法則から開放されるようになるのだということです。私達はまだまだ罪の思いが深いものです。それは私達の内に肉の弱さがあるからです。いくら善い事をしようとしても出来ない、無理をすれば偽善的になるだけだ。いくら信仰的になろうとしても、どうしても自分のエゴが出てしまう。そのように悩んでしまう私達ですが、出来ない、出来ないと悩まなくてもいいのです。そのように悩む私達に、イエス様の霊が働いてくださると言うのです。その霊の働きに委ねればいいのです。その霊の働きは既に私達を罪と死から解放しているのだというのです。その事を信じるのが信仰なのではないでしょうか。出来ないと思うのではなく、イエス様の霊の働きをただ信じようとするだけでいいのです。罪は既にイエス様によって取り除かれたと、ここでは語られているのです。
転
さて次のブロックは、5節から11節で「肉によって歩むものと霊によって歩むものの生活」について語られています。この箇所をちょっと長いですが、また読んでみます。
ロマ 8:5 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。
ロマ 8:6 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。
ロマ 8:7 なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。
ロマ 8:8 肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。
ロマ 8:9 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
ロマ 8:10 キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。
ロマ 8:11 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
ここの箇所も、なかなか頭に入りにくい箇所です。一つの箇所を読んでいると前の箇所を忘れてしまうのです。全体のイメージがとりにくいのです。なぜかと言うと、ここの箇所は、もともと比較表になっているようなものを言葉で表したような箇所だからです。ですからここの箇所は元の比較表に戻してみると分かりやすいのです。それはどんな表でしょうか。それは一番上に肉と言う欄を置き、その右隣に霊と言う欄を置きます。そして左側の縦の列に、歩みと言う欄と、思いという欄と、支配下と言う欄を置きます。そしてその交差する欄のところにパウロの言葉を入れて行くのです。すなわち、肉の欄の縦列に、肉の歩みと、肉の思いと、肉の支配下、について書き表します。そして、霊のランの縦列には、霊の歩みと、霊の思いと、霊の支配下、に関して書き表すのです。そうするとだいぶ整理されます。
そうすると、ここの箇所は、肉に関しては次のように読むことができます。「肉の歩みは、肉に属する事を考え、肉の思いは、死であって神に敵対することであり、肉の支配下にあるものは、神には喜ばれない。」となるのです。そしてもう一方の霊に関しては、「霊の歩みは、霊に属する事を考え、霊の思いは命と平和であり、霊の支配下にあるものには、神とキリストの霊が宿り、義によって命を得、死ぬはずの体が生かされる。」となります。
ここでパウロが一番訴えたい事はなんでしょうか。それは、私達の人生の前には肉による人生と、霊による人生があるということです。その二つの人生のどれをあなたは選択するのですかと言う事です。ここでもう一度、肉による人生とは何か、霊による人生とは何かをはっきりさせなければなりません。
肉による人生とは、この肉体を通して知られる、経験的感覚的な人生です。私達にとっては一番分かりやすい人生です。この体が無ければ人生は無いと思っているからです。そしていつの間にか、人生とはそれだけだと思い込んでしまっているのです。だから死んでしまえば全ておしまいだと思っているのです。死に捉われてしまっているのです。したがって、自己中心的で、自分だけが信じられるもので、神様のように、感覚や経験で捉えられないものは信じられないのです。ですから神様に敵対してしまうのです。そこには、自分だけがよければよいというような狭い利己的な考えが起こって来ます。
一方霊的な人生は、私達の経験や感覚を超えて、この肉的な人生を越えて支配している大きな世界、神の世界があると信じる人生です。命は肉体に閉じ込められているのではなく、肉体が神の命の中で生かされているのです。ですから、その思いは自己中心的な思いから、神様中心の思いとなってきます。自己にあるものは、皆神様から与えられたものであり、例えその肉体が滅んでも、命は残るのです。人生は肉体とともにあるのではなく、肉体は人生の中に与えられたものとなるのです。肉体がなくなっても人生は残るのです。霊的な人生においては、個人的な利害損得は重要ではなくなります。全てが神様から与えられたものだからです。神様の霊に従って、イエス様の霊とともに生きることが大切になります。その結果は愛すると言う行為となって現れてきます。愛する事は努力して行う事ではなく、自然な行為となるのです。このようにして、死ぬはずである体でさえも生かされてくるのです。
今、肉による人生と霊による人生とは何かを定義し、説明いたしましたが、実はその中にここでパウロが言っている事がほとんど入っているのです。私達にとって大切な事は、この肉に閉じ込められたと考える人生を選ぶのか、肉の人生を越えて存在する霊の人生を選ぶのかと言う事なのです。霊の人生は、ただその事を教えてくださった、イエス・キリストを信じることによってしか選ぶことが出来ないのです。この霊による人生があることを私達に示すために、イエス様は十字架で命を捧げられたのです。ですからそれを信じるもの一人ひとりにとって、イエス様は私一人のために命を捧げてくださったと言う事になるのです。パウロは、私達にイエス様が教えてくださった霊による人生を歩んで欲しい為に、一生懸命説明しているのです。
さて、最後のブロックは、12節から17節までです。ここでは、御霊によって生きるものは神の子である事が語られています。私達を神の子というパウロの言い方はとても大胆です。もう一度この箇所を読んでみます。
ロマ 8:12 それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。
ロマ 8:13 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。
ロマ 8:14 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
ロマ 8:15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
ロマ 8:16 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。
ロマ 8:17 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
ここでは、先ほど申しましたように、「御霊によって歩むものは神の子とされる、」と言う事がかかれています。これは大変な言い方なのです。イエス様は、ユダヤ人たちから、自分を神の子としていると糾弾されて、十字架につけられたのですから、パウロがここで、御霊によって歩むものは神の子とされる、と言うこと言う事は同様に神様を冒涜する言葉と取られるのです。現代の私達でさえも、自分が神の子と信じることに抵抗を感じることがあります。私自身、この言葉を信じようとしたときに、大きな畏れを感じました。本当に、自分は神の子と思っていいのだろうか、と言う畏れでした。そして、クリスチャンの中には決して自分を神の子と受け取らない人々もたくさんいることをよく感じます。それは、聖書は、わたしたちの父なる神様、と呼びかけなさいと教えているのに、決してそのように呼ぶ事はせず、イエス・キリストの父なる神様、とだけ呼ぶ人々がいることです。聖書に書いてあることよりもそのほうが絶対正しいと思いこんでいる人々がいることです。
ですが、誰でも神の子とされているのではなく、神の霊によって導かれるものだけが神の子なのです。神の霊によって導かれるものとは、信仰によって生きるものです。もし私達に、信仰があるというならば、私達は大胆に、神の子である事を言ってもいいのです。それは許されている事なのです。主の祈りをしているならばそれは許されている事なのです。私達が父なる神様、と呼びかけるとき、それは霊が私達のことを神の子であると証しているのです。ですから、私達は、聖霊に導かれて、むしろ大胆に父なる神様と呼びかけ、私達が神の子とされているものであることを、信じて祈る事が許されているのです。また、そうでなければ本当の信仰には至らないのです。17節にはこうも書いてあります。
ロマ 8:17 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
私達が、神の子となり相続人であるならば、キリストの苦しみとともに栄光をも受け取ることが約束されています。私達は苦しみをすぐ避けようとしますが、その苦しみには意味があるのです。死にも意味があるのです。私達が、その苦しみをキリストの栄光を受け取るためのものだと信じるならば、その苦しみや死さえも、栄光に輝いてくるのです。死や苦しみが無意味なものではなくなりました。それが神の子とされたものの歩みなのです。
結
神様は、私達の前に肉に従う人生を歩むのか、霊に従う人生を歩むのかの選択を与えられました。パウロは何とか霊に従う素晴らしい人生を歩んで欲しいと願って語り続けました。私達は霊に従う人生を歩む事によって、神の子とされる人生を歩む事ができるのです。それは苦しみや死さえも栄光に変えられる素晴らしい人生なのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。私達は信仰が与えられ、霊に導かれて、あなたを父なる神様と呼ぶことが出来ます事を感謝いたします。パウロは、霊に導かれるものは神の子とされていると教えてくださいました。私達には、まだまだ実感の薄いものですが、どうかその事を信じて、神の子としてこの世に生きることが出来ますように導いてください。この世にはいろいろな肉の誘惑や、苦しみや、死の恐れもありますが、どうかイエス様に賜った栄光に預かるために、私達も、その苦しみを共に受けるものでありますように。その苦しみの中に、どうかイエス・キリストの栄光をも見ることが出来ますように。
この世には、あなたを信じることの出来ない人々がたくさんいます。どうか私達はこの世にあって、聖霊に導かれ、神の子としての歩みを立派にする事ができますように導いてください。そのことがこの世に対する、伝道となり、よき知らせとなりますように。あなたの聖霊が、この世にあっても、栄光に輝いているものである事を見ることが出来ますように。
この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:ローマの信徒への手紙)>>
◆霊による命(御霊にある生活)
(キリストイエスと結ばれる霊の生活は、罪と死から開放する)
ロマ 8:1 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。
ロマ 8:2 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
ロマ 8:3 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。
ロマ 8:4 それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。
(肉によって歩むものと霊によって歩むものの生活)
ロマ 8:5 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。
ロマ 8:6 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。
ロマ 8:7 なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。
ロマ 8:8 肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。
ロマ 8:9 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
ロマ 8:10 キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。
ロマ 8:11 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
(御霊によって生きるものは神の子)
ロマ 8:12 それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。
ロマ 8:13 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。
ロマ 8:14 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
ロマ 8:15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
ロマ 8:16 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。
ロマ 8:17 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
肉 13回 罪 7回 霊 18回