家庭礼拝 2012年11月14日 ローマ5章1−21 アダムとキリスト
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起
私の母は、今年の四月に91歳で亡くなりましたが、私が子供の頃はいろいろと時代物の話をしてくれました。義経の話であるとか、那須与一の話であるとか、熊谷直実の話であるとか、講談で聞いてきた話をまだ小学校にも行っていない私によく聞かせてくれました。歴史物はかなり好きだった様です。いろいろな話を、熱をこめて、講談風に聞かせてくれました。その中に、いろいろな格言が混じっていて、それを私も知らない内に小学校に入る前からたくさん覚えていました。「なせばなる、なさねばならぬ何事も、ならぬは人のなさぬなりけり」という言葉もそうですが、これは母の得意の言葉でした。これが上杉
鷹山(うえすぎ ようざん) の言葉であると知ったのは社会人になってからでした。ケネディが日本の代表的な人として演説で紹介した人としても有名です。平将門が「天よ、我に艱難辛苦を与えたまえ」と叫んだと言う話や、誰が言ったのか分かりませんでしたが、「艱難汝を玉にす」と言う言葉や、今日の聖書の言葉に出てくる「艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出す。」と言う言葉も小学校に入る頃には知っていました。とにかく、艱難に対処する言葉が好きなようで、このような勇ましい言葉をいくつも教えられていました。今の聖書の言葉とは言い回しが違いますが、「艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出す。」と言う言葉が、聖書から出ている言葉であることを知ったのは、中学生の頃です。そしてそれが聖書の言葉であることを知ったとき、どうしては母、キリスト教の聖書の言葉を知るようになったのだろうかと不思議に思っていました。でも私自身、この言葉に子供の頃から励まされて育ってきたことを良く覚えています。私自身、良くこんな長い言葉を子供の頃に覚えていたなと不思議に思いましたが、言葉のリズムの良さと、教える励ましの強さが、強く印象に残っていたようです。今日はそんなことも思い出しながら、今日の聖書の言葉に聞いてみたいと思っています。
承
前回の4章の話は、アブラハムによる信仰義認の話が中心でしたが、今日の話は、アブラハムと同様に、信仰によって義とされた私達の話に話題は移ります。義とされた私達は一体どうなるのでしょうか。5章1節と2節です。
ロマ 5:1 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、
ロマ 5:2 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
1節では、信仰によって義とされた私達は、主イエス・キリストによって神様のと間に平和を得ていると言う事が書かれています。義とされる、すなわち良しとされるという事は、神様から叱られたり、裁かれたりすることなく、神様と平和に過ごす事ができると言う事です。この平和は主イエス・キリストによってもたらされました。そして2節では、このキリストのおかげで、恵みの中にあり、神によって義とされた栄光に預かる希望を誇ることができる事が書かれています。義とされたものは神様と平和であり、神様の恵みの中にあり、神様の栄光の下にあって、その希望を誇りとすることができると言う事なのです。この5章1節から11節の間に、誇りということが3回出てきます。それほど義とされたものの誇りは大きいのです。1回目が神の栄光に預かる希望を誇りとする。2回目が苦難をも誇りとする。3回目が神を誇りとする、と言う具合に誇れることが大きな喜びとして表されています。実はこの誇るというギリシャ語は、喜ぶとも訳されることのある言葉なのだそうです。ですから、誇ると喜ぶとは非常に近いのです。即ち、主を喜ぶものは主を誇るのです。神様を誇るものは、神様を喜ぶのです。私達が何を誇っているのかというのは実はとても大切な事です。その人の本心がそこに現れてくるからです。自分を誇るものは、自分のことを語りたがります。神様を誇るものは神様を語りたがるのです。人は語っているものから、何を誇っており、何を喜んでいるのかがすぐ分かるのです。パウロは希望を誇り、苦難を誇り、神を誇るといいましたが、それは、希望を喜び、苦難を喜び、神様を喜んで、それを大いに語ったと言う事なのです。そしてこうも言いました。3節から5節です。
ロマ 5:3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、
ロマ 5:4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
ロマ 5:5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
パウロは苦難をも誇りとしているといっています。即ち苦難をも喜んでいるのです。なぜならば、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む事を知っているからだと言うのです。普通の人は苦難を喜ぶ事はで来ません。何とか避けようとします。ですがパウロは違うのです。苦難をも誇りとするのですから、喜んで苦難をも請け負うのです。その苦難には意味があることを知っているからです。意味もない苦しみではないのです。練達と希望を生み出す苦しみである事を知っているからなのです。
アウシュビッツの収容所で生き延びてそのときの体験を書いたフランクルの「夜と霧」は有名ですが、最近、彼の書いた、「それでも人生にイエスという」と言う本を読みました。これは収容所で互いに励まして人々が歌っていた歌の題名です。V・E・フランクルは心理学者哲学者としても有名ですが、彼はアウシュビッツでの体験から、人は生きる意味を失うと死に到る事、意味を見つけることが出来るなら、どんな苦しみでも耐えられ、死さえも受け入れられることを言っています。それを態度価値と名づけています。同様に、パウロはその苦難にも意味を見出したのです。そして誇ったのです。自分から受け入れて行ったのです。なぜならば、苦難は練達を、そして希望を生み出し、そこに神様の愛が注がれているのを知ったからです。その苦難と言うのは、どんな苦難をもさしているのです。私達の日常の、面倒な、いやな、苦しい事も含めて、すべてを誇りとし喜ぶ事ができる事をパウロは言っているのです。そこに神様の愛が注がれている事さえ知る事ができるなら、その苦難の意味を知りさえすれば、私達はそれを誇り喜ぶ事ができるのだと言っているのです。苦難に対して不満を言うどころか喜び誇ることが出来るのですから、何と言う恵みではないでしょうか。私達も苦難を誇り、喜ぶものとなりたいものです。
このような義と平和と喜びの恵みと救いは、イエス・キリストによってもたらされました。実にそれは、私達が信仰を持っていたからでも、正しい歩みをしたからでも、善を行ったからでもありませんでした。全く罪の中にあったのにその恵みは与えられたのです。6節から8節です。
ロマ 5:6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
ロマ 5:7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。
ロマ 5:8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
私は信仰に入ってからもずっと、イエス・キリストが自分のために死んでくださったと受け止める人の思いが良く分かりませんでした。どうして自分のために死んでくださったと思えるのだろう。格好をつけているのではないのか、教えられた事を鵜呑みにしているだけではないのか、と言う思いが拭い去れませんでした。確かに私は罪びとであり、イエス様が、罪びとの救いの為に来られたのは分かるのですが、それが自分のために死んで下さったという実感にはつながらなかったのです。今回、フランクルを読んでいて、人はその人の過去が人々の中に生きていることを教えられました。過去は無駄ではないのです。年老いた人々は未来が少ない事を嘆くのではなく、生きて働いている過去がたくさんあることを喜ぶべき事である事も知りました。そして、イエス様の十字架の死が、それが過去の出来事であったとしても、それが今の自分のための死であるかどうか分からなくても、自分の心の中では、そのイエス様が死んでくださったことにより、自分が信仰へと導かれている事を思いました。今自分が信仰を持てているのはイエス様の十字架の死があればこそであることを思うのです。それが、もしかすると自分のために死んでくださったという意味ではないのかと思ったのです。信仰を持っていること自体が、イエス様が私のために死んでくださった証なのです。パウロは8節で、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。と言いました。私達が、良い人でもなく、正しい人でもなく、罪びとであったのに、その私達のためにイエスキリストが死んでくださったのは、神様が私達を愛してくださっている証なのです、といっているのです。それは、信じることの出来ない私達が、神様の愛によって、イエス様が十字架で死なれたと言う出来事を通して、信じるものにしてくださったと言う事です。そして、パウロはその喜びをこのように言いました。9節から11節です。
ロマ 5:9 それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
ロマ 5:10 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
ロマ 5:11 それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。
パウロは私達が、キリストの血によって義とされたといいました。これはイエス様の十字架によって、信じることができるようになったと言う事です。そして義とされたもの即ち信じるものと神様との間に平和が与えられ、神様の怒りから救われ、神様と和解する事ができ、救われるのだと言いました。今は既に神様と和解しているのだから、なおさら救われるではないかと言うのです。パウロは自分たちが神様と和解し、救われた事で安心するだけではないと言います。それは神様を誇るものとなったと言うのです。神様を誇るものは、神様を喜び、神様のことを語らずにはいられなくなるのです。そのように誇るものになった事を喜んでいるのです。
転
パウロは、義とされるということがどういうことなのかを話し終えて、それではそもそも罪とは何なのか、恵みとは何なのかということを「アダムとキリスト」と言う小見出しのところで語っています。それで、最初は罪とは何かということを何と言っているか、12節から14節で聞いてみましょう。
ロマ 5:12 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
ロマ 5:13 律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。
ロマ 5:14 しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。
パウロは罪が一人の人によって入ってきたと言います。現代人の感覚では罪を犯したのはその人の罪であって、子孫代々その罪を負わなければならない事はありません。それではこれは、私達の遺伝子がその罪を負っていることなのかという事も考えては見ますが、なぜかしっくり来ません。このことを理解するには、その時代の時代感覚と言うものを知っておく必要があります。この時代には個人と言うものがないのです。基本的には、部族単位なのです。誰かが罪を犯せばそれはその部族全体が罪を犯したことになり、滅ぼされたり、戦争を行ったりするのです。それが時代と共に、部族から家族全体になり、そして近代になってやっと個人という意識が出来てくるのです。ですからアダムが罪を犯したと言うのは、ごく自然に、ユダヤ世界全体が罪を犯したと言う理解になるのです。または人類全体が罪を犯したと言う事です。そして罪が死と強く関連付けられています。聖書の中でも罪の結果が死なのだと教えられればそうなのかとも思いますが、もっと違った理解の仕方もあります。それは、罪と死の、神様との関係のあり方です。これには当時の死に対する理解がどうであったかを知る必要があります。当時はダビデの詩篇の中にもたびたび現れてきますが、死ねば全てはおしまいと言う表現があります。おしまいと言うのは、神様から、完全に切り離されると言う事なのです。死んでしまったら、祈る事も、神様を礼拝する事も、賛美する事も出来なくなると考えられていたのです。ダビデはそれをとても嘆きました。そして罪とはまさにそのような状態なのです。罪を犯したものは、生きたまま、神様から切り離され、祈る事も、礼拝する事も、賛美する事も出来なくなっているのです。それはまさに死に等しいのです。ですから罪の結果は死なのです。人間は皆死んで行きます。それはすなわち、みな罪を負っているからなのだという風に考えられていたのです。人間が死ぬことこそ、人間が罪を犯していることの証拠だと言うのです。それはアダムによって犯された罪が、人類全体の罪として、その罪の結果を負っているのだということなのです。
そしてパウロは、次に恵みとは何かを語りだします。15節から17節です。
ロマ 5:15 しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。
ロマ 5:16 この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。
ロマ 5:17 一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。
確かに罪とは、どんなに良い事を行っている人でも、一つの罪があれば、それで裁かれます。それに対して、恵みとは、どんなに多くの罪があっても、恵みが働くときには、無罪の判決が下されと言うのです。このように罪と恵みは全く違った働きをします。このような恵みが、神の恵みとイエスキリストの恵みが、多くの人に豊かに注がれており、罪が許され、キリストを通して生き、支配するようになるのが、恵みの働きだと言うのです。罪はアダムによって、恵みはキリストによって与えられたのです。そしてパウロの言葉は結論を迎えます。18節から21節です。
ロマ 5:18 そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。
ロマ 5:19 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。
ロマ 5:20 律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。
ロマ 5:21 こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。
パウロは、一人の人によって全ての人が罪とされた、その一人の人とはアダムであり、一人の人の正しい行為によって全ての人が義とされた、その一人の人とはイエス・キリストであると、そのイエス様の立場を明確にします。イエス様の出現は、罪の時代が終わり、恵みによって、義とされ、永遠の命に生きる時代が始まったと言う宣言なのです。
結
イエス様は、この罪びとの世界に恵みをもたらせました。そしてその事を信じる信仰によって私達は義とされ、神様と平和に過ごす事ができ希望を持って、神様を誇っていくことが出来ます。例え、私達が、まだ罪の中にあったとしても、イエス様の恵みは、その罪をも恵みによって、無罪としてくださっているのです。ですから私達は、イエス様を誇り、神様を誇って、喜び賛美する事が出来るのです。ですから、もう私達は、どんな困難も苦労もいやな事も喜んで引き受ける事が出来るのです。そこには神様の愛が注がれている事を知るようになるからです。もう意味の無い困難や苦労はないのです。イエス様の、苦難や十字架の死が、意味の無いものではなかったように、どんなにその困難や苦難が意味がなさそうに見えたとしても、その苦難を引き受ける私達を、神様は喜んで見つめてくださり、愛を注いでくださっている事を知るからです。だから、私達は苦難をも誇ることが出来、それを与えてくださる神様をも誇ることが出来るのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。あなたがイエス様を通して与えてくださいました、救いの恵みに感謝いたします。私達は、罪によって裁かれる世界から、恵みによって救われる世界へと移されました。私達が、行う事には意味の無いものは無く、どんなにつらい事の上にもあなたの愛が注がれている事を思います。そしてその事を知って歩む私達に、あなたは喜びを与え誇りを与えてくださいます。神様、どうかあなたを誇るものとさせてください。あなたがどんなに私達を愛してくださっているかを誇り、語り、賛美するものとさせてください。そして、多くの人々と共に、その喜びの歌を歌う事ができますように。この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:ローマの信徒への手紙)>>
◆信仰によって義とされて
ロマ 5:1 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、
ロマ 5:2 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
ロマ 5:3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、
ロマ 5:4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
ロマ 5:5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
ロマ 5:6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
ロマ 5:7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。
ロマ 5:8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
ロマ 5:9 それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
ロマ 5:10 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
ロマ 5:11 それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。
◆アダムとキリスト
ロマ 5:12 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
ロマ 5:13 律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。
ロマ 5:14 しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。
ロマ 5:15 しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。
ロマ 5:16 この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。
ロマ 5:17 一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。
ロマ 5:18 そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。
ロマ 5:19 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。
ロマ 5:20 律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。
ロマ 5:21 こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。