家庭礼拝 2012年9月26日 ローマ1章1−17 挨拶

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今日からローマ人への手紙が始まります。今まで私自身はこのローマ人への手紙に余りなじみがありませんでした。何か小難しい理屈を言っているような書簡で、具体性が無く、親しみを感じなかったのです。ところがマルティン・ルターの「聖書への助言」と言う小冊子を読んで考えさせられました。これは宗教改革の中で、聖書を読もうとしている人たちに与えた聖書のガイドブックです。そこには驚く事にこう書いてあったのです。

「要するに、聖ヨハネの福音書と彼の第一の手紙、聖パウロの手紙、なかんずくローマ人、ガラテヤ人、エペソ人への手紙および聖ペテロの第一の手紙、これらの書は、たといあなたがかつてそのほかの書物や教えを見もせず聞きもしなかったとしても、あなたにキリストを示し、あなたにとって知る必要がある、しかも祝福をもたらすに足る全てを教えるのである。これらと比較すると聖ヤコブの手紙は全く藁の書である。これはなんら福音的な性質を備えていない。」またこの少し後では、

「聖パウロのローマ人に与えたこの手紙は新約聖書のうちでもまことの主要部をなし、もっとも純真な福音であって、キリスト者がこれを一言一句暗記するどころではなく、魂の日毎の糧として日常これに親しむに足りるだけの品位と価値を備えている。」と書いてありました。

私は、聖書は、どこも同じように大切なものであり付け加えても差し引いてもいけないと思っておりましたが、このルターの聖書への評価は衝撃的でした。共観福音書でさえなくともかまわないと言い、ヤコブの手紙は藁の書であると言い切り、簡単に言えばヨハネ福音書とパウロの手紙があれば十分であるとさえ言っている大胆さに驚かされたのです。特にロマ書は新約聖書のうちでまことの主要部をなし、最も純真な福音であると言っています。「一言一句暗記するどころではなく、魂の日ごとの糧として、毎日これに親しむ価値がある」と言っているのです。このようにロマ書を考えた事はありませんでした。それほど大切なものだと教えられた事もありませんでした。それで今回はルターの言っていることを信じて、そのような目でロマ書を読んでみたいと思いました。

ロマ書は他の書簡に比べて、神学的傾向の強い書簡です。他の書簡はほとんどがパウロ自身がその教会の成立に関係した、よく知っている教会に対してだったので、多くの知り合いが居り、その教会の実際的な問題もよく知っておりました。ですからその手紙も、神学的というよりも実際的問題の解決を与える為に書かれたものが多かったのです。ところが、ローマの教会はパウロが関係した教会ではありません。しかも誰も知り合いは居りません。その初対面の教会に対して、パウロは失礼の無いように慎重に言葉を運んで、自分の考えを述べているのです。当然実際的問題も、人との絡みもまだないので、そこで話される事は、神学的な信仰の話となってきたのです。そしてそれは、その頃広がり始めていた偽りの教えの悪影響からローマの教会を守りたいと言う、思いで書き記しているのです。そして、これこそが、パウロが信仰において一番話したかったことを凝縮して言っているのかもしれません。

イエス様の伝承は、イエス様が生きていたときに何をしたのかという伝記的な伝承、例えば共観福音書のような内容と、ヨハネ福音書やパウロの手紙のように、イエス様の復活に焦点を合わせ、復活後のイエス様が何をなさっているのかを伝えた伝承とがあったようです。ですから、パウロの手紙にはイエス様の生前の事はほとんど書かれておらず、復活のイエス様との出会いを中心に書かれているのです。この点、マルチン・ルターもまた生前のイエス様の行為よりも復活のイエス様の働きを重んじたようです。この点で、パウロと思いが一致しているのです。このようなことを思いつつ、この新しい聖書の箇所ローマ人への手紙を読み進めて行きたいと思います。

 

この手紙もまた、他のパウロの書簡と同じように挨拶から始まります。この形式は特にパウロだけではなく、この時代の一般的な形式だったようです。パウロはまず自己紹介をします。1節には、「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、」と紹介しています。パウロは、自分のことをイエスの僕であり、福音のために選び出され、召されて使徒となっている者と自覚しているのです。自分から使徒となったのではなく選び出され、召され、僕とされて使徒とされていると言う思いなのです。これはパウロの事を使徒ではないのに、自分で自分を使徒としていると批判している人々の事も念頭にあったかもしれません。自分の立場を明確にして、この手紙を書いたのです。私達もまた、福音のために選び出され、召されて信徒となったものです。自分からなっているわけではないのです。そこには僕として、福音の為に為すべき事もあるのです。自分の救いだけが信仰ではないのだと思います。

この手紙にはちょっといつもと違ったところがあります。普通は、召されて使徒となったパウロから、愛するローマの教会の人々へ、のように差出人の次に受取人のことを書くのですが、それがありません。どうしてでしょうか。そしてその受取人のことを書く前に、福音とは何かをいきなり語りだすのです。2節から4節です。

ロマ 1:2 この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、

ロマ 1:3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、

ロマ 1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。

 これは1節の「神の福音の為に選び出されたパウロ」と言う言葉を受けてその福音という言葉を説明しているのですが、その福音と言うものが何であるかをとても詳しく説明しているのです。まず福音とは、旧約聖書において預言者によって約束されている御子の事であると言っています。そしてその御子とはイエス・キリストの事であり、ダビデの子孫であり、復活された方ですといっているのです。この説明のときに肉によればと並んで、霊によればと言って、復活の事を説明しています。私達の感覚ですと復活もまた肉を含めて復活していると考えますが、パウロは、この復活を霊による事として説明しているのです。これは注意しておいたほうはよさそうです。パウロはこの自己紹介の間に福音と霊と復活について語っているのです。いきなり核心に入っているような気がします。それだけ、パウロが伝えようとしている福音と言う事の意味を、きちんと伝えたいと考えているのだと思います。

そしてパウロはその御子、すなわちイエス・キリストと自分との関係、そしてローマ教会の人々との関係をこのように言っているのです。5節6節です。

ロマ 1:5 わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。

ロマ 1:6 この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。――

すなわち、私はイエスキリストによって、異邦人への使徒とされました。あなたがたはイエスキリストによって、召されているのです。

と、イエスキリストとの関係を言っているのです。使徒となるものも、信徒となるものもそれぞれ自分からなるのではなく、イエス・キリストによって召されてなっていると言う事に、その大切な意味をしっかりと掴んでおきたいと思います。私達は召されて、イエスキリストのものとなるのです。それは恵みなのです。そしてその後、突然7節の言葉が出てきます。

ロマ 1:7 神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

この文章のつながりがどうなっているか分かるでしょうか。実は先ほどこの手紙には不思議な事に受取人が出てこないと言いましたが、この箇所が受取人の記述なのです。聖書には1節の最後と6節の最後に――という棒線マークが入っていますが、実はこれはその差出人と受取人の間に入っている挿入句を表しているのです。普通の手紙ですと1節から7節につながるところが、2節から6節までの挿入句が入っている為に分かりにくくなっています。このような一種の脱線はパウロの手紙には良く見られることです。1節の福音と言う言葉を説明しようとして、霊と復活とイエス・キリストまで語ってしまったのです。そしてそれが終わって、やっと受取人の「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。」という挨拶の言葉が出てきたのです。そしていつものように、挨拶として、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」と言う祝福の言葉が添えられたのです。パウロのこの手紙に掛ける情熱や勢いのようなものを感じさせられます。

 そしていよいよ本文に入りますが、パウロはまず感謝から入ります。8節です。

ロマ 1:8 まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。

  パウロはまず神様に感謝いたしました。それはイエス・キリストを通してなされました。感謝した内容は、あなた方の信仰が全世界に言い伝えられていると言う事でした。ローマの教会の信仰の素晴らしさが、全世界にまで言い伝えられていると言うのです。それを神様に感謝したと言うのです。パウロの素晴らしさは、例え私とあなたの一対一の関係を話す場合でも、必ずそこに私と神様の関係と神様とあなたの関係の事が話されるのです。単純に一対一にはならないのです。私とあなたの関係は、何時も神様の働きを通しての関係となるのです。ですから、パウロはローマ教会が素晴らしい信仰を持っていたとしても、ローマ教会を賛美するのではなくそれを与えてくださっている神様に感謝を捧げるのです。そして9節と10節ではその関係がさらに語られています。

ロマ 1:9 わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、

ロマ 1:10 何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。

ここでパウロは、自分が神様に仕え、神様に保証してもらい、神様の計画で活動している事を述べています。御子の福音を述べ伝えているとき、神様に対してはどうしているのかと言うと、心から神様に仕えているといいました。そして自分でこれは本当ですよと言わずに、それは神様が証してくださるのですが、と神様に委ねています。自分が力んで、信じてください本当ですよと言わなくても良いのです。神様が証してくださいますと言って、神様が知ってくださっていることのほうを大切に思っているのです。その神様が証してくださることとは、「私は、祈るときには何時もあなた方のことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなた方のところへいける機会があるように、願っています。」と言う事なのです。パウロは何時もローマの教会のことを思って祈っていたのです。そして神様の御心によって、ローマ教会にいけるようにと祈っていたのです。ローマ教会にいけるかどうかは、自分の意思でもなく、人の意思でもなく、成り行きでもなく、ただ神様の御心にかなうときにのみ行けると言う事を信じていたのです。そしてローマ教会の人々にもその事を理解して欲しいと思っていたのです。決して自分の意思で乗り込んでいくつもりはないという事です。もしかするとローマ教会はそのような、うわさの高いいろいろな騒動を起こすパウロが乗り込んでくることを警戒していたのかもしれません。

続いて、パウロはどうしてそのように、ローマ教会の人々のところに行きたいと思っているのかを話し始めます。11節と12節です。

ロマ 1:11 あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。

ロマ 1:12 あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。

 パウロがローマの教会に是非行きたいと思っているのは、一つには、霊の賜物をいくらかでも分かち合いたい、という事と、二つ目は、互いに持っている信仰で、励ましあいたい、という事でした。決して何か教えてやろうとか、指導してやろうとか言う事ではないのです。教会が何をするところかということが明確に教えられています。教会はまず、信仰者が集って、神様を礼拝すること第一の事になりますが、その後は信仰者同士仲良く過ごす事でしょうか。それも悪くはありませんが、パウロはここで、霊の賜物を分かち合う事と、信仰で互いに励ましあう事を言っています。これが教会でしかできない、教会の大切な交わりではないでしょうか。霊の賜物を持つものは、その素晴らしい恵みを知って、自分だけではなくどうにかして多くの人々にその賜物を味わって欲しいと願うのです。少しでも、いくらかでもその霊の賜物を分かち合いたいと思うのです。私達の分かち合うべき霊の賜物は何でしょうか。それを分かち合いたいと思っているでしょうか。分かち合って共に喜びたいと思っているでしょうか。霊の賜物は、分かち合えば分かち合うほど増えてくる不思議な恵みです。パウロはその恵みをあふれるほどに持っていたのです。次に、もう一つ言っている事は、互いに持っている信仰で励ましあいたいという事です。信仰で励ますのは、信仰の強いものが信仰の弱いものを励ますのではないのです。信仰の強いものも、信仰の弱いものも、共に一緒になって互いに励ましあうのです。そのときに間に立ってくださるのが神様なのです。神様から見たら、信仰の強いものも弱いものも等しく同じなのです。ただ信仰によって励ますとき、それはその人の信仰で励ますのではなく、間に立ってくださる神様によって励ましていただくのです。ですから、互いに持っている信仰で励ましあうとは、互いに神様にお願いして、神様から励ましていただくという事なのです。励ましてくださるのは神様なのです。ですからパウロほどの信仰者でも、互いに励まして欲しいと願うのです。このような、霊の賜物の分かち合いや、互いの信仰で励ましあっている教会こそが、本当の教会であり、聖徒の交わりの教会なのではないでしょうか。そこには何時も神様が介在しているのです。

パウロは「兄弟達ぜひ知ってもらいたい」、といってパウロの個人的な思いを吐露しています。13節から15節です。

ロマ 1:13 兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。

ロマ 1:14 わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。

ロマ 1:15 それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。

 先ほどの霊の賜物を分かち合いたい、信仰によって励ましあいたい、という調子から、あなた方のところでも何か実りを得たいとか、私には果たすべき責任があるとか、ぜひ福音を告げ知らせたい、という強い個人的な願望と信念に変わっています。そのような強い思いで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのですと、本心を語っています。それは何よりも、あなた方にも、ぜひ福音を告げ知らせたいからなのだと、その目的を伝えているのです。

 そしてその伝えようとしている福音について自分がどう思っているのかを語ります。16,17節です。

ロマ 1:16 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。

ロマ 1:17 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 パウロはその福音について、「私は福音を恥としない。」と言いました。むしろパウロは福音を誇りとしている、と言いたかったのでしょう。もしかすると、当時のローマの教会では、世の中の不穏な状況から、福音を語ることを、危険なこととして、隠そう、隠そうとする教えがあったのかもしれません。パウロは、私は福音を恥としないと言い切って、それでも私は福音を大胆に語り伝えていくという姿勢を述べたかったのかもしれません。なぜならば、福音は、信じるものすべてに救いをもたらす神の力だからです、と神様の力を力強く述べているのです。パウロはこう伝えたかったのです。福音には神の義が現れているのです。それは信仰を通して実現しているのです。正しいものは信仰によって生きるのです。そのような信仰を、あなた方にも伝えたいのです。パウロの信仰の情熱はこの手紙の最初から、全開して、ほとばしって来るのです。

 この手紙は、挨拶を聞いたときから、何とかこの福音をあなた方に伝えたい、霊の恵みを分かち合いたいという思いが伝わってきます。これほどの信仰の情熱が燃え上がるのは、その霊の恵みがいかに素晴らしいかを体験しているからなのでは、ないでしょうか。これ以上素晴らしいものはないのですよと伝えたいのでは、ないでしょうか。この情熱を注ぎ込んでいるのは、まだ見ぬローマの人々なのです。自分が知りえたこの神の恵みを何とか一人でも多くの人々に伝えたい。その思いがパウロの人生を特別な使命へと変えているのです。私達もまた、神様に召された一人です。パウロの様にではなくても、私達にも与えられた霊の恵みがあるし、励ましあえる信仰もあるのです。その事を覚えて、分かち合い励ましあって行きたいと思います。

 

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様。あなたはパウロを召して、使徒とし、異邦人にイエスキリストの福音を伝えました。そのほとばしる情熱は、あなたから与えられた霊の賜物がいかに素晴らしいものであるかを思わされます。そしてその異邦人に伝えられた福音は、私達をも召して、信徒とし、イエスキリストのものとしてくださいました。この恵みを覚えて感謝いたします。これからしばらくの間、ローマ人への手紙によって、あなたの信仰の恵みを与えられたいと思っておりますが、どうか私達の思いを、やわらかくし、パウロの語るメッセージに心を傾ける事ができますように。そしてあなた自身が私達の心に語りかけてくださいますように。

今日の聖書で教えられましたように、私達が霊の恵みを分かち合い、互いに持っている信仰で励ましあえるように導いてください。私達の交わりが、イエス様を仲立ちとした、そのような交わりでありますように。またこの世の多くのことを、神様を通して理解し、神様を通して働きかける事ができますように。私達の力は弱くても、働いてくださる神様は限りなく大きく強いのです。その神様に委ねて祈り続ける事ができますように。世の中が騒がしく、不安な思いもありますが、どうか祈りを通して、世界に平和と安定が与えられ、人々の心に信頼と喜びが与えられますように。

この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


<<聖書の箇所(新約聖書:ローマの信徒への手紙)>>

◇ローマの信徒への手紙

◆挨拶

ロマ 1:1 キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、――

ロマ 1:2 この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、

ロマ 1:3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、

ロマ 1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。

ロマ 1:5 わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。

ロマ 1:6 この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。――

ロマ 1:7 神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

◆ローマ訪問の願い

ロマ 1:8 まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。

ロマ 1:9 わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、

ロマ 1:10 何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。

ロマ 1:11 あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。

ロマ 1:12 あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。

ロマ 1:13 兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。

ロマ 1:14 わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。

ロマ 1:15 それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。

◆福音の力

ロマ 1:16 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。

ロマ 1:17 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。