家庭礼拝 2012年7月25日 マルコ14章22−42 主の晩餐
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起
去年の11月初めから始まった、マルコ福音書の学びが、ついに最後の晩餐までやってきました。約9ヶ月かかりましたが、そんなに長くやっている気はあまりしません。聖書は、この最後の晩餐を中心として、エルサレムでの出来事を詳しく伝えています。ここにこそ伝えたいものがあったからだと思います。この最後の晩餐となった過越の食事は、適当に集まってパーティのように食事をしたり懇談したりするわけではありません。場所はエルサレムと決まっていたし、その食事の方法も儀式的に決まっていたのです。祈ったり、賛美したり、手を洗ったり、パンを裂いたり、杯から飲んだりこのような事が儀式に基づいて、祈りながら、そして賛美しながら、行われたのです。イエス様もその方法を知らないわけではありません。ですから過越の食事をするために、わざわざ危険の多い夜のエルサレムにやって来て、あらかじめ準備されていた場所で、過越の食事をしたのです。ですが、その食事が終わるとすぐにそこを立ち去って、ゲッセマネの園へ行くのです。
イエス様のこの最後の晩餐で語られた言葉は、聖餐式の基となった、有名な言葉ですが、この言葉もたまたまそこで語られた言葉ではなく、この過越の食事の儀式の流れの中で、その祈りの言葉をイエス様風に変えて語られたものなのです。ですから、祈りつつパンを裂いて、みんなに分けるというのは、どこででも行われる過越のやり方だったし、家の主人が杯を取って、祈りその後すべてのものがその杯から飲むと言うのもどの家でも行われていたのです。例えば、パンを裂くときには、二つの賛美がなされ、その後で、「ほむべきかな、主よ、わが神、宇宙の王、大地から物を作り出される方」と祈りました。そして、パンを裂きながら、「これは、我々の先祖達が、エジプトの地において食べた苦難のパンである。飢えた者があれば、来たりて食べさしめよ。困窮するものがあれば、来たりてわれわれと共に過越を守らしめよ。」と祈りつつパンを裂いたのだそうです。杯を回すのも一回だけではなく、いろいろな意味をこめて、祈り、そして4回ほどそれを繰り返すのです。その間に詩篇が歌われました。歌う詩篇も決まっていて、詩篇113編から118編が歌われ、特に113篇と114篇が歌われました。イエス様たちも賛美の歌を歌う場面がありますが、その賛美の歌とは、この詩篇の歌なのです。このように、イエス様たちのこの晩餐は、食事をして、弟子達と懇親の場を持とうとしたのとはまったく違うのです。そうではなくて、律法に基づいた、過越の儀式的な食事をされたのです。
この食事会は決して楽しいものではありませんでした。弟子の裏切りを宣言しなければならなかったし、弟子達は不安で戦々恐々としていました。そして、過越の食事が終わるとオリーブ山のゲッセマネの園へ引き上げたのです。このときイエス様の気持ちはどうだったでしょうか。きっと、パリサイ人や律法学者達と戦うよりも、自分の弟子が、自分を裏切り、そして引き渡される事のほうが、ずっとつらく孤独な思いだったのではないでしょうか。
それでは、ユダはいつ、イエス様を裏切る為に外に出たのでしょうか。今日の聖句の始まるパンを裂く場面のときには既にユダはいないような気がします。マタイとマルコではその事が明らかには書かれていません。ヨハネによる福音書では、「この中に裏切るものがいる」と言った後で、イエス様がパン切れを浸して取り、ユダに与えられると、サタンが彼の中に入ったのです。そして、「しようと思っている事を、今すぐしなさい。」と言われてユダは出て行くのです。ですから、パンを食する場面まではユダが共にいた事になります。ただ、ルカによる福音書では、杯を飲んでいるときも、まだ一緒に食卓にいます。どれが本当なのかは分かりません。
この後、イエス様はユダの裏切りだけではなく、ペトロの離反をも予告しなければなりませんでした。弟子たちの気持ちがどのようになっていたのか、イエス様は分かっていたのです。それを良く分かっていたイエス様の気持ちはどうだったでしょうか。そしてゲッセマネに着くと、死ぬばかりの悲しみに襲われるのです。イエス様は死ぬ事が恐ろしくて祈ったのではないのです。死ぬばかりに悲しかったので祈ったのです。このような悲しみとはどんな悲しみでしょうか。想像することもできません。イエス様が何よりもつらく悲しかったのは、弟子たちの裏切りや離反だったのではないでしょうか。苦しいときほど信頼に繋がれて欲しかった弟子達が、裏切り、離反するこの思いに、死ぬばかりの孤独を感じ悲しまれたのではないでしょうか。それでは詳しく聖書を読んでみたいと思います。
承
今日の聖書の箇所は、イエス様がパンを裂くところから始まります。22節です。
マコ 14:22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
過越の食事を続けていたとき、イエス様はパンを取り賛美の祈りを唱えました。これは詩篇の賛美の祈りではないかと思います。そしてそのパンを裂いて弟子達に与えました。このパンは種入れぬパンですから、味付けをしていない大きなせんべいのようなものです。それを砕いて、弟子達に分け与えたのです。その時いつもの儀式の言葉ではなく、イエス様は「とりなさいこれは私の体である」と言ったのです。イエス様は、これをどのような意味でいったのでしょうか。それの受け取り方によって、いろいろな聖餐式の解釈が出来ています。
カトリックではこれを秘蹟すなわちサクラメントとして、その場にイエス様が現在することを現します。ですからパンそのものでイエス様を食する事になるのです。宗教改革以降のプロテスタント教会はあえてこれを秘跡と呼ばず、礼典という呼称を用いています。これは、「神の救済は人間の行いによるのではなく、信仰のみによる。」という考え方から、聖餐の執行そのものを救いの要件とは考えないためなのです。ただし、聖餐に何らかの意味を持たせるか、単に象徴的な儀式と考えるかは、教派によって異なってきます。多くは、聖餐において神の恵みが人間に伝えられるのではなく、共同体の信仰を示すための儀式であるとしているのが一般的なのです。いわゆる聖餐式問題もこれらの解釈の一つでしかないのです。
ですが私達は、ここでその意味を自分達なりに考える必要があります。マルコではルカのように、それを記念として行いなさいとも言っていないのです。マルコの言葉は解釈された言葉と言うよりも、非常に直接的現実的な言葉です。イエス様がその場で、これは私の体であるといってパンを裂いたとき、イエス様は自分の体が、このように砕かれ、死ぬだろうと言う事を言おうとしたのではないでしょうか。そしてその死ぬ事は、たとえ、あなたたちが私を裏切ったとしても、あなた達の命の為である。私の死を受け取り、それを食して、自分の命としなさいという意味ではないだろうかと思います。すなわち、それは、どんな事があってもイエス様の死は、私達一人ひとりのためであり、その死を、自分の為の死である事として受けいれなさい、と言う意味ではないかと思います。この事は、単に教えられて行うのではなく、自分自身の受け止め方を問われているような気がします。
そしてその食事が終えると、杯を取って祈りました。23節から25節です。
マコ 14:23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。
マコ 14:24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
マコ 14:25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
ここで回される杯は、みんなで飲むための大きな杯です。この杯を取って、感謝の祈りを唱えました。そして弟子達が、その杯から飲んだとき、イエス様は、「これは多くの人のために流される私の血、契約の血である。」と言った のです。聖餐式ではこの式辞を言った後にぶどう酒を回しますので、イエス様もそうしたのかなと思ってしまいますが、イエス様はみんなが飲み終わったか、飲んでいる最中に、祈りとしてではなく、忠告としていっているのです。そしてそれは、イエス様が血を流して死ぬだろうと言う事であり、それはみんなの為に多くの人のために流す血であると言う事、そしてその血が、契約の血となるであろうということでした。この契約と言うのは、イエス様が約束なさった事が、イエス様の命に代えて守られると言う事です。それほどまでに、イエス様の言葉は真実であると言う事です。ここでのパンとぶどう酒の話は、イエス様の死に直面する、並々ならぬ決意を感じさせるものです。ご自分の死から少しも目をそらすまいと言う、意思を感じるものです。
イエス様たちは、過越の食事が終わると、賛美歌を歌い、オリーブ山に向かいました。この賛美歌は詩篇の115編から118編だと思われます。これは、過越の食事の後で歌う事になっていました。オリーブ山にはエルサレムにはない庭園がありました。イエス様たちはそこをよく訪れていたようです。エルサレムよりは安全だったのではないでしょうか。
転
イエス様たちがゲッセマネに行く途中で、イエス様は、もう一つの予告をしました。27節です。
マコ 14:27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。
この聖書の引用はゼカリア書13章7節の後半です。そこにはこう書いてあります。「羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるが良い。わたしは、また手を返して小さいものを撃つ」ここでイエス様はこの聖句を、あなたがたは皆わたしにつまずく、という事を述べる為に使われています。つまずくのはユダだけではなかったのです。すべての弟子がつまずくと予告されているのです。こういわれて、弟子達はどのように反応したでしょうか。29節から31節です。
マコ 14:29 するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。
マコ 14:30 イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
マコ 14:31 ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。
18節でイエス様が、「私と一緒に食事をしているものが、私を裏切ろうとしている。」と言われたときに、誰もが自信なさそうに「まさかわたしのことでは」と尋ねたのですが、それから何か思う事があったのでしょうか。今回は「あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われて、ペトロは「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言いました。さらに、イエス様が、「あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と言うと、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」ときっぱりと答えるのです。何かの覚悟が出来たようです。この過越の食事をしている間に、イエス様のパンとぶどう酒をいただいている間に、弟子達の心は新たにされて、たとえ死んでもイエス様についていきますという思いにされたのかもしれません。それはペトロだけでなく、皆のものも同じように言ったと書かれているからです。ですがその思いとは裏腹に、実際はイエス様の言ったとおりにつまづくのです。ですが同じ躓きでも、ユダとペトロでは何が違ったのでしょうか。同じ間違いをしても、なぜペトロは許されたのでしょうか。それは、ペトロにはイエス様を思う愛があり、ユダにはその愛がなかったのです。ペトロはその愛のゆえに躓いても許されたのです。
そして、イエス様たちはゲッセマネと言うところにつきました。これはオリーブ山の中のオリーブの油を絞る場所です。なぜならば、ゲッセマネと言うのはヘブル語で油絞りと言う意味なのです。
そこでイエス様はとても大きな悲しみに襲われたのです。その悲しみは何であったのか、弟子達に裏切られた悲しみなのか、命を失うことの悲しみなのか、死ぬ事が神様との交わりを失う事だからなのか、良くは分かりません。ゲッセマネに着くと、イエス様は弟子達にここに座って待っていなさいと言い、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて祈りに行ったのです。その時イエス様は、ひどく恐れてもだえ始め、「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」と言ったのです。イエス様の悲しみは、恐れてもだえ苦しむほどの、そして死ぬほどの悲しみだったのです。そのような苦しみを、イエス様は一人で耐えようとしたのではありませんでした。イエス様ほどの人でも、愛するものたち、信頼する者達が近くにいて、励ましてくれる事を望んだのです。いや、イエス様は、ただその者達がそこにいてくれる事だけを望んだのです。そして、ここを離れず、目を覚ましているようにと、願ったのです。これほどイエス様が、人間との交わりを求めていた事はありませんでした。人間に願った事はありませんでした。そして祈り始めたのです。
マコ 14:35 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
マコ 14:36 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
イエス様は地面にひれ伏して祈りました。この苦しみのときが過ぎ去るようにと祈りました。イエス様は死ぬ事を予告されましたが、喜んで死のうと思っていたわけではなかったのです。むしろ出来ればそれを取り除いてくださいと言うのが本音だったのです。その事があまりにも苦しかったので、神様にこの杯をわたしから取り除いてくださいと願ったのです。イエス様は、決して自分のために神様の力を用いたり、祈ったりする事はありませんでした。ですが唯一つの例外がここなのです。ここで始めて、イエス様は自分の為に祈ったのです。それはあまりに苦しかったからなのです。それほどまでに苦しかったのです。ですが、どんなに苦しくても、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と祈る事は忘れませんでした。何よりも御心が行われる事が大切だったのです。
イエス様が弟子達のところに戻ってみると、弟子達は眠っていました。イエス様の死を予告する数々に彼等の心も体も緊張で疲れ果てていたのです。イエス様は「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」と言いました。このイエス様の危機のときに、弟子達に求められたのは、ただ、誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っている事だけだったのですが、それすらも出来ない弟子達だったのです。このときイエス様が言われた誘惑とは何を指すのでしょうか。たぶんそれは、そのとき弟子達が皆陥りそうになっていた誘惑だと思います。それはイエス様に躓きそうになる誘惑です。イエス様のことを信じられなくなる誘惑です。その誘惑に陥らないように祈る事が、私達にも求められている祈りなのです。その祈りが、窮地にあるイエス様を一番助ける祈りなのだと思います。イエス様は再び祈りに戻られ祈り終わって戻ってくると、弟子達はまたしても眠っていたのです。このような事が3度あって、最後にイエス様は「もうこれでいい。」と言いました。そして、「時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」と言ったのです。ついにその時がやってきました。イエス様は3度祈られましたが、最後にイエス様は、その苦しみから逃れる事ができたのでしょうか。または、その苦しみを受け入れることが出来たのでしょうか。わたしは、昔から、この場面を読むと、イエス様がこのときどのように吹っ切れたのかを知りたいと思っていました。神様からどんな応答があったのかを知りたいと思っていました。ですが、未だに、イエス様がどのようにして、「もうこれでいい。」と言えたのかがわかりません。ですが、これは人間には分からない世界なのかもしれません。分かるのは、イエス様は、神様の御心に従って、すべての人の救いのためにご自分の命を捧げようとなさった事です。これを知る事のほうがずっと大切なのかもしれません。
結
最後の晩餐のパンとぶどう酒から、聖餐式的なイエス様の体なるパンと、血潮なるぶどう酒を知る事ができます。ですが、私は、イエス様はもっと直接的な意味で、「取りなさい。これはわたしの体である。」といったとき、体が砕かれて裂かれて死ぬだろうと言う事を伝えようとしており、そして、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」と言ったとき、「私は血を流して死ぬだろう、それは多くの人のために真実を語るからである、」と言う事を言おうとしているのだと思います。
ゲッセマネの祈りは、イエス様が、死を前にして、いかに悲しみ恐れたかを物語っています。ソクラテスのように、従容として毒杯を仰いだのではなく、「この杯をわたしから取りのけてください。」と苦しみ願いつつも、御心に適うことを優先したのです。この二つの場面は、イエス様が死を目の前にして、決して死から目をそらさず、恐れ悲しみながらも、そこから逃げ出そうとしなかったことを示しています。ですが、イエス様はなぜ、死を前にして、これほどまでに悲しみ苦しまれたのでしょうか。復活を信じていたとしても、苦しまれたのでしょうか。まだ謎の多いところです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。イエス様は、弟子達の裏切りと躓きの中にあって、死ぬほどの悲しみを感じていました。裏切ったのはユダだけではなく、弟子達もみな躓いたのです。そして、私達も何時も躓いては、イエス様を悲しませるのです。イエス様は、私達のそのような躓きから超然としておられる方ではなく、その裏切りや躓きを見て、死ぬほどの悲しみを感じられる方なのです。ですがそれでもイエス様は、私達の救いの為に、まっすぐに十字架へと進みました。私達はこのことによって、救いにあずかることが出来ました。神様どうか、私達が、裏切りや躓きによって、イエス様を悲しませる事なく、誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っている事ができますように。聖餐式のパンとぶどう酒の中に、イエス様が伝えようとした意味を汲み取る事ができますように。
世の中は、信仰からすっかり離れてしまっているようですが、それでもどこかで信仰を求めています。神様、どうか人間の心のむなしさの中に、イエス様の愛を注いでくださいますように。多くの人が、その愛によって、救われますように。
この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:マルコによる福音書)>>
◆主の晩餐
マコ 14:22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
マコ 14:23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。
マコ 14:24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
マコ 14:25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
マコ 14:26 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
◆ペトロの離反を予告する
マコ 14:27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。
マコ 14:28 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
マコ 14:29 するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。
マコ 14:30 イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
マコ 14:31 ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。
◆ゲツセマネで祈る
マコ 14:32 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
マコ 14:33 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、
マコ 14:34 彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」
マコ 14:35 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
マコ 14:36 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
マコ 14:37 それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。
マコ 14:38 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
マコ 14:39 更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。
マコ 14:40 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。
マコ 14:41 イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。
マコ 14:42 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
◆裏切られ、逮捕される