家庭礼拝 2012年11月21日 ローマ6章1−23 キリストに生きる

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パウロはこれまで、信仰によって罪びとが義とされ、神様との平和を得ていることを述べ伝えました。これは今までのユダヤ教には無い教えであり、キリスト教の福音すなわち良き知らせなのです。パウロはその義とされた信仰者の新しい生活がどうあるべきかを、6章から8章までの中で述べているのです。ですから、ここの箇所は、このローマ書の中心部分といってもいいのです。

パウロの話の展開の中で、特に注意したほうが良いのは、パウロが考えている事の説明として語っている部分と、生活の中でこうしなさいと命じている箇所とがあります。命じている箇所は、当然命令形になっています。この6章には、その命令形になっている箇所が多いのです。これから順番に学んではいきますが、ちょっと先走ってその箇所を拾い集めると、前半の「罪に死に、キリストに生きる」の小見出しの箇所では、最初に出てくる命令形が、「キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」です。次は、「体の欲望に従うようなことがあってはなりません。」と「罪に任せてはなりません。」です。最後は、「五体を義のための道具として神に献げなさい。」の4つです。後半の小見出しの「義の奴隷」の所では、「聖なる生活を送りなさい。」と言う命令形が出てきます。これらの言葉は、単に説得の言葉であるだけではなく、クリスチャンとして、新しい生活をするなら、このようにしなさいと命じているのだと受け止めたほうがいいでしょう。いわばキリスト教の新しい掟とも言うべき言葉になります。

今日の最初の小見出しは、「罪に死に、キリストに生きる」とありますが、これは私達が思っている以上に重く厳しい言葉だと思うのです。私達は洗礼を受けて、罪に死にキリストに生きることを告白するのですが、それでも洗礼は、自分の人生に加えられた一こまであるとしか受け止めていないことが多いのです。バプテスト派と呼ばれる教会では洗礼は滴礼ではなく、全浸礼であり、滴礼を認めていない所もあります。きちんとした信仰告白が出来ない幼児洗礼も認めていないのです。これはある意味で正しいのです。なぜならば、洗礼とは、単なる清めでは無く、ここでいったん死ぬことだからです。罪に対して死ぬことなのです。そして新しく生まれ変わってキリストに生きることだからです。この洗礼の前と後では、もう人格が違うのです。洗礼は、私達の人生に洗礼が加えられたのではなく、洗礼によって、私達の人生が二つに分けられたのです。罪に生きていた人生が終わり、キリストに生きる人生が始まったのです。全浸礼はその覚悟を与え、その生まれ変わりを髣髴とさせる所があります。この洗礼の意味が分からない幼児に、洗礼を施さない意味も分かるのです。これを単なる儀式として捕らえてはいけないのです。自覚的に行われなければならないのです。今日の聖書の箇所は、その事を教えている箇所なのです。罪に死にキリストに生きるとはどういうことなのかを教えている箇所です。

6章1節の、「ではどういうことになるのか」と言う言葉は5章の言葉を受けての展開です。5章20節に、「律法が入り込んできたのは罪が増し加わる為でありました。しかし、罪が増した所には、恵みはなおいっそう満ち溢れました。」という言葉があります。パウロはこの言葉が人々に誤解される危険を感じたし、実際パウロたちの活動は誤解されていたのかもしれません。人によっては、「罪を犯すことによって、恵みも増えるならば、罪をどんどん犯したほうが、神様にも、人のためにもなるのではないのか。恵みが増えるのだから」と考えたり、「罪を犯しても犯さなくても結局はどっちでもいいということではないか。」と受け取る人もいたのではないかと思います。それに対して、パウロは、決してそうではない、と断言します。それは、「罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。」ということだからです。この世に死んだ人は、もうこの世の中で生きることが無いように、罪に死んだ人も、罪の中に生きることが無いのです。それなのにまだ罪の中に生きようとしているのは、罪に対して死んでいないということなのです。これが洗礼を考えるときに必要な理解なのです。私達が洗礼を受けているのに、まだ罪の中に生きようとし、この世の中で快楽や利益を求めようとしているとすれば、それはまだ罪に対して、死に切っていないのです。このことを教会はあまり厳しく教えてきませんでした。洗礼は単なる通過儀礼であり、あなたはわたしたちの仲間になりましたという儀式になってしまったのです。ですが、パウロの言っている事はそこで一度死んで、そこから新たに生まれ変わる事なのです、と言う事です。これがキリストの死と復活に通じる事なのです。このことが理解できなくてはパウロの言おうとしている事は次元の違う世界の事になってしまうのです。私達もまた、中途半端にしか理解していないものですが、ここで、パウロの教える事をしっかりと受け止めて行きたいと思います。パウロの言っている洗礼は、4節に明確に語られています。そこでは、

ロマ 6:4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

私達は、洗礼によって、この世に死に、そして復活したのです。それはキリストと共にです。そのような新しい命に生きることが洗礼なのです。決して、今までの生き方の改善や延長ではないのです。7節には「死んだ者は、罪から解放されています。」と書いてあります。死んだ人にはもう罪はないのです。もう責められるべき罪はないのです。死んでしまった人には罪は問えないのです。仏教の世界では、そのような人を仏になったといいます。むしろ悟りを開いた人と同じになるのです。ですが、私達は本当に死んだのでしょうか。死んでいないのに死んだ振りをしているならば、私達は、復活してキリストとともに生きる事も出来ないのです。私達の信仰には、この死に切ると言う事がとても大切なのですが、それはあまり語られていないのです。 死に切れた人が、「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」と言えるのです。私達は、信仰において、イエス・キリストの十字架と復活が大切である事を知っていますが、それが、私達自信の死と復活を意味している事を自分のこととして受け止めてはいないのです。ですが、パウロは11節で優しくこう言いました。

ロマ 6:11 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

優しい言葉で語られているようですが、ここが命令形なのです。だから、大切な所なのです。パウロの優しさは、「あなたがたはまだ、自分の罪に死んでいない」とは言わなかったことです。私達の中途半端な現実を分かったうえで、「あなた方も自分は罪に対して死んでいるのだと考えなさい。イエスキリストに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。そのように見なしなさい。」と言っているのです。実際には死んでいなくても、神様に対して生きていなくても、死んだものと考えなさい、神に対して生きているものと考えなさいと命じているのです。もう理屈はいい、そのように考えなさい、その様に見なしなさいと命じているのです。ですから、私達もまた、例え自分がどんなに中途半端に死んでおり、そして生きていたとしても、パウロの勧めによって、パウロの命令によって、死んだものと考えて、イエス・キリストに結ばれて、神様に対して生きることが出来るのです。

その原則的な命令に基づいて、パウロは12,13節で二つの実際的な生活上の命令を与えています。

ロマ 6:12 従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。

ロマ 6:13 また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。

その実際的な命令とは、体の欲望に従ってはならないということでした。これは、パウロがローマ書の初めの1章24節で、「そこで神は、彼等が心の欲望によって不潔な事をするに任せられ、そのため、彼等は互いにその体を辱めました。」と言われている事を指しているのだと思います。それほど、ローマの教会にあっては、このことが信仰を妨げる根深い問題となっていたのだと思います。その事もまた、死んで新しく生きることによって、キリストと共に生きることが出来るのだといっているのです。

「ロマ 6:14 なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。」と、14節に言われている通りなのです。

さて小見出しが変わって、次の15節では、1節と同じような問いかけがまた始まりました。それは、

ロマ 6:15 では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。と書かれています。

なぜ、パウロは、ここでまた1節と同じような質問と答えを繰り返したのでしょうか。何か違う所があるのでしょうか。それは、パウロが罪に縛られている人を、「奴隷」と言う言葉で表現したかったのだと思います。今では想像するしかない「奴隷」と言う言葉が、当時は、生活の身近な中にあってなお生き生きとしており、それがどんなに惨めな生き方をしているのか、誰にでもすぐに理解できる事だったからではないでしょうか。罪に縛られている事は、罪の奴隷になっていることと同じだと言うのが一番説得力のある言葉だったのだと思います。19節では、「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。」とその説明の理由をことわっています。そして、パウロは16節でその事の意味をこのように優しく分かりやすく伝えたのです。

ロマ 6:16 知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。

パウロは、私達は罪に仕える奴隷か、神に仕える奴隷となるしかないのだといいました。そしてそれは死にいたるか義に到るかの分かれ道だというのです。パウロの話の展開は、このように、一体あなたたちはどちらを選ぶのですかと迫りつつ、突然つぎように言うのです。17節と18節です。

ロマ 6:17 しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、

ロマ 6:18 罪から解放され、義に仕えるようになりました。

ここでは罪の生活がまるで過去の話しのように言っているのです。まさに飴と鞭の使い分けのような言い方なのです。かつては罪の奴隷だったという言い方は、たぶんまだ現実にはなっていないのでしょう。ですが、パウロには近い将来きっとこうなると言う事を先取りして、神に感謝しますと言って、相手の事をほめているのです。詩篇の中でも、ダビデが良く使う方法です。現実はとても惨めな状況の中で、将来の神様の恵みを先取りして、神に感謝します、賛美しますと言って、神様を誉め讃えるのです。これが信仰かもしれません。そして、前半の命令と同じように、ここでもローマ教会の人々に対し、勧めの言葉を命令法を用いて行うのです。19節です。

ロマ 6:19 あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。

ここでは聖なる生活を送りなさいと命じました。今日出てきた、これらの命令の言葉は皆ひとつのことを言っています。それは「あなたの体を神様に捧げて、聖なる生活をしなさい、」と言う一つの命令なのです。この問題がどれほどローマ教会にあって、大きなものだったのかがうかがい知れます。

そして最後に、罪の生活の実りと聖なる生活の実りの違いの大きさを語るのです。その報いの大きさを語るのです。その答えは23節でこのように語られました。

ロマ 6:23 罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。

 これもよく知られた聖書の言葉です。ですがこの言葉の意味を、本当に理解する事は、難しいのです。ここでキーワードになっているのは報酬と賜物です。報酬とは働きに応じて支払われる代価です。賜物は、働きによらずに与えられる恵みです。恵みは、愛によってのみ与えられます。このことを意識して読まないと分かりにくい文章です。罪が支払う報酬は死です、とパウロは言いました。これはその罪を働いただけ、その報いとして、死が与えられるということになります。罪そのものが死といってもいいのかもしれません。一方、神の賜物は、私達の主キリスト・イエスによる永遠の命なのですと言いました。神の賜物、すなわち、神様の愛によって、恵みとして一方的に与えられるものは、イエス様による永遠の命だと言うのです。これはイエス様を信じることによって与えられる一番の恵みです。それは永遠の命なのです。私達が本当に求めているのはこの命なのです。それは例えこの肉体の体が滅んでも、信仰とともに、生き続ける霊的な永遠の命なのです。でも人によっては、死が怖くもないし、永遠の命が欲しいものでもないと言う人もいるかもしれません。そうするとこの言葉はその人にとって意味の無いものになります。それならば言葉を言い換えて、死を「最も恐れるもの」、永遠の命を「死を乗り越える喜び」と言い換えたほうが良いのかもしれません。そうすると、この言葉は、「罪を犯すものは、その働きにしたがって、その人が一番恐れるものを与えられる。しかし、信じることにより与えられる神様の恵みは、死さえも乗り越える大きな喜びが与えられる。」と言えるのかもしれません。このことをもう一度、深く考えて行きたいと思います。

今まで行っていたように、私達は洗礼を通過儀礼のように考えていました。一つのしるしが与えられたと考えていました。ですが、洗礼は、私達の人生を、罪に生きている人生と、キリストに生きる人生に分ける大きな境界線なのです。私達はそこで罪に対して死に切ることが求められていたのです。ですがそれが、なかなかできない私達です。パウロはわたしたちに、それならば、罪に対して死んだと考えなさい。キリストイエスによって、生きていると考えなさいと言ったのです。そう見なしなさいと言ったのです。キリストに生きる人生は、私達が何かしたから与えられるものではなく、神様の愛が私達に恵みとして与えてくださるものだと言いました。私達はそれを信じ、ただ感謝して受け取ることが出来ます。そしてそれを受け取るものには永遠の命が与えられるのです。永遠の命は、神様が私達に与えてくださる一番良いものなのです。私達は肉の欲によって、もっといいものがあるのではないかと思ってしまいます。ですがその様なものはすべて死に到るのです。

 今日の聖書の箇所では、罪に生きることとキリストに生きることを教えられました。この事はまさに信仰の根幹に関わる問題です。このことを深く理解する信仰者となりたいと思います。

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様。私達が罪を捨てるのではなく、私達こそが罪に対して死んだものとなることが出来ますように。そしてイエス・キリストにあって生かされるものでありますように。そしてあなたが恵みによって差し出してくださいます、永遠の命を受け取ることが出来ますように。このことが、言葉だけでなく、実際の生活において表して行くことができますように。この世の事にこだわって生きることがありましたら、私が罪に対して既に死んだものであることを思い起こさせてください。この世の罪と交わる事がありませんように。ただあなたの御国を求めるものでありますように。

どうかあなたの福音が世の全てに述べ伝えられ、救いの恵みが与えられますように。救われて喜び感謝と賛美を捧げる事ができますように。御国が栄光をもってきますように。

この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


<<聖書の箇所(新約聖書:ローマの信徒への手紙)>>

 

◆罪に死に、キリストに生きる

ロマ 6:1 では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。

ロマ 6:2 決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。

ロマ 6:3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。

ロマ 6:4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

ロマ 6:5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。

ロマ 6:6 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。

ロマ 6:7 死んだ者は、罪から解放されています。

ロマ 6:8 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。

ロマ 6:9 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。

ロマ 6:10 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。

ロマ 6:11 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

ロマ 6:12 従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。

ロマ 6:13 また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。

ロマ 6:14 なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。

◆義の奴隷

ロマ 6:15 では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。

ロマ 6:16 知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。

ロマ 6:17 しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、

ロマ 6:18 罪から解放され、義に仕えるようになりました。

ロマ 6:19 あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。

ロマ 6:20 あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。

ロマ 6:21 では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。

ロマ 6:22 あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。

ロマ 6:23 罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。