家庭礼拝 2012年10月24日 ローマ3章21−31 信仰による義
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起
今日の聖書の箇所は、読む人によっては、聖書中の聖書、福音中の福音とさえ言われる箇所です。新約聖書のそして福音書中の大切なことが凝縮して語られている箇所です。特に21節から26節がその頂点に達するところです。宗教改革者ルターがこのローマ書を新約聖書の中でも特に大切な書簡と言った理由が明らかになる箇所です。ルターが、「キリスト者がこれを一言一句暗記するどころではなく、魂の日毎の糧として日常これに親しむに足りるだけの品位と価値を備えている、」と言っている事にふさわしい箇所です。自分自身、この箇所をそのような意識で読んだ事はあまりなかったのですが、今回、改めて、この箇所を意識して読むことができる幸いを喜ぶものです。
先週までは、いかにユダヤ人と異邦人が罪においては同じなのかと言うことを説明する事に、パウロの力点がおかれていました。これは、ユダヤ人の意識が、自分達が神様によって選ばれた特権階級であるような意識から、どうしても抜け切れない為に、ユダヤ人が言い出すかもしれない、いろいろな反論を想定して、パウロはそれに答えて行ったのです。そして、最後には、律法と割礼が大切であると考えているユダヤ人に対して、20節で、「なぜなら、律法を実行することによっては誰一人神の前で義とされないからです。律法によっては罪の自覚しか生じないのです」と言い切ったのです。これは大変なことを言ったのです。なぜなら、ユダヤ人たちの救いの道は、律法を守ることによって、救われると考えていたからです。それが、律法を実行する事によっては誰一人神の前で義とされない、即ち誰一人救われないと言ったのですから、まったく反対の結論になるわけです。救いどころか、罪の自覚しか生じ無いとは一体どういうことなのか。それならば、どうすれば救われるのか、と言う事が今日の聖書の箇所の中核となります。その為に、この箇所が、福音中の福音と言われるところです。キリスト教がユダヤ教ときっぱりと袂を分かつ箇所なのです。ですから私達一般の信徒としても、ここの箇所をないがしろにすることなく、しっかりと学んでいく必要があります。
今日のこの箇所は、一言で言えば、信仰義認と言う事です。ユダヤ人たちが律法を行うことによって義とされる、と考えたのに対して、パウロは信じることによって義とされるとしたのです。それは神様からの一方的な恵みであるとしたのです。ユダヤ人たちの律法を行う事は、自分の力によってでしたが、信じることによって義とされるのは、自分の力ではなく、神様の恵みであるとしたのです。宗教改革者ルターは、これを更に強めて、「信仰のみ」と言っているのです。この信仰の恵みと救いを今日の聖書の箇所から学んでみたいと思います。
承
3章21節は「ところが今や、」と言う言葉で始まります。この言葉は、もう古い時代は代わった、世界は変わった。新しい時代が始まったと言う、新しい時代の到来を示す言葉なのです。21節です。
ロマ 3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
ここで、「ところが今や、」に続く言葉は「律法とは関係なく、」とあります。この新しい時代は律法とは関係なくなったのです。今までは律法が救いの標準であったのですが、もうその標準ではなくなったと言う事なのです。しかもその事は、律法と預言者即ち、旧約聖書に立証されていることであって、そこには、神の義、即ち神の正しさが証明されていることなのだと言うのです。それはどんな神の義なのでしょうか。誰がそんな、神様の標準をひっくり返して、新しい標準を作れると言うのでしょうか。確かに、従来の信仰を信じるユダヤ人にとってはとても受け入れがたい話だったのだと思います。パウロはどんな神の義が示されたのかを22節で語ります。
ロマ 3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
その神の義とは、イエス・キリストを信じることにより、信じるものすべてに与えられる神の義だというのです。ここに、神の義は、旧約の律法を守ることによって与えられるものから、新約のイエス・キリストを信じることによって与えられるものへと変わったのです。律法においてはユダヤ人が選ばれた民として、優先されているように考えられていましたが、この、信じるものすべてに与えられる神の義では、ユダヤ人も異邦人も何の差別も無くなったのです。これは、大きな変化、大きな飛躍となりました。この信仰はこの言葉で、ユダヤ人だけのものではなく、世界中の人々へと開かれていったのです。
ユダヤ人が選ばれた民族として神の下にあったはずなのに、ユダヤ人も異邦人も何の差別もなくなったと言うのはどういうことなのかをパウロはまた語ります。23節24節です。
ロマ 3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
ロマ 3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
人は皆罪を犯していると言われます。その結果として、神の栄光を受けられなくなったとパウロは言います。私達は罪と言うと、反射的に是非善悪の悪であると思ってしまいます。罪は悪いものと一義的に考えてしまいますが、もともとは罪とは、的をはずすと言う意味なのです。それが良いとか悪いとか言う前に問題なのは的をはずすことなのです。神様がここを目指しなさいと言っているのに、違うところを目指していることです。神様の与えてくれた的とは何でしょうか。それは神様自身ではないでしょうか。ユダヤ人たちには律法が与えられ、神様に向かう道が与えられましたが、それを守る事が出来ませんでした。異邦人達は、その道を知ることなく、神様に向かうことができませんでした。その結果人は皆罪を犯して、神様の栄光を受けられなくなりました。栄光を受けられないどころか、神様は正しい人ですから、罪の下にある人々を裁かなければなりません。もし神様が、罪ある人々を何の理由も無く許したとすれば、それは、神様が正義ではなくなることなのです。罪ある人々を許すためには、それなりのはっきりした理由がなければなりません。そうでないと不公平になります。その罪ある人々を許す理由というのは、キリスト・イエスによる贖いの業によって許されると言う事です。もともと贖うというのは奴隷にあるものを買い戻すと言う意味だそうですが、罪の奴隷となっているわたしたちを買い戻して、罪の無いものにするために、イエス・キリストによる贖いが必要だったのです。それは賠償金を払って、無罪にしてもらうようなものです。その賠償金は自分では払うことが出来ず、神様の恵みによって支払われ、贖われたのです。その結果、私たちは自分達では何もしないで義とされたのです。罪の無いものと認定されたのです。
イエス・キリストの贖いのわざとは一体何のことなのかを、パウロは更に説明します。
ロマ 3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
パウロは、イエス・キリストの贖いの業とは、神様がキリストを、罪を償う供え物とされたことだと言います。それはキリストが信じるもののために罪を贖う供え物として血を流すことだと言うのです。人間はアダムとして世に現れてから、ずっと、罪を犯し続けてきたのです。それは滅ぼされるに等しい罪を犯してきたのです。それなのに神様は人間を滅ぼさずに、忍耐を持って見逃してきたのです。ノアの時代もすべてを滅ぼしはしませんでした。アブラハム、イサク、ヤコブの時代も滅ぼされませんでした。モーセの時代も滅ぼされず、エジプトから逃げ、荒野で生き延びました。ですが、滅ぼされる寸前まで行って、神様は憐れみによって見逃してくださっていたのです。ですがそれでは神様の義が成立しないのです。罪あるものは裁くのが正しい神様だからです。ところが神様は、罪あるものを裁かずに、買い戻したのです。その代価を払って買い戻して、神の義をお示しになったのです。神様が自分勝手に罪あるものを見逃したのではなく、神様自身が代価を払って見逃したのです。その代価が、罪を贖う供え物としてのイエス様なのです。26節ではこういっています。
ロマ 3:26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
神様は、罪あるものを見逃していたのではなく、忍耐してこられたと言うのです。ですがいつまでも見逃す事は、神様が正しい方ではないと言う事になるので、ご自分が正しい方であることを明らかにするために、御自分の義を示されたと言うのです。そのご自分の義と言うのは、正当な代価を払って、罪あるものを買い戻すと言う事です。そして、その罪を償うイエス様を信じるものを義とし、救うことだったのです。
転
さて、パウロは、このような神学的な義の問題、神の義と信じる者の義を取り扱った後で、突然人の誇りについて語りだします。27節です。
ロマ 3:27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。
なぜパウロはここで、突然人の誇りのことを言うのでしょうか。それは神の義の問題に次ぐ大切な事として、人の誇りの問題を取り上げているのです。それは人の誇りは、神様にではなく、自分自身を誇る事に向けられているからです。これこそ、的外れな間違った誇りです。それは神様に向かう道ではないのです。ですから、パウロは人を罪へと導く、その人の誇りはどうなってしまったのかと言ったのです。そして、それは取り除かれたと言いました。ユダヤ人達は律法を行うことによって不十分であっても自分はあの人よりもましだと自分を誇っていたのです。行いの法則に基づいて誇っていたのです。だから自分は救われるべきだと、神様に要求していたのです。誇りは自分が行っていると言う意識と密接につながっているのです。ところがその人の誇りは取り除かれたと言いました。それは行いの法則によってではなく信仰の法則によって取り除かれたと言うのです。その理由を28節でこう言いました。
ロマ 3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による、と新しい原則が打ち立てられました。それと同時に人の誇りも取り除かれたのです。それは罪人の誇りが取り除かれたと言う意味です。神様に向かわずに、自分自身を誇ろうとする誇りが取り除かれたのです。もう行いは関係がなくなったからです。
パウロはこのことを前提にして、また前の議論に戻ります。29節と30節です。
ロマ 3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。
ロマ 3:30 実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。
ここで、それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうかと言っているのは、人が義とされるのは律法の行いによると思っているユダヤ人からの反論を想定しているのです。律法の行いによって義とされるのならば、それはユダヤ人だけの神様であり、信仰によって義とされるのならば、異邦人にとっても神様を受け入れることが出来るのです。だから、パウロは、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか、とその想定される反論に答えたのです。そして、神様はただ一人の神様であり、割礼のあるものにも無いものにもそれぞれその信仰によって義としてくださるのだと教えたのです。割礼のあるなしは関係が無くなり、信仰のあるなしだけが問題となるのです。これが新しい時代なのです。新しい教えなのです。
そこでもう一つの反論が想定されます。信仰によって義とされるのならば、もう律法は無意味なのかと言う反論です。ところがパウロはそうではないといいます。31節です。
ロマ 3:31 それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。
これは大切な事です。私達は信仰義認を教えられる事によって、律法を軽んじているところはないでしょうか。律法は過ぎ去った時代の長物であるとは思っていませんでしょうか。ですがパウロは決してそうではないと言います。むしろ、信仰が律法を確立するのだと言うのです。律法を確立しないような信仰は、本当の信仰ではないのです。見せかけの信仰なのです。なぜならば、信仰によって義とされ救われた人は、その喜びによって、神様が与えられた律法を義務としてではなく、喜びとしてそれを行うからなのです。これが本当の律法の確立なのです。律法を行う事は救われる為の手段としての行為ではなく、救われた事の証としての行為となるのです。ですから、この律法を軽んじることなく守っている事は、本当に救われた人だけが出来る行為なのです。信じる人だけに与えられた行為なのです。
結
新しい時代がやってきたのです。信じることによって義とされ救われる時代がやってきたのです。これは当時の信仰を求める人々にとって、どんなに大きな福音だったでしょうか。神様がユダヤ人の神様ではなく、すべての人の神様になったのです。それはイエス・キリストを信じることによって義とされる信仰によるものなのです。それは、イエス様を罪を償う供え物として捧げる事により、神の義が示され、信じるものが義とされたのです。神様と人間とがイエス様の贖いのわざによって和解させられたのです。これが新約の教えであり、福音なのです。
(一分間黙想)(お祈り)
神様、あなたがイエス様の贖いによって、私達を義とし救いへの道を与えてくださいました事を感謝いたします。私達は救われる事によって自分を誇るものではなく、あなたを誇るものとさせられました。律法を守るものではなく、喜んで律法を行うものとさせられました。それはただあなたを信じる信仰の道が与えられたからです。このことを賛美し御名をたたえます。信じると言う事が、どのようにして与えられ、どのようなものであるかを何度も繰り返し心に思うことが出来ますように。
私達の思いの中には、まだ自分を誇りたい、行いによって成果を挙げたいという欲望がうごめいています。それらは罪の影であり、完全に捨て去るべきものです。どうか私達の為に、その命を贖いとして捧げてくださったイエス様を見上げ、イエス様を信じて、心の奥底まで清められ、救われるものでありますように。そしてあなたの律法が成就され、世界があなたの御心に適ったものとなりますように。世界中が清められて平和でありますように。
この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:ローマの信徒への手紙)>>
◆信仰による義
ロマ 3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
ロマ 3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
ロマ 3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
ロマ 3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
ロマ 3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
ロマ 3:26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
ロマ 3:27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。
ロマ 3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
ロマ 3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。
ロマ 3:30 実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。
ロマ 3:31 それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。