家庭礼拝 2012年10月31日 ローマ4章1−25 アブラハムの模範
賛美歌219 夕日落ちて聖書朗読 祈り 奨励説教 一分黙想 全員祈り 主の祈り 賛美歌404 あまつましみず
起
あなたは神様を信じますか、と言われたときに、私達は一体何を思うでしょうか。きっと人それぞれ違うのだと思います。神様の存在を信じますかなのか、神様が祈りを叶えてくれるのを信じますかなのか、神様が救ってくださるのを信じますかなのか、神様の約束を信じますかなのか、いろいろなのです。ですが私達は、神様を信じると言う言葉を比較的無造作に使っているような気がするのです。宗教心のなくなった現代の中で、「あなたは神様を信じますか」と言われたら、それは、神様の存在することを信じますか、と言う質問であると受け取る人が多いと思うのです。ところが、当時のユダヤ人の世界でも、昔の日本の神話的な世界でも神様の存在を信じるかと言う質問はばかげた事で、神様がいるのは当然のことなのです。ですから、あなたは神様を信じますかと言われたら、それはどんな神様を信じますか、神様の何を信じますか、と言う質問になるのです。私達クリスチャンにとっては、この質問の意味は、神様の存在を信じるかではなくて、神様の約束を信じるか、と言う質問に等しいのです。このローマ人への手紙で話される信仰義認の、信仰の問題は、神様の約束を信じるかと言う事に重点がある事をしっかりと念頭において聞いていきたいと思っています。
このローマ書は宗教改革者ルターの特にお薦めの書です。共観福音書以上に大切なものとし薦めています。なぜそこまで言うのだろうかと言う事が気になっていました。そしてローマ書3章まで学び進めて来て少し分かるような気がしてきました。信仰義認と言う事を強調する二人ですから、そういった意味では分からなくもないのですが、それだけではないような気がしていました。そして考えている内に、ルターとパウロは同じ考えに基づく宗教改革者であるということに思い当たりました。即ち、最初の宗教改革者はパウロではないかと思うのです。パウロはユダヤ教の律法と割礼に対して、イエスキリストの贖いを信じる信仰、信仰義認を述べ伝えたのです。そして当時のユダヤ世界の大きな抵抗にあいながらも命がけでそれを伝えました。これはまさに宗教改革なのです。一方ルターは、当時の強権的教皇支配によって形式化、儀礼化してしまったカトリックが免罪符のようなものを出して信仰を忘れてしまっている事に対して、「信仰のみ」を突きつけたのです。そして当時の閉塞的な教会制度に対して抵抗し続けたのです。ユダヤ教の律法はカトリックの儀礼的礼拝に相当するものであり、ユダヤ教の割礼はカトリックの免罪符に相当するものではないでしょうか。ルターは自分の宗教改革者としての使命を使徒パウロと重ねていたのではないでしょうか。そして行う事よりも信じることの大切さを何よりも大切な事として述べ伝えようとしていたのではないでしょうか。信じる信仰、約束を信じる信仰を述べ伝えたのです。
信仰義認を強調することにおいては、信仰の歴史の中で二人は双璧です。パウロは今日の聖書の箇所4章においても、その信仰義認をアブラハムを引き合いに出して、説得しようとしているのです。このローマ書は、このように、パウロが旧約聖書から、新約聖書の意味を解き明かそうとしている書物だと言ってもいいのではないのかと思います。旧約が律法の書であるとの先入観があるのですが、そうではないとパウロは言います。そこには、旧約にも新約にも一貫して流れる信仰義認があるのだということを明らかにしたのは、パウロの大きな功績だと思うのです。それを今日は学んでみたいと思います。
承
まず初めに、4章一節は、こうなっています。
ロマ 4:1 では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。
と言う言葉で始まっています。この言葉は、前の章の言葉を受けているのですが、どんな言葉だったでしょうか。3章の30節と31節を振り返って見ましょう。
ロマ 3:30 実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。
ロマ 3:31 それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。
パウロは、ここで、神様が割礼のある者も割礼の無い者も信仰によって義としてくださるのだということを言い、それではその信仰は律法を無にするのかという問いかけをしました。そして、決してそうではないむしろ、律法を確立するのだと言ったのです。そしてそれに続くこの4章は、その事を立証する為の説明となってくるのです。信仰によって義とされるが、信仰は律法を無にするのではないということを立証する為に、パウロはアブラハムを引き合いに出したのです。これは今の私達にとっても大切な事です。アブラハムはユダヤ人なら誰でもよく知っている、ユダヤ人の父であり、誰もが模範とし尊敬すべき人でした。ですからアブラハムはこうしていると言えば、ユダヤ人はそれに習うのです。
ですがここで、パウロは何を引き出そうとしているのでしょうか、普通に考えれば、アブラハムは割礼を始めた人であり、律法の初めとさえ思われる人です。ここでパウロが問題にしているのは、果たして、アブラハムは律法によって、行いによって義とされたかと言う事です。アブラハムはモーセの律法の与えられる数百年前に生きていた人ですから、その律法を守れるはずが無いのです。それで、パウロはこう言いました。2節3節です。
ロマ 4:2 もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。
ロマ 4:3 聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。
パウロは旧約聖書を根拠に、アブラハムは行いによって義とされたのではなく、神様を信じたことによって義とされたと言ったのです。これは旧約聖書に対する新しい視点です。パウロはダビデをも引き合いに出して、その事を論証しようとしました。ダビデもまた、国民から愛され、尊敬され、その教えにユダヤ人は心を開いていたからです。6節から8節でこう言っています。
ロマ 4:6 同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。
ロマ 4:7 「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、/幸いである。
ロマ 4:8 主から罪があると見なされない人は、/幸いである。」
ここでは律法の罪を犯さない人、その行いができる人を幸いであるといっているのではなく、例えそのような立派な行いが出来なくとも、信仰によって、その罪が許され、主から罪があると見なされない人は幸いであると言ってたたえているのです。それは行いによってではなく、神様から義とされた人々の幸いなのです。そして9節では、
ロマ 4:9 では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。
パウロは、この幸いは、割礼を受けたものだけに与えられるのだろうかと問い掛けます。パウロはその幸いを割礼の問題と関連させて、この問題を展開させます。割礼を受けたものだけが幸いを与えられるのか、割礼の無いものにも与えられるのかと言う事です。ユダヤ人からすると割礼の無いものはユダヤ人ではなく、神の恩恵にも預かれないと言うのが鉄則でした。それならば、アブラハムはどうだったのかと言うのがパウロの論旨の展開なのです。パウロはこのように続けました。10節から12節です。アブラハムが義と認められたのはどのようにしてか、という事の答えです。10節からですが、
ロマ 4:10 どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。
ロマ 4:11 アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。
ロマ 4:12 更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。
パウロは、アブラハムが義とされたのは割礼を受けた為ではなく、割礼を受ける前に既に義と認められたのだといいます。それは、アブラハムが割礼のあるものの父となっただけではなく、割礼を受けていない人々の父でもあると言う事ではないのか、割礼以前に持っていた、アブラハムの信仰に従うようにと言う事ではないのかと言うのです。私達はこのことによって、アブラハムの子孫となりました。これは、肉体的な子孫ではなく、霊的な子孫、信仰的な子孫となったのです。そのことをもたらすのは割礼ではなく、信仰なのです。神様への唯一の道は、神様の御言葉を聞いて神様を受け入れる信仰、人間の行いや業績によってではなく、神様の恵みにすべてを委ねる信仰によるのであると、パウロは信仰の原則を規定したのです。前回の話で、律法を守ることによって救われるのではなく、律法を守るのは救われた事の証として行うのだと話しましたが、同じように、割礼を受ける事によってユダヤ人であることが証明されるのではなく、信仰によって義とされた証としてアブラハムは割礼を受けたのです。即ち、証であったはずの律法遵守や割礼を受ける事が、いつの間にか救いへの手段、と変わっていってしまったのです。それがユダヤ人の間違いなのです。
転
パウロは更に、世界を受け継ぐものは誰かと言います。アブラハムは神様からその子孫が世界を受け継ぐ事を約束されましたが、その子孫とは誰なのかと言う事です。13節と14節です。
ロマ 4:13 神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。
ロマ 4:14 律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。
それまでのユダヤ人の考え方は、アブラハムの子孫として世界を受け継ぐものは、割礼を受けたユダヤ人であるというのが、何よりも動かしがたい律法だったのです。それをパウロは、アブラハムの約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされた、と言い切りました。そして、律法によってしか世界を受け継げないのならば、信仰は無意味になってしまうではないか。それは神様から信仰によって義とされた約束が廃止された事になってしまうではないかと言ったのです。だからアブラハムの子孫として世界を受け継ぐものは、信仰によって義とされた者であるということなのです。ここでは、アブラハムの子孫と言う意味が肉体的なものではなく、霊的な意味に昇華しているのです。アブラハムの子孫とは、神の約束を信じる信仰を持つものすべてであると言う事なのです。そして更にこう言いました。15節と16節です。
ロマ 4:15 実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。
ロマ 4:16 従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。
ここで言われる事は、律法は怒りを招くものとなり、信仰は恵みと祝福をもたらすと言う事です。そしてアブラハムの信仰に従うものは、アブラハムと同様に、確実に約束に預かれるのだから、アブラハムは私達信仰者すべての父なのだと言っているのです。それではアブラハムの信仰とはどういうものなのか、それをパウロは実例を上げて説明します。18節から22節です。
ロマ 4:18 彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。
ロマ 4:19 そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。
ロマ 4:20 彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。
ロマ 4:21 神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。
ロマ 4:22 だからまた、それが彼の義と認められたわけです。
アブラハムの信仰とは、希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じ続ける信仰なのです。人の目には不可能だ、ありえないと思われる状況の中でも、神様の約束を信じ続ける信仰なのです。アブラハムはおよそ百歳になっており、妻のサラも年老いて、人間の目からは子供を宿すのは不可能だと思われる状況の中にあっても、神様が約束された、「あなたの子孫はこのようになる」と言った約束を信じて、多くの民の父となったのです。これがアブラハムの信仰です。それを神様は義と認めたのです。アブラハムは、神様は約束した事は必ず実現させるかただと確信することの出来る信仰を持っていたのです。
パウロは、このようなアブラハムの信仰を、自分達にとってはそれは何を意味するのかと捕らえなおしてこう言いました。23節から25節です。
ロマ 4:23 しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、
ロマ 4:24 わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。
ロマ 4:25 イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。
パウロは、このアブラハムのありえないと思われる状況の中でも、神様の約束を信じ続ける信仰を、イエス様の復活と結びつけて説明しているのです。イエス様の復活もまた、それを目撃した人でなければありえない話なのです。私達信仰者の中にでも、それはありえない、信じがたいと思っている人はたくさんいると思うのです。ですがそのありえないことを、神様は約束し、そして実現したのだと信じる信仰を持ち続けるならば、私達もアブラハムと同じように義とされるのだといいます。そして、アブラハムがその信仰によって、多くの子孫が与えられたように、私達もイエス様の復活を信じる信仰によって、義とされるために、イエス様は復活させられたのだと言うのです。イエス様の復活が無ければ、私達の信仰は義とされる事はなく、空しいものとなってしまうのです。私達の信仰は、神様の何の約束を信じる信仰になっているでしょうか。パウロはそれを、イエスキリストの復活を信じる信仰であると言っているのです。
結
今の私達にとって、律法も割礼もそれほど身近な問題ではなくなっています。ですから、なぜパウロがこれほどまでに律法と割礼を取り上げて繰り返し説得しようとしているのかが分からなくなります。ですがこれは当時は重大問題で、信仰の根幹に関わる問題だったのです。今の私達には、これは行いによるのか信仰によるのかと言う問題となってきます。そしてその信仰とは、何を信じる信仰なのかと言う問題になるのです。律法の世界と思われた旧約の世界が、パウロの説き明かしによって、アブラハムの時代から、それは信仰の世界だと言う事が知らされました。旧約と新約は信仰義認と言う事で、一体化したのです。アブラハムが信仰によって義とされたように、今の私達もイエスキリストの復活を信じる信仰によって義とされるのであると、パウロは言っているのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。今日は、アブラハムの信仰を通して、信仰義認の問題を聞くことが出来ました。信仰とは望み得ないときにもその約束を信じ続ける信仰です。わたしたちはそれをパウロの口を通して、アブラハムの信仰から学びました。どうか私達も世界を受け継ぐものとして、アブラハムの子孫として、イエスキリストの復活を信じる信仰の上に立ち、歩んでいく事ができますように。
私達が信じる信仰によって、皆アブラハムの子孫とされたのですから、小さな違いやこだわりを捨てて、一つのものとされていくことが出来ますように。行いや、形式の違いに捉われることなく、ただ信仰のみによって兄弟姉妹として歩んでいくことが出来ますように。どうか世のクリスチャンにあなたの聖霊が豊かに与えられますように、生き生きと信仰を生きることが出来ますように。あなたに義とされ喜ばれる事を行っていくことが出来ますように。
(今日はYさんが、遠くから来られて参加されたことに感謝いたします。遠くからでも私達のことを思い祈ってくださっておられることに感謝いたします。あなたがこのことを導いてくださり祝福してくださっていますことに感謝いたします。どうかYさんの信仰生活がこれからも祝福されたものでありますように。)
この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:ローマの信徒への手紙)>>
◆アブラハムの模範
ロマ 4:1 では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。
ロマ 4:2 もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。
ロマ 4:3 聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。
ロマ 4:4 ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。
ロマ 4:5 しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。
ロマ 4:6 同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。
ロマ 4:7 「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、/幸いである。
ロマ 4:8 主から罪があると見なされない人は、/幸いである。」
ロマ 4:9 では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。
ロマ 4:10 どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。
ロマ 4:11 アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。
ロマ 4:12 更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。
◆信仰によって実現される約束
ロマ 4:13 神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。
ロマ 4:14 律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。
ロマ 4:15 実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。
ロマ 4:16 従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。
ロマ 4:17 「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。
ロマ 4:18 彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。
ロマ 4:19 そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。
ロマ 4:20 彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。
ロマ 4:21 神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。
ロマ 4:22 だからまた、それが彼の義と認められたわけです。
ロマ 4:23 しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、
ロマ 4:24 わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。
ロマ 4:25 イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。