家庭礼拝 2012年10月10日 ローマ2章1−29 神の正しい裁き
賛美歌210 来る朝ごとに聖書朗読 祈り 奨励説教 一分黙想 全員祈り 主の祈り 賛美歌394 信仰受け継ぎ
起
今週はK教会で、M牧師の説教を聴く恵みが与えられました。その説教の箇所は、まさに今日のローマ二章でありました。私も長い間、CSの説教を含めて、このようなお話をするとき、他の牧師さんたちの話した箇所とすぐにダブル事は一度もありませんでしたので、少し驚いています。M牧師の説教は興味深く聞くことが出来、特に、最初に話された「私は説教で嘘をつかないことにしています。それは、自分が出来ない事は言わないということです。」と言う言葉が印象的でした。説教の中心は、裁きと言う言葉におかれており、「神に代わって人を裁こうとしている人、それはあなただ。外面ではなく、内面の真実こそが大切である」ということを言っていたと思います。私はこの説教を聴いてすぐ同じ箇所の奨励になるので、その準備にどのように影響があるのかを自分でも興味を持って観察していましたが、その心配は全くありませんでした。神様は、私には私にふさわしい御言葉を与えてくださるようです。私は聖書を読み、自分が受けたものをここに語ることができる事を喜んでいます。
実は今日の箇所を読んでいてとても不思議な気持ちになりました。パウロのこの手紙は、ローマのまだ見知らぬ人々に書いた手紙のはずですが、それよりも、ローマにいる、良く知っているユダヤ人達に書いた手紙と受け取れるからです。このユダヤ人たちの問題を指摘して、むしろ糾弾しているのです。それは、激しいもので、あなたは、とか、あなたがたはと言ってその問題を突きつけていて、その激しさには遠慮がないのです。なぜこんなにも激しく、糾弾するのでしょうか。そこにはユダヤ人たちの誤った考え方があったからです。その考え方と言うのは、ユダヤ教では正しいのかもしれませんが、キリスト教徒になるためには乗り越えなければならない重要な問題なのです。
パウロのこのような手紙を読むときには、受取人の相手がどんな立場や状況の人々なのかをはっきりと掴んでおく必要があります。そうしないと、何に対して主張しているのかが分からなくなります。まず、パウロが糾弾しているのは、ローマにいる異邦人ではありません。ローマにいるユダヤ人なのです。このユダヤ人たちは、自分たちは選ばれた民である事を誇り、何時も上から目線で、異邦人達に接していたのです。ユダヤ人たちは昔から、世界の嫌われ者でしたが、その一番の原因はこの上から目線と、自分たち以外を軽蔑する傲慢な姿勢なのです。このユダヤ人たちは、自分たちには本当の神様がおり、私達を選んでくださり、律法を与えてくださった。この神様と律法は何よりも素晴らしいものであり、選ばれた自分たちも素晴らしい民族なのだと言う誇りを持っていたのです。この神様は自分たちを選んでくださったので、多少の罪は目をつぶってくださるが、選ばれていない異邦人には厳しく裁きを行うと考えていました。そのような考え方で、異邦人に教え、導き、裁いていたのです。パウロの糾弾は、この特別意識、ユダヤ人は特別なのだと言う意識に対してなされているのです。そしてパウロは、「神様は、ユダヤ人にも異邦人にも分け隔てなく、導き、恵み、裁くのだ」と言っているのです。そして、ユダヤ人であるとか、割礼があるとか、律法が与えられているとかと言うような外面的なことではなく、これを実行する者のみが義とされるのだということを言っているのです。このようなアウトラインを確認しつつ、聖書の御言葉を順番に読み進んで行きたいと思います。
承
2章の1節は、「だから、すべて人を裁くものよ、」と言う呼びかけで始まっています。どんな言葉を受けていたのでしょうか。前の箇所では、1章28節で、彼等は神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼等はしてはならない事をするようになりました、と言って、いろいろな不徳のリストをあげてきました。ですから、この「だから、すべて人を裁くものよ、」と言う言葉には、「だから、神を認めようとしない者たちよ」とその本質を指し示しているのです。1節では、このように言っています。
ロマ 2:1 だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。
ユダヤ人たちは自分たちは特別だ正しいのだと思っているので、異邦人の事を裁いていたのです。ところがパウロは、人を裁くものは、自分では違うと思っているけれども、同じことをしているのだ。弁解の余地はないのだ、と言っています。他人を裁く事は自分を罪に定めているのだと言うのです。
続く、2節から4節はこのことを更に詳しく述べています。
ロマ 2:2 神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。
ロマ 2:3 このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。
ロマ 2:4 あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。
なぜユダヤ人は、他人を裁きながら、自分たちは特別だ大丈夫だと思っていたのでしょうか。それは自分たちが選ばれたユダヤ人であると思っていることと、そのような同じ罪を犯しても、神様は自分たちには罰を与えないではないか、何も起こらないではないか、神様は私達を許し、守ってくださっているのだと言う間違った思いがあったのです。パウロは、そのように思っている人たちに対して、「神様は、異邦人に対してと同じようにユダヤ人に対しても正しくお裁きになる。その神様の裁きを逃れられると思っているのか。今、あなた達は、何も罰が与えられていないではないかと思っているけれども、それは、神様が哀れんでくださって、あなたを悔い改めに導こうとしているのが分からないのか、その神様の慈愛と寛容と忍耐を軽んじるのか。」と言っているのです。悪い事をしても何も裁かれないのは、神様がそれを許してくださっているのではないのです。私達を悔い改めに導こうとして忍耐してくださっているのです。まだ裁きが下らない内に、神様の慈愛と寛容とを覚え、悔い改めて、御前に正しいものとなることが待たれているのです。私達は、そのように忍耐して待っていてくださる神様の事を覚えて、許しを願い、悔い改めて、感謝を捧げなければならないのではないでしょうか。それを無視し、軽んじてはいけないのです。25節に 「あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。」と言われています。間違った事をしても何も起こらないではないかと、安心して、心を改めようとしない者は、神の怒りを蓄えていると言っています。何も起こらないのではなく、神様の下では起っているのです。その怒りが怒りの日に現れるといっているのです。
パウロはここで、もう一つの原則を語ります。神様の怒りと報いの原則です。6節から11節です。
ロマ 2:6 神はおのおのの行いに従ってお報いになります。
ロマ 2:7 すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、
ロマ 2:8 反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。
ロマ 2:9 すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、
ロマ 2:10 すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。
ロマ 2:11 神は人を分け隔てなさいません。
ここで語られているのは、ほとんどの宗教で語られている、因果応報の原則です。神様はおのおのの行いに従って、お報いになります、と言う事です。ただ、ここで重点が置かれているのはその事よりも、この原則には、ユダヤ人も異邦人も神様は分け隔てなさらないと言う事を強調しているのです。ユダヤ人は選民意識のとても強い民族です。神様は私達の神様なのだから、自分たちには異邦人よりもよくしてくれるだろうという思いが強いのです。同じだと言ったら、暴動を起こすくらい騒ぎ出す話なのです。ですが、パウロは神様は分け隔てはなさらない、「すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、 すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。」と言うのです。これがユダヤ教とキリスト教の大きな違いです。キリスト教はユダヤ教の民族主義的垣根を越えたのです。ですが、これには大きな抵抗も問題もあってユダヤ人からは疎まれました。
パウロは次の課題に移ります。それは律法を知らないで罪を犯したものの裁きはどのようになるのだ、と言う事です。ユダヤ人たちは、自分たちは律法を知っているから、律法を知らないで罪を犯しているもの達よりはましであろうと思っているのです。だからその律法を教えてやろうと思っているのです。それに対してパウロはこう言いました。12節と13節です。
ロマ 2:12 律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。
ロマ 2:13 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。
パウロは、律法を知らないで罪を犯した異邦人達は、律法と関係なく滅びます。律法を知っているのに罪を犯した人は律法によって裁かれます、と言った後、律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされる、のだと言いました。これは今で言うと、教会に行っているからと言って正しいのではなく、神の御心を行うものが正しいのだ、と言うことをいったのです。 パウロの脳裏には、一体、裁かれるのは誰なのか、と言う事がかすめたのだと思います。なぜならば、この章全体が裁くものと裁かれるものと言う事がテーマになっているからです。即ち、律法を聞いて、その知識で人を裁くものがいるけれども、自分がそれを実行していなければ、あなたも裁かれますよ。実行するものだけが義とされるのですよ、と言う事をいおうとしているのです。これが、M牧師が、自分が実行できない事は語らないと言っていた事なのです。ですがこのことにはパウロ自身、補足説明が必要でした。それで14節と15節はその補足説明となり、文章的には13節から16節に直接つながるのです。その挿入句となっている補足説明はこうなっています。
ロマ 2:14 たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。
ロマ 2:15 こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。
パウロは、例え律法を知らない異邦人であっても、律法の要求する事柄がその心に記されているのだから、自分自身が律法なのだと言っています。だから、律法を知っているとか知らないとかいうことが大切なのではなく、その律法を実行するものが、義とされるのだということなのです。この言葉を聴いて皆さんは違和感はありませんでしょうか。私達プロテスタントの教えでは、行いが義とされるということには多少抵抗があります。なぜならば、ルターの信仰義認以来、信じることのほうが、行う事よりも何時も大切に考えられてきたからです。パウロの律法を実行するものが義とされるというのは、ルターの信じることによって義とされるということと矛盾するのではないでしょうか。私達もまた、信仰義認を強く思って、実行する事をそれほど大切にしていない傾向もあったのではないでしょうか。そこでこの考えをもう一度検証してみると、確かにルターの言うように、献金をしたり、奉仕をしたり、親切をしたりする行動のみによって義とされる事はないのです。神様に委ねる信仰のみが義とされるのです。ですがパウロの教えは、そのような正しい信仰を持つものが、神様の御心を実行せずに居られるだろうかと言う事なのです。正しい信仰を持つならば、愛し合いなさいと言われなくても愛し合うようになり、奉仕をしなさい、助けなさいと言われなくても喜んで奉仕をし、喜んで助けるものになるのではないかということなのです。即ちその信仰の正しさは、その行いによって知る事ができると言う事なのです。私達が、信仰を持っていると言っていながら、正しい行いが出来ていないとすれば、まだ信仰は持っていないのです。行いは信仰の実なのです。ですが、形だけの行いをまねるものに対しては、行いによって義とはされない、信仰のみが義とされるとなるのです、と言われるのです。ですから、私達はもう一度、私達の行いが、信仰の実としての行いになっているかどうかを確かめなくてはいけないのです。形だけでは義とされないのです。信仰義認が優先されるのです。
転
17節からは、パウロはもう何も隠すことなく、「あなたはユダヤ人と名乗り、」と語って、直接ユダヤ人に語りかけます。17節から最後の22節までは、今まで言ってきた事を、もっと直接的に具体的に言っているのです。このユダヤ人たちは、自分たちには本当の神様がおり、私達を選んでくださり、律法を与えてくださった。この神様と律法は何よりも素晴らしいものであり、選ばれた自分たちも素晴らしい民族なのだと言う誇りを持っていたのです。この神様は自分たちを選んでくださったので、多少の罪は目をつぶってくださるが、選ばれていない異邦人には厳しく裁きを行うと考えていました。そのような考え方で、異邦人に教え、導き、裁いていたのです。パウロはそのようなユダヤ人たちを皮肉ってこういうのです。21節から23節です。
ロマ 2:21 それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。
ロマ 2:22 「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。
ロマ 2:23 あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。
ユダヤ人たちはこのように、神様を知っており、律法を知っており、それを誇りとして、異邦人達に教えるのですが、自分達はそれが実行できていないのです。そうすれば当然、信徒の中から、あの人たちは口だけで、何も実行できない人たちなのだと言う不信感が生まれてきます。M牧師が、恐れたのもこのことであり、クリスチャンが嫌われるのもこのことなのです。偽善的と思われるのです。パウロが言っているこの指摘は、何もユダヤ人達にだけ言っているのではないのです。今では牧師に対して糾弾し、クリスチャンと称する人々に対しても糾弾しているのです。他人には教えながら、自分には教えないのですかと言われているのです。25節では、
ロマ 2:25 あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。
旧約での割礼は、新約では洗礼です。洗礼さえ受けていれば、クリスチャンの仲間に入れられており、救いに預かることができる、と思っているのが普通ではないでしょうか。ですが、パウロの言葉を翻訳すれば、「あなた方が受けた洗礼も、御言葉を守ればこそ意味があり、御言葉を破れば、それは洗礼を受けていないと同じです。」と言う意味になります。洗礼自身も、御言葉によって生きることに意味があり、それが出来なければ意味がないのです。かといって、行動だけを真似て、私は多くの献金をしています、奉仕をしています、祈りを捧げています、良い働きをしています、と言ってもいけないのです。そこでは信仰義認の問題が出てくるのです。本当の信仰から出た行動でなければ意味がないのです。即ち、外見上の問題ではなく、内面にある信仰の問題なのです。ですから、パウロはこう言いました。28節と29節です。
ロマ 2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。
ロマ 2:29 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。
パウロはユダヤ人たちの、誇りをすっかり打ち砕いたようです。外面ではなく、内面がユダヤ人であるものが本当のユダヤ人であり、肉に刻まれた割礼よりも、霊によって心に施された割礼こそが割礼なのであると言いました。今まで持っていた外面的誇りは否定されたのです。そして代わって、内面的な、信仰的な姿勢が、大切とされたのです。これこそが信仰義認です。
結
今日の聖書の箇所で、大切な事が二つありました。ひとつは、自分達はユダヤ人だから特別だ、許される、と言う事はなく、皆等しく裁かれると言う事です。これは私達が、私は洗礼を受け、クリスチャンになったのだから、きっと神様は私によいことをしてくれるだろうと考えているようなものです。ですがそこに特別な事はないのです。クリスチャンであろうと、クリスチャンでなかろうと、洗礼を受けていようと受けていまいと皆等しく裁かれるのです。その行いによって裁かれるのです。私達は、信仰者であるとか、信仰義認であるとかと言う言葉で、何か自分達を特別に思っていることはないでしょうか。あるとしたらそれはユダヤ人と同じような甘えではないでしょうか。信仰は実を結ぶ事が大切なのではないでしょうか。見掛けの行動ではなく、本当の信仰の実です。
もう一つは、外見上の問題よりも、内面すなわち信仰的なことが大切だと言う事です。形式的なことや儀式的なことをいくらやっても、本当にした事にはならない。内面がユダヤ人であるものが本当のユダヤ人なのだ、霊の割礼を受けたものが本当の信仰者なのだと言う事です。
ユダヤ人に限らず、私達も、外面的なことを装って、偽善者になってしまう危険を持っているものです。このことを注意して、M牧師は「私は説教で嘘をつかないことにしています。それは、自分が出来ない事は言わないということです。」という言葉になって現れてきました。私達もまた、注意していきたいものです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。私達は、信仰を教えられ、祈り、教会に行き、奉仕し、賛美をしていますが、外面的なことに捉われて、意味のない事をしていることがあるかもしれません。本当に大切なのは、あなたの信仰をしっかり実らせ、それを外面的ではなく、信仰によって行う事である事を教えられました。信仰者は皆、偽善的になる傾向をまぬかれません。皆あなたに良く思われたいのです。ですが神様、どうかそのような誘惑に陥ることなく、正直に誠実にあなたの御心を行っていくことができますように導いてください。私達が何か特別な存在であると思っているとしたら、どうかその仮面を取り除いてください。どうか誠実に真実に信仰の道を歩ませてください。
あなたの祝福がどうか世界中にありますように。すべての教会の上に導きがありますように。人々が不安を取り除かれ、平安に過ごす事ができますように。大きな喜びで満たされますように。
この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:ローマの信徒への手紙)>>
◆神の正しい裁き
ロマ 2:1 だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。
ロマ 2:2 神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。
ロマ 2:3 このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。
ロマ 2:4 あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。
ロマ 2:5 あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。
ロマ 2:6 神はおのおのの行いに従ってお報いになります。
ロマ 2:7 すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、
ロマ 2:8 反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。
ロマ 2:9 すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、
ロマ 2:10 すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。
ロマ 2:11 神は人を分け隔てなさいません。
ロマ 2:12 律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。
ロマ 2:13 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。
ロマ 2:14 たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。
ロマ 2:15 こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。
ロマ 2:16 そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。
◆ユダヤ人と律法
ロマ 2:17 ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、
ロマ 2:18 その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。
ロマ 2:19 また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。
ロマ 2:21 それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。
ロマ 2:22 「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。
ロマ 2:23 あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。
ロマ 2:24 「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。
ロマ 2:25 あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。
ロマ 2:26 だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。
ロマ 2:27 そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。
ロマ 2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。
ロマ 2:29 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。