家庭礼拝 2012年10月17日 ローマ3章1−20 正しいものは一人もいない

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日本を代表する哲学者の第一人、西田幾太郎は、彼の著書「哲学概論」でこう言っています。

「深い哲学は必ず一面に宗教的基盤を有し、真の宗教は必ず一方に哲学を要求するようになるのである。古来哲学と宗教と衝突したのは互いに相反するということを証明するよりも、余はむしろ一致の証明と見るのである。」

西田幾太郎は、真の宗教は、必ず一方に哲学を要求するといっています。そして哲学と宗教は相反するものではなく、むしろ一致するものであるといっているのです。そしてこうも言っているのです。

「こういうように考えてみると哲学も宗教もその目的においては同一となってくる。共に人心の究極統一にたっせんとする要求から起こるものである。哲学は認識の上においての究極統一であり、宗教は情意の上においての究極統一である」

西田は、哲学も宗教もその目的においては同じであるとしています。共に人心の究極統一の要求であるというのです。ですから、真の宗教となるには、単に信じればいいというだけではなく、哲学的側面も伴なって来るのかもしれません。

今学び始めたローマの信徒への手紙は、神学的な傾向の強い書簡です。これをどのように話をしたら良いか、私自身ちょっと迷うところです。なぜならば、この文脈は神学的、かつ、哲学的なところがあり、これをまともに取り扱うと、それまで話されてきた論理の展開を元に次の話の展開をしなければならなくなります。そうすると、過去にはなされたことを思い出しつつ今語られている事を理解してもらうのが多少困難になるからです。

ですから、このような箇所を語っている実際の牧師さんの説教を聴いてみると、このような論理を軸に話しを展開するのではなく、そこで語られているある重要なテーマを中心に話の展開、即ち説教をするということがなされているようです。例えば、今日の箇所ですと、「正しいものは一人もいない。」と言うテーマを中心に話をして、パウロが語ろうとしている論理の展開とは別に、テーマを中心とした興味深い話をすることが多いのです。そうすれば、今までの話の流れは分からなくても、その日の説教だけで完結するのです。

確かに、そうすれば、話は分かりやすく、興味を持てるかもしれませんが、パウロが語ろうとしている事からは離れてしまい、パウロが語った話を材料にして、新しい話を組み立てているだけになってしまう危険性もあるのです。

幸い、私達は何時も同じメンバーで継続して学んでいるので、聖書の箇所からテーマを一つ選んで話を聞くというよりも、パウロの言わんとするところが何であるのかを、その論理を追いながら聞いて行く事も出来ると思います。これには多少忍耐力が必要かもしれません。多少理解が難しくなるところが出てくるかもしれません。これは説教風というよりも、聖書研究風という形になるかもしれませんが、出来るだけ、パウロ書簡の文脈に沿って、話を理解して行く方針でこれからも進めたいと思います。

さて、今日の聖書の箇所は、どのような構成になっているのかを理解するのが大切です。それは質問と答え、質問と答えという繰り返しの流れになっているからです。その質問というのは、反対者が発するであろう質問を想定して、それに自ら答える形を取っているのです。例えばそこで語られている反対者の想定質問をかいつまんで列挙しててみると、

一つ目は、では、ユダヤ人の優れた点は何か

二つ目は、それはいったいどういうことか。神の誠実が無にされるとでもいうのですか。

三つ目は、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。

四つ目は、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。

五つ目は、わたしたちには優れた点があるのでしょうか。

このようなパウロ自らが想定した反論の質問に対して、パウロ自身が答えて行く形式で話が進められているのです。今日の最初の聖句、3章1節はこのような質問で始まります。

ロマ 3:1 では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。

これはどんな言葉を受けて、「では、ユダヤ人の優れた点は何か、割礼の利益は何か、」といっているのでしょうか。それは二章で、あなたは他人に教えながら、自分には教えないのですか、と非難した後で、内面がユダヤ人であるものこそユダヤ人であり、文字ではなく霊によって心に施された割礼こそ割礼なのです、と言うパウロの言葉を受けています。それは、外面的にはユダヤ人も異邦人も差別はない、内面こそが大切なのだ、と言うパウロの主張に対して、反論として、それでは、外面的なユダヤ人としては本当に何も優れた点はないのですか、割礼をしても本当に無意味なのですか、と言う反対者の問いを想定して質問しているのです。この議論は一体何の議論なのかを分かりやすくまとめて言うと、ユダヤ人も異邦人も罪においてなんら差別が無い、と言う考え方と、ユダヤ人は選ばれたのだから異邦人に勝っていると言う考え方の違いなのです。どこからこの考え方の違いが出てくるのでしょうか。パウロはユダヤ人の優れた点は、「彼らは神の言葉をゆだねられたのです。」と答えました。この点では、ユダヤ人もパウロも意見は一致しているのです。ですがその神の御言葉を委ねられたのが、特権なのか責任なのかと言う受け止め方が違ってきているのです。ユダヤ人達はユダヤ人が神様から選ばれ、神様のみ言葉を委ねられたのは、ユダヤ人の特権であり、だから、ユダヤ人達は例え罪を犯しても、神様から多く愛され、許されるのだ、と考えたのです。それに対してパウロの考え方は、ユダヤ人に神様のみ言葉が与えられたのは、ユダヤ人の優れた点ではあるが、それは特権においてではなく、使命と責任を果たすと言う意味において優れているのである、と言う事なのです。愛され、選ばれたものはそれだけ強くその使命と責任を果たす努めをも与えられていると、パウロは考えているのです。そして、パウロがユダヤ人を糾弾する理由は、ユダヤ人はその神の御言葉である、委ねられた使命と責任を果たしていない、という事だからなのです。同じような事が私達の信仰生活においても起こってはいないでしょうか。ある新興宗教では、ハルマゲドンと言う最終闘争段階で、自分達と同じ信仰を持つものだけが救われると考える特権意識を持っています。私達もまた、信仰を持っているものだけが救われる。教会生活を正しく守っているものだけがその救いに預かれる、と思っているところは無いでしょうか。そしてクリスチャン自分達は特別だと思って、どこかに安心しきっている思いがあるのではないでしょうか。ところがパウロは、正しいものは一人もいない、神の前に罪を犯すものはすべて等しく裁かれる。むしろ多く神の言葉をゆだねられたものはその責任の大きさから、大きな裁きさえ待っているのかもしれないと言う事を言っているのです。私達に神様の恵みが与えられ、御言葉の恵みが与えられているのは、信仰者の特権ではなく使命と責任を果たして行くという意識に変えて行く必要があるのではないでしょうか。

次の質問にうつりますが、これは分かりにくいのです。3節の質問です。

ロマ 3:3 それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。

この反論が導かれる筋道が分かりにくいのですが、これは、パウロが、ユダヤ人の優れた点は、神様の御言葉が委ねられている事ですといっている一方で、ユダヤ人も異邦人も何の差別も無いと言っているのは一体どういうことなのかということです。ユダヤ人は選ばれて神様の御言葉を委ねられた民族とされたのに、そのように正しい者にならなかったから、神様はユダヤ人に対し誠実ではなくなったのですか。ユダヤ人も異邦人も同じとされるのは、ユダヤ人に不誠実なものがいるために、神様は約束された事を破棄されたのですか、優れた点はなくなったのですか、という事なのです。

それに対してパウロは、4節でこう答えるのです。

ロマ 3:4 決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。

パウロは、不誠実なものが一部の人々どころか、すべてが偽り者であったとしても、神様は真実な方であり、約束は守られると言ったのです。すべてのものが不真実であり、偽り者であって、神はいない、神は不真実だといったとしても神様は真実な方であるとすべきであるといったのです。しかしこれに対して、とんでもない論法で反論してくる人をも、パウロは想定しているのです。5節です。

ロマ 3:5 しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。

ロマ 3:6 決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。

これは、私達が罪を犯すことによって、神様が真実である事がわかるならば、私達の罪のおかげで、神様が真実となったのだから、それはいい事ではないか。なぜその罪が誉められずに裁かれるのか、といった屁理屈とも言える論法なのです。そのような屁理屈に対して、神様が怒ったとしても神様は正しくないのですか。それが正しくないというならば、神様は世を正しく裁く事が出来なくなるのではないですか、と言っています。パウロはこの屁理屈の話を更に発展させて、このように言っています。7節と8節です。

ロマ 3:7 またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。

ロマ 3:8 それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。

  パウロはこういう反論の想定をしたのです。私が偽りを犯し、罪を犯すことによって、神様が真実である事がいっそう明らかにされて、神様の栄光が表されるならば、わたしは神様に対してよいことをしているのではないか。どうして罪びととして裁かれなければならないのですかと言う主張が出てくると言うのです。もしそれが正しければ、「善が生じるために悪をしよう」と言う事になってしまうのではないですか。更に私達がそのように言いふらしているとさえ言う人々がいるけれども、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。神様の真実を捻じ曲げようとしているのです。と、パウロは言うのです。ある人々は、パウロが伝えている、律法を守る事によってではなく、神の恵みと信仰によって救われる、罪びとであっても救われると言う事を、パウロたちは「善が生じるために悪をしよう」と教えていると言う人々さえいたのです。パウロは、このような人とはもう議論の余地が無い。こういうものたちは罰を受けるべきであると断罪したのです。

パウロはこのように、屁理屈とも言える議論に反論した後で、また最初の1節の質問に戻るのです。そして再びこういいます。

ロマ 3:9 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。

 最初の議論に戻って、私達には優れた点があるのでしょうかという質問に対して、今度は全くありません、と断言します。そして既に指摘したように、ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の下にあるのですと答えたのです。先ほどの議論の中では、ユダヤ人の優れた点は、「彼らは神の言葉をゆだねられたこと。」と答えたのですが、今度は優れた点が全くありませんと答えています。それは外面的なことと内面的なことの違いなのです。罪と言う内面的なことに関しては、ユダヤ人に優れた点は全く無い、ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の元にあるのですといっているのです。ユダヤ人は、神の御言葉をゆだねられていることにおいて優れていたとしても、神の御前に正しいことを行っているかどうかと言う点に関しては、異邦人と全く同じであると言う事をいっているのです。そこを勘違いしてはいけないと言っているのです。

そして人間がどのように罪を犯しているのかを、詩篇14編を引用してその罪を具体的に示していると言われています。これは詩篇14編そのものではなく、言わんとしている事をパウロが言い換えたのではないかと思います。まず、10節から12節です。

ロマ 3:10 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。

ロマ 3:11 悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。

ロマ 3:12 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。

 パウロは、ユダヤ人たちが異邦人に比べて優れたところが全く無い根拠を、詩篇から引用して説得しようとしています。そこには正しいものはいない。一人もいない。とか、善を行うものはいない。ただの一人もいないと書かれています。当然そこにはユダヤ人も含まれており、ユダヤ人にも正しいものは一人もいない、善を行うものも一人もいないと言っているのです。だから、聖書においても、ユダヤ人が優れているなどとはいえないと言うのです。それどころか、次のような醜く、罪深いものであるとさえ言っています。13節から18節です。

ロマ 3:13 彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。

ロマ 3:14 口は、呪いと苦味で満ち、

ロマ 3:15 足は血を流すのに速く、

ロマ 3:16 その道には破壊と悲惨がある。

ロマ 3:17 彼らは平和の道を知らない。

ロマ 3:18 彼らの目には神への畏れがない。

自分達は正しい、優れていると思っている人たちに、いやあなたは正しくない、むしろ醜く罪深いといったらどうなるでしょうか。それでも、少しくらいはいいところがあるのではないかと、反論するでしょうか。それともとんでもなく怒り出すでしょうか。それともその罪を犯すものは一部の人たちであって、他の人たちは善良だと言うでしょうか。また、それが私達であったらどうでしょうか。

パウロは、ユダヤ人たちが、この詩篇の引用は、ユダヤ人に対してではなく異邦人に対して言っているのではないのか。または、一部の罪を犯したユダヤ人に対して言っているのではないのかとの反論を想定しています。それに対して、こう言いました。19節と20節です。

ロマ 3:19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。

ロマ 3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

  律法即ち、聖書の語るところは、異邦人に対してではなく、律法の元にいる人々、即ちユダヤ人全体に対して語られているのですと言いました。決して他人事ではありませんと言ったのです。律法に照らせば、全ての人は罪を犯しているので、反論する事ができず、口を塞がれて、皆、神の裁きに服さなければならないのです、と言っているのです。だから正しいものは一人も居らず、異邦人もユダヤ人もないのですと言っているのです。そして最後に、律法を実行することによっては誰一人神の前で義とされない、と言いました。律法によっては罪の自覚しか生じないのですと言いました。律法を守ろう守ろうとしても惨めな思いになるだけです。律法は罪を意識させるだけで、救いを与えるのは別なのです。救いは恵みによって与えられます。その救いについては次回に語られています。次回はそれを聞いてみたいと思います。

 パウロは、ユダヤ人が特別優れていることはないのだ。異邦人と同じように、神の前の裁きをまぬかれないのだ。正しいものは一人もいないのだ。と言う為にこれだけの、反論を想定して、語り掛けました。自分は正しいと思っている人に、いやあなたは罪深いのですよ。何も正しいことはないのですよと教えるのがいかに困難であるかを思わされます。それは私達にあっても同じです。いくら自分達が間違っているのだ、と言う教えを聞いても、それを本当に自分のこととしては聞いていないのです。他人事としてしか聞いていないのです。それは、その事を認めた場合、どのようにして自分が救われるのかがまだ、分からないからなのです。もし自分が救われる道が分かっているならば、何も恐れずに、自分の罪を告白し、救いの道に委ねる事ができるでしょう。私達もまた、そうでありたいと願っています。私達には救いの道、イエス・キリストの道が与えられているからです。

 

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様。今日の聖書の箇所は、難解なところがあり、なかなか簡単には飲み込めないところがありましたが、あなたが教えてくださり、導いてくださったことを感謝いたします。わたしたちは皆、あなたの戒めを守る事のできない罪びとです。いくらあなたの教えを与えられても、一つとして完全に出来る事はありません。それなのに、自分は正しい、あの人よりはましだと思っている愚かな存在です。あなたは正しいものは独りもいないと教えられました。パウロはその事を教えるのに大変苦労して、説得しようとしています。特にユダヤ人の選民意識から抜け出させる為に、いろいろな反論に答えようとしています。ですが神様、私達にあなたの救いの恵みが与えられている事を知るならば、あなたの裁きをも、受け入れられるでしょう。どうかあなたの裁きに身をゆだねて、憐れみによって、救いへと移されるものでありますように。自分の正しさに固執するものでありませんように。 

世界の情勢も、自分の正しさに固執する事により、いろいろな衝突を引き起こしております。神様、どうか人も、国々も、自分の正しさに固執することなく、あなたの裁きのみ前で、謙遜な者となり、互いに受け入れて行くものとなることが出来ますように導いてください。どうか友好と平和が与えられますように。

今日は、Oさん夫婦から連絡があり信仰の交わりが与えられました事を感謝いたします。あなたが何時も私達を見守ってくださっている事を覚えます。どうか、あなたがOさんSさんに祝福を与えてくださいますように。この信仰の交わりが、あなたによって祝されますように。

この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


<<聖書の箇所(新約聖書:ローマの信徒への手紙)>>

 

ロマ 3:1 では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。

ロマ 3:2 それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。

ロマ 3:3 それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。

ロマ 3:4 決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。

ロマ 3:5 しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。

ロマ 3:6 決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。

ロマ 3:7 またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。

ロマ 3:8 それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。

◆正しい者は一人もいない

ロマ 3:9 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。

ロマ 3:10 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。

ロマ 3:11 悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。

ロマ 3:12 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。

ロマ 3:13 彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。

ロマ 3:14 口は、呪いと苦味で満ち、

ロマ 3:15 足は血を流すのに速く、

ロマ 3:16 その道には破壊と悲惨がある。

ロマ 3:17 彼らは平和の道を知らない。

ロマ 3:18 彼らの目には神への畏れがない。」

ロマ 3:19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。

ロマ 3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。