家庭礼拝 2012年8月29日 マルコ15章1−20 ピラトの尋問

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マルコによる福音書の学びは、あと2章となり、イエス様の受難の場面はピラトの尋問の場面までやってきました。わたしは、聖書を読んでいて、この場面は誰が見ていて、誰が語り継いだのだろうかと思う事がたびたびあります。ゲッセマネでのイエス様の祈りの場面は、弟子達は眠りこけていたので、あとをつけてきた小さなマルコがそれを目撃したのでしょう。最高法院でのイエス様と祭司長たちとのやり取りを聞いていたは、イエス様の遺体を引き取りに願った、アリマタヤのヨセフのような議員であったかもしれません。ペトロはそこまで詳しくは聞けなかったと思います。ピラトの尋問の話も身分の高い議員だったヨセフが聞いていたかもしれません。祭司長たちによる最高法院での尋問は夜行われていますが、律法によると夜は行ってはいけないのだそうです。その法を犯してまで、急いで行い、次の日の朝にはピラトの元に連れて行くのです。安息日が始まる前に何とかイエス様を死刑にしたいと言う焦りがあったのではないかと思います。時間が経つと何が起こるか分かりませんでした。最高法院には死刑にする権限はなかったので、その権限のあるピラトの元にすぐに連れて行ったのです。とにかく民衆が騒ぎ出す前に、速やかにイエス様を処刑する必要があったのです。前の日の夜に過越の晩餐をした後、ゲッセマネで捕らえられ、夜と朝に尋問があり、死刑の判決が与えられ、十字架を担がされ、12時には十字架につけられており、午後の3時には息を引き取ったのです。そして夕方になる前に、墓に葬られたのです。このように何とか、安息日の前にすべてを終わらせる計画が進められていたのです。ある意味で、これはあっという間の出来事だったのです。聖書を読んでいると、いろいろな物語が含まれているので、何日かの長い時間がたっているように思いますが、本当にあっという間の出来事でした。ですから、イエス様がエルサレムに入場するときに歓喜の声をあげて迎え入れたイエス様を支持する人々は、この事態についていけなかったのだと思います。この受難のときに現れる群集は、皆祭司長たちの息のかかった人たちで、祭司長たちの思惑通りに動いたのです。イエス様を支持する人々にとっては間に合わなかったし、ユダにとっても間に合わなかったのです。ユダは裏切りはしましたが、イエス様がローマや体制派の人々に対し立ち上がることを期待していたのです。イエス様が立ち上がらなくても、それを支持する人々が立ち上がるのを期待していたのです。ところがこんなにも早く、十字架につけられるとは思いませんでした。これでは何も出来ないのです。目論見が外れたユダは、自分のしてしまった事の重大性に気がついて、お金を返し、何とかイエス様の命を助けようとしましたが、もうとても間に合わなかったのです。そして、自分の侵した罪を悔やんで自殺したのです。もう誰にも止められない、ローマの総督ピラトにさえ止められない流れとなってしまったのです。今日の聖書の箇所を読むときに、この時間の速さ、流れの速さを意識して読まないと別の物語になってしまうのです。ですが、なぜ祭司長たちはこれほどまでに躍起になって、イエス様を殺そうとしたのでしょうか。聖書には妬みのためだと書かれていますが、どんな妬みだったのでしょうか。それは群集が、自分達から離れ、イエス様のもとに集まったという現実を妬んだのです。そして、イエス様さえ殺せば、群衆は自分達のところへ帰ってくるだろうと思ったのです。ヨハネによる福音書12章10節には、ラザロがイエス様によって復活したとき、「祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れていって、イエスを信じるようになったからである。」と書かれています。彼等は外側だけを着飾り、群集をひきつける力がなかったのです。いつも祭司長たちは人間的な思いに満ちており、イエス様は、神様のみを見つめていました。

 

聖書に戻ると、イエス様はピラトの元に連れて行かれることになりました。1節です。

マコ 15:1 夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。

たぶん前の夜は祭司長たちは誰も皆一睡もせずに、イエス様の処置を話し合っていたのでしょう。最高法院全体で相談して、イエス様をピラトの元に連れて行ったのです。きっとこの時、ピラトに訴える口実の検討やら、イエス様を十字架につけるシナリオやら、過越祭の釈放の話が出たときの対応と、その群衆を呼び集める方法やらもきっと話し合われたのです。そしてそれらの一つ一つをしっかりと準備して、ピラトの元に連れて行ったのだと思います。

ピラトの元にイエス様を連れて行くと、ピラトはこういったのです。2節と3節です。

マコ 15:2 ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。

マコ 15:3 そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた

ピラトは、イエス様に対して「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問したのです。なぜこんな問いをしたかと言えば、これがイエス様がピラトに訴えられた罪状なのです。イエス様はユダヤ人の王だと言って民衆を惑わしローマに対抗しようとしている、と言うことをユダヤ人達は訴えたのです。最高法院で確認されたイエス様の罪状は、神様を冒涜したと言う罪状でした。ですが、この宗教的な理由ではピラトはイエス様を死刑にすることはできないのです。それで、イエスは自分を王だと言って、ローマに謀叛を企てようとしていると政治的な理由で訴えたのです。ヨハネによる福音書では、ピラトは事の不自然を感じて「あなた達が引き取って、自分達の律法に従って裁け。」と言って一度は突っぱねたのです。すると、ルカによる福音書では、祭司長たちが、「この男は、わが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っている事がわかりました。」と言って、最高法院で裁定された罪状とは全く違う事を言って訴えたのです。そしてこの話の後で、ピラトは「お前がユダヤ人の王なのか」とイエス様に尋ねたのです。それに対し、イエス様は「それはあなたが言っている事です。」と答えられただけでした。最高法院での尋問の様に、「そうです」とも、違うとも言いませんでした。それはある意味で、ユダヤ人の王であり、またそうではないからです。これに対して、祭司長たちは、いろいろとイエスを訴えたと書かれています。あることないことを口実をつけて言ったのだと思います。それに対し疑問に思ったピラトが再び尋問し「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」と言いましたが、イエス様がもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思ったのです。

ピラトは、このような推移の中でイエス様が無実である事を思いました。そのようなときに、群衆が押しかけてきて、いつものように一人釈放して欲しいと頼み込みました。これは祭りのたびに、人々の願い出る囚人を一人釈放していたからでした。それで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言いました。ピラトとしてはそうして欲しかったのです。祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからでした。ピラトは冷酷残忍な執政官として知られていましたが、この聖書の中では、公平で、理知的で、憐れみ深い人のように描かれています。何度も、イエス様を許そうとしますが、そうできなかったのはユダヤ人達のかたくなさの為である事が描かれています。それは当時の教会の人々が、ローマを敵に回すことなく、その責任はユダヤ人たちにあることを言いたかったからではないでしょうか。ですがローマの総督ともあろう人がどうしてこうも安々とユダヤ人たちの思いに押し流されてしまうのでしょうか。ここに集まった群衆は、祭司長たちの息のかかった人々なのです。イエス様を支持していた人々はまだ知らなかったのです。11節から15節です。

マコ 15:11 祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。

マコ 15:12 そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。

マコ 15:13 群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」

マコ 15:14 ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。

マコ 15:15 ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。

 これほどの権力のあるピラトでさえも、人間的な思いに押し切られて、群衆を満足させる為に、罪のないイエス様ではなくて、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを釈放するのです。狂信的な、熱狂的な「十字架につけろ」と言う叫びに、ピラトもまたおそれを抱いたと思うのです。何か、人間を越えた、不思議な力に押し流されたと言う思いがしてきます。それが神様の計画だったのかもしれません。まるで悪夢の中での出来事のように、事は進んでいくのです。

ここで語られているのは、人に喜ばれようとする人々と、神様に喜ばれようとする人の物語です。神様に喜ばれようとするイエス様は、例えそのために自分がとても受け入れがたい恐ろしい出来事に出会っても、それを祈りつつ、神様に願いつつ、自分の思いにではなく、神様の御心に従おうとするのです。一方、祭司長たちは、民衆に喜ばれようと思い、イエス様さえ殺せば民衆が戻ってくると思い、神様を見上げることなく、大きな罪を犯してさえも、人々に喜ばれようとする事を選ぶのです。ローマ総督ピラトでさえも、大きな権力を持っているにもかかわらず、法を守る立場にもかかわらず、騒ぎ出した群集を満足させようと思って、バラバを釈放し、罪がないと知っているイエス様を十字架につけることになったのです。私達の目標が、神様の前に正しく生きることであることを改めて思わされるものであり、人の思いに惑わされてはいけないのだと思わされるのです。いくら人々に賞賛される生き方をしたとしても、もしかしてそれが人々を喜ばせる道を歩んでいるとしたら、神様からは疎まれる道を歩んでいるのかもしれません。

さて死刑の判決を下されたイエス様は、鞭打たれて、十字架につけるために引き渡されました。イエス様は引き渡されたローマ兵からも侮辱されました。この人たちは何も分かっていないのですが、それでも、罪を宣告されたものは侮辱にふさわしいとばかりに侮辱をするのです。16節から20節です。

マコ 15:16 兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。

マコ 15:17 そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、

マコ 15:18 「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。

マコ 15:19 また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。

マコ 15:20 このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。

 ここでこれらの兵士達が、何に対して侮辱的な態度をとるのか考えて見ましょう。兵士達にとって、イエス様が、神の子であろうがなかろうが関係のない事なのです。兵士達がイエス様を皮肉り嘲弄しているのは、イエス様がユダヤ人の王と偽り、ローマに反逆しようとしたと言う話を聞いてのことなのです。ですからこれらの侮辱的な態度は皆それに関わっているのです。イエス様に紫の服を着せ茨の冠をかぶらせたのも、イエス様をユダヤ人の王と冷やかそうとしているのです。そしてユダヤ人の王、万歳と言って敬礼したのも、膝まづいて拝んだのも、カエサル万歳をもじったものであり、膝まづいて拝んだのも、宗教的なことではなくて、皇帝礼拝のまねをして、嘲弄したのです。祭司長たちが言った、ありもしないことをそのまま真に受けて、この兵士達はイエス様に侮辱を加えているのです。まさに皆とやれば怖くないの心境で、根拠のない事を簡単に信じ込んでしまう、群集心理の恐ろしさを思います。

 今日の聖書の箇所では、人間的な思いの弱さ、醜さをたっぷり見せ付けられたような気がします。私達がそれから、逃れる事が出来ると思ってはいけないのでしょう。私達も何時もこれと同じことをやっているのだと思います。祭司長たちのように、自分の人気や評価を良くする為に、相手の評価を貶めたり、抹殺しようとしたりする気持ちがないとはいえません。ピラトのように、分かってはいても、自分の身を守る為に、怒り狂う人々に迎合し間違った判断をするかもしれません。ローマの兵士達のように、根拠がよく分からなくても、皆がそうしているのだからと言って、正しい人を侮辱したり、批判したりしているのかもしれません。それらは、皆、自分の中にしっかりとした軸を持たないために、人の思いや動きにつられて、ふらふらと流されてしまうのです。イエス様はそうではありませんでした。何時も神様のみ前に、御心にかなう事だけを願っていたので、決して揺らぐ事はありませんでした。死を前にしても揺らぎませんでした。5節にあったように、「イエスが、もはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。」と書いてあるように、人々の言う事に振り回されること無く、沈黙の静けさの内に神様をしっかりと見つめていたのです。私達が目指すべき姿勢もこの姿ではないでしょうか。人がどういおうと、何をしようと、私達のすることが神様のみ心にかなう事ならば、それで良しとするのが信仰者の潔さではないでしょうか。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様。あなたが私達に、心の中心、生きる中心を与えてくださっております事に感謝いたします。私達は人間的な思いに捉われて、すぐに人の言う事やなすことに振り回され、心がいろいろに乱されてしまうことがあります。ですが、あなたは私達の心にいてくださって、私達が帰るべきところ、私達が戻るべきところを何時も指し示してくださいます。主なる神様、どうか私たちに何時もあなたの御心を思い起こさせてください。例えそれが私達にとってつらいことであっても、傷つく事であっても、あなたの御心によって受け入れさせてください。決して人の思いに振り回されること無く、人に迎合するものではありませんように。しっかりと信仰に立った歩みを、歩み通す事ができますように。これからもまだまだいろいろな事があるかもしれませんが、どうか信仰をもって歩みとおす事ができますように。

世の中が不安定になり不確定になり、だんだん騒がしくなってきておりますが、どうかあなたの御言葉の上にしっかりと立つことができますように。中国や韓国との領土問題。シリアやイラク、アフガニスタンの問題。ミャンマーの難民の問題。どれをとっても、暴発しそうな危険をはらんでおりますが、どうか人を見るのではなく、あなたの御手の働きの上に祈りを加えていく事ができますように導いてください。どうか世界が平和で、友好的になることが出来ますように。

この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


<<聖書の箇所(新約聖書:マルコによる福音書)>>

◆ピラトから尋問される

マコ 15:1 夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。

マコ 15:2 ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。

マコ 15:3 そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。

マコ 15:4 ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」

マコ 15:5 しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。

◆死刑の判決を受ける

マコ 15:6 ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。

マコ 15:7 さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。

マコ 15:8 群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。

マコ 15:9 そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。

マコ 15:10 祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。

マコ 15:11 祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。

マコ 15:12 そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。

マコ 15:13 群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」

マコ 15:14 ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。

マコ 15:15 ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。

◆兵士から侮辱される

マコ 15:16 兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。

マコ 15:17 そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、

マコ 15:18 「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。

マコ 15:19 また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。

マコ 15:20 このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。