家庭礼拝 2012年11月27日 ローマ7章1−25 内在する罪
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起
今日の箇所も、ローマ書の中心部分ですが、なかなか分かりにくい箇所でもあります。それはどうしてかと言うと、パウロは、今の私達に直接語りかけているのではなく、ユダヤ教に基づいて反論をしようとしている人々に対して語りかけているからです。今の私達にはあまり必要としないことに対しても、ユダヤ教から見るととても大切にされている事なので、そのような考え方を中心に語っているからです。7章1節に、「私は律法を知っている人々に話しているのですが、」とことわっているように、今日の話は律法を知り、律法に生きている人々に話をしているので分かりにくいのです。ですから、律法を知らず、律法に生きていない私達が聞く方法としては、パウロの言っている事の大づかみだけを、中心だけを捕らえて、後はあまりこだわらずに聞くほうが良いのだと思います。細かくこだわりだすと、何か頭の中で、こんがらかってしまうような印象さえあります。
今日の話は結婚の比喩から始まります。これはどうしてでしょうか、何を意味しているのでしょうか。パウロの話はイエス・キリストが現れたことによって、古いものと新しいものが対立し、律法と恵みとが対立し、罪と義とが対立し、死と生とが対立したのです。この対立の中で、私達は、古いものから新しいものへと移って行くのです。ですが、ユダヤ教の教えを信じているままで、イエス様の教えを信じる事は、それはまるで、結婚した夫がいるのに別の人と不倫をしているような感覚を持っているのです。それが当時の時代感覚で、私達の時代感覚ではないので分かりにくいのです。今で言うと不義理をしていると言う感覚です。
このこと、すなわち古いものから新しいものにうつることの、正当性を語るために、結婚に基づく法律の解釈を念頭に説得しようとしているのです。すなわち新しいものと結婚できるのは次のような場合なのです。そのケースと言うのは、結婚している夫が死んでしまったなら、新しい男の人と結婚は赦される。または、自分が死んでしまえば、その結婚は解消されるので、その後生まれ変わったなら、新しい男の人との結婚は赦される、と言う解釈の上に立って、その正当性を主張しようとしているのです。今の私達には、何と回りくどい事を言っているのだろうかと言う気もするのですが、当時の世界ではこれをきちんとしておく事が大切だったのです。
今の私達に例えて言えば、この世のことにいつまでも気持ちが引かれていたり、損得や自分のことばかりに気をとられながら、イエス・キリストの信仰を持つと言うのは、不倫をしているのと同じだと言っているのです。だから、不倫とならないためには、私達はこの世に対して、自分と言うものに対して死ぬことが必要だと言っているのです。それが6章で語られた、洗礼であり、洗礼によって死に、新しくされて、新しい教えと結婚するのです。それが、パウロが言おうとしていることであり、ぬるま湯的な信仰にいる私達には厳しすぎる教えなのかもしれません。ですが、当時の信仰には、これほどまでのけじめが必要だったのです。
承
それでは、聖書の言葉を読んでみましょう。まず1節です。
ロマ 7:1 それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。
この1節では、いきなり、「それとも知らないのですか、」と言う言葉が出てきます。前回の6章の3節でも、「それともあなたがたは知らないのですか、」と言う言葉を語っています。これはある結論に対して、別の事実を当てはめて、説得しようとするときに使う、パウロの一流の言い方です。ここでの「それとも、」がさしている結論と言うのも分かりにくいのですが、それは、6章15節からの「では、どうなのか。私達は、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいと言う事でしょうか。決してそうではない。」と言う言葉なのです。この言葉に対して、「それとも、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか、」と言っているのです。こんな事も知らないで、そんな馬鹿なことを言うのですかと言っているのです。
ここでの基本的な教えは、律法は生きている間だけ支配するものである、と言う事です。そのことを言う為に、夫が死ねば律法から開放されること、他の男と一緒になっても姦通の女とはならないこと、を言っているのです。そして一般論では夫すなわち律法が死んだ場合のことを言っているのに対して、自分達のことを言う場合には、4節で「ところで、兄弟たち、あなたがたも、」と言うところで言っているように、夫すなわち律法が死んだ場合ではなく、自分が死んだ場合、すなわち律法に対して自分が死んだ場合の事を言っているので、論旨が一貫せず、混乱を招くのです。ですが、ここで大切なのは、律法は生きている間だけ支配するものであると言う事を、しっかりと捕らえておけば済むことです。信仰者が、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されていると言う事が大切なことなのです。とにかく死んだものになれば不倫ではないのです。ですから、それほど、古いものに対して死ぬということが大切なのです。その新しい生き方は、「文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方」なのです。
転
そして話は、不倫とか不義理の話ではなく、律法そのものが罪なのかどうかという議論に発展します。7節です。
ロマ 7:7 では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。
パウロは、律法を罪とは考えていないのです。パウロが今まで語ってきたのは、律法から恵みの世界へと言う事でした。その言い方はまるで、律法が悪いもののように感じられました。ですが、パウロは決してそうではないと強調します。律法がなかったなら、すなわち、神様のガイドラインが無かったなら、私達は罪を知らなかったし、知らずに罪を犯したであろうと言うのです。すなわち、律法は、罪を犯させないようにするのには役に立つが、救いに対しては役に立たないと言う事なのです。律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのだけれども、その律法を自分の力で守ろうとする事は、自分を殺してしまうことだといっているのです。律法が罪を生き返らせ、自分を殺してしまうのだけれども、それは律法そのものが悪いのではない。律法を守る事によって救われると思っている自分が悪いのだと言っているような気がします。律法を守ることによって、自分を正しい人と思いこんでしまう自分が悪いと言う事です。そして、ここでの結論として12節13節でこう言いました。
ロマ 7:12 こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。
ロマ 7:13 それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。
パウロは、律法そのものは良いものである。だが、その善いものすなわち律法を通して、罪が正体をあらわして死をもたらすのである。すなわち、律法は罪を明らかにするだけであり、罪こそ限りなく邪悪なものであると結論付けたのです。
14節からは、話の雰囲気が少し代わります。今までの神学的な話ではなく、実存的というか、自分自身の気持ちを話し出したのです。自分がこのことについていかに苦しみ悩んできたかを話し始めたのです。14節です。
ロマ 7:14 わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。
ここでパウロは、律法が霊的なものであると知っていますと言いました。これはちょっと耳慣れない言い方です。今まで、律法は、割礼や、行いや、肉や、罪や、死と関連付けられて話がされてきているので、律法はどちらかと言うと肉的なものなのかなという印象を持っています。ですが、パウロは律法は霊的なものであるとはっきり言っています。そして律法ではなくて、私こそが肉の人であり、罪に売り渡されたものであると言ったのです。すなわち、律法は霊的なものであるのに、わたしたちは肉的なものによって、すなわち、行いによって仕上げようとしていたと言う事です。そして、パウロは、私こそが肉の人であると告白しているのです。
そしてこのように自分のことを嘆きました。15節です。
ロマ 7:15 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
パウロの心は、はっきりと二つのことを知っていました。自分が望んでいることと、自分が憎んでいることがあるということです。それを自分の行動にも当てはめて、何が望んでいたことであり、何が憎んでいたことなのかをはっきりと意識しているのです。私達はこの境界をあいまいにして、してはいけないことをしてしまっても、あまり気にしないようにしてしまいます。ところがパウロは、私は自分のしていることが分かりませんと、心から嘆いているのです。そして、19節と20節で、それをどう理解したらよいのかを言っています。
ロマ 7:19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
ロマ 7:20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
パウロは、自分は善を望んでいるのに、望まない悪を行っているのだから、それはもはや自分ではなく、私の中に住んでいる罪なのだといいました。それほどまでに、パウロは、自分が悪を行ってしまうのはなぜなのかと突き詰めていったのです。その結果、それはもはや自分ではない、罪というものが行っているのだと結論付けたのです。ある意味で、パウロは自分が悪かも知れないと言う考えは、全く受け入れられなかったのです。心理学では、このような受け入れられないものを自分から分離して行くという事はよくある事例です。
そしてパウロは、心の法則と罪の法則とが、自分の体を通して戦っているのだと言う考えを展開します。ですが、このような考えは、何の助けにもならないのです。私達もこのパウロの考えはあまり大切に考える必要は無いと思います。むしろパウロが24節でいった言葉の中に、本音があります。実存的な問いがあるのです。24節では、
ロマ 7:24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
パウロは、心の法則とか罪の法則とかいったって、それがどうなるものでもないことは知っていたのです。何の解決にもならないことを知っていたのです。そして、私は何と惨めな人間なのでしょうと嘆きました。そして、誰が私を救ってくれるでしょうかと、最も根源的な問いを発したのです。そして、振り返ってこう言ったのです。25節です。
ロマ 7:25 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。
この25節の言葉は本来、私達の主イエス・キリストを通して神に感謝します、で終わっていると推定されています。この嘆きの後で、私を救ってくれるのは、イエス・キリストしかいない、と言う言葉で終わるのが自然なのです。心の法則と罪の法則で分裂した自分を救ってくださるのは、もう理屈ではなく、私達を愛し復活してくださったイエス・キリストしかいないと言う結論なのです。その言葉の後に続く、「このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」と言う評論家的な言葉は、本来は23節に続く言葉として、考えられています。ですから、ここの箇所をもっと自然な形で読めばこうなります。
「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
だが、わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。主は、恵みによって、私達をこの死の体から救い出してくださったのです。」と、神様とイエス様への賛美となるのです。
結
私達は、イエス様を信じることによって、律法による生活から恵みによる生活へと変えられました。ですが、それには古い生活と決別し、古いものに対して死に切ることが大切だったのです。そうでないと、私達は、律法による生活を引きずりながら恵みの生活をしようとする、不倫な生活になってしまうのです。ですが、律法に死んだ人にとっては、その後は自由なのです。
だからと言って、律法が悪いわけではないとパウロは言いました。むしろ律法は霊的なものだといいます。問題なのは罪であって、律法は罪を明らかにしているだけなのだと言います。私達は自分が行いたいと思っている善は行えず、憎んでいる罪を犯してしまう惨めな人間なのです。パウロはそれを、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」と嘆きました。ですが、救ってくださる方がいるのです。それはイエス様の恵みです。私達はこの惨めな自分を知れば知るほど、イエス・キリストの救いをも知るものとなるのです。パウロは、ただ一言、私達の主イエス・キリストを通して神に感謝しますと、賛美と感謝の声を上げたのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、私達はパウロと同じように、自分は善を望んでいるのに、望まない悪を行っている惨めなものです。ですが、私達はそれを直視する事さえ避けて、ごまかそうとしています。そんな事は人間だからしょうがない事だといって、ごまかしてしまいます。ですがパウロは、その事から逃げず、自分の惨めさを告白して、イエス様の恵みのみが救ってくださる事を喜び賛美しました。神様、私達もどうか、悪を行っている事から逃げずに、まっすぐに認め、その事を悔い改めて、ただあなたにより頼む事ができますように。私達がどんなに悪いものであっても、それを認めるならば、あなたが私達を救ってくださる方であることを信じ続けます。どうか勇気を持って、自分のありのままを凝視して行く事が出来ますように導いてください。
パウロはまた、私達が古い生活にけじめをつけることをも教えてくれました。これもなかなかできる事ではありませんが、日々信仰的な決断を行って、新しい生活に生きることが出来ますように導いてください。
年末が近づいてまいりましたが、どうか多くの人々があなたの恵みを知って、あなたに立ち返ることが出来ますように。私達が世の光として、あなたの輝きを照らす事ができますように。
この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:ローマの信徒への手紙)>>
◆結婚の比喩
ロマ 7:1 それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。
ロマ 7:2 結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。
ロマ 7:3 従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。
ロマ 7:4 ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。
ロマ 7:5 わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。
ロマ 7:6 しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。
◆内在する罪の問題
ロマ 7:7 では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。
ロマ 7:8 ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。
ロマ 7:9 わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、
ロマ 7:10 わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。
ロマ 7:11 罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。
ロマ 7:12 こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。
ロマ 7:13 それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。
ロマ 7:14 わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。
ロマ 7:15 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
ロマ 7:16 もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。
ロマ 7:17 そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
ロマ 7:18 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。
ロマ 7:19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
ロマ 7:20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
ロマ 7:21 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。
ロマ 7:22 「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、
ロマ 7:23 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
ロマ 7:24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
ロマ 7:25 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。