賛美歌83 聖なるかな 聖書朗読 祈り 奨励説教 一分黙想 全員祈り 主の祈り 賛美歌205 今日は光が
起
前の13章が、終末を予告する箇所であるとすれば、今回の14章から15章は受難の箇所です。主人公はもちろんイエス様ですが、この箇所での重要な登場人物は、ユダと香油を注いだ女の人です。このユダがイエス様を裏切りました。なぜ裏切ったのか、その理由にはいろいろな推測が考えられています。一つは善意的な解釈です。それは、イエス様を窮地に落とせば、きっとローマと現体制に対して立ち上がらざるを得なくなり、ユダが願っていた革命が成就するだろうと考えたと言う事です。ところが、イエス様はその窮地に陥っても、自分の命の事は顧みることなく十字架へと進んだので、ユダは、自分の行った浅はかな行為を後悔し、首をつって死んだと言うものです。
最も悪く言う解釈は、ユダという男は、能力があったので、会計を扱っていたが、自分の為にそのお金をくすねるような貪欲な男であり、イエス様の革命に野心を持って従ってきたが、その望みがなくなり、落胆してイエス様を憎むようになり、銀30枚を得るためにイエス様を売ったのだ、と言う考え方です。それでもまだ、イエス様が死ぬとまでは思っていなかったようです。いずれにしてもユダは、自分がイエス様に従うよりも、イエス様が自分の思い通りになってくれることを望んでいたのです。
最も一般的な解釈は、ルカやヨハネ福音書にもあるように、悪魔がユダの中に入った為、と言う極あっさりした解釈です。余計な推測や深読みをせずに、霊的な視点で見て、このような醜いことをするのは悪魔のせいである、と割り切った解釈の仕方です。それは人の心は、いくら推測しても、本心には決して届かないからです。分かった事を言うような人にこそ、また、悪魔のささやきがあるのかもしれません。
そして、その舞台となったのは過越際の日です。過越の祭りは4月の14日ごろに当たりで、それに続いて、除酵祭が一週間続きました。過越の祭りは、強制的に参加しなければならない祭りの一つで、エルサレムから24km以内に住む成年男子は皆参加しなければなりませんでした。そうではなくても、一生に一度はエルサレムで過越の祭りを迎えたいと考える人々が、はるか遠方より、続々とエルサレムに集まってきたのです。その過越の祭りでは、羊がいけにえとして捧げられ、祭司によって、血と皮と、内臓と脂肪が抜き取られ、残りの肉と骨の部分は参拝人に戻されて、それを焼いて、過越の食事にしたといいます。大体、一匹の子羊を10人で捧げ、それが25万頭にもなったので、参拝者は300万人くらいはいただろうといわれています。それは私達の想像を絶する、数え切れないほどの参拝者達だったろうと思います。
過越に羊の血が捧げられるのは、エジプトで疫病が起こったとき、死の天使が鴨居に塗った羊の血のしるしによって、通り過ぎ、ユダヤ人たちの家が守られたことを思い起こすためでした。それは、神様がイスラエルを守ってくださる象徴だったのです。もう一つの大切な食事は、種入れぬパンです。エジプトから脱出しようとしていたユダヤ人たちが、種の入ったパンよりも簡単に焼きあがる種のないパンを立ったまま食べて、そして、エジプトから急いで逃れた事を思い起こす為でした。そして、それは奴隷からの開放へ象徴なのです。過越の日には、種の入ったパンを食べないだけではなく、家中からすべて種をなくしてしまうのだそうです。もう一つは、当時のユダヤ人たちには、腐敗と発酵の区別がなく、パンダネによる発酵も腐敗の一つと考えて避けたのだと言う考えもあります。このような、ユダヤ最大のお祭りの中で、イエス様の受難は進んで言ったのです。
承
さて、聖書はなんと言っているでしょうか。そこにはなんと、イエス様を殺す計画があった事を述べる事から始めています。1節と2節です
マコ 14:1 さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。
マコ 14:2 彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。
過越祭と、除酵際は本来は別々の祭りなのですが、続いて行われるので、一つのもののような表現が用いられています。除酵際は、種入れぬパンを記念した祭りなのですが、大麦の刈入れの収穫祭的な祭りの意味もあったようです。その過越祭の二日前には、祭司長たちや律法学者達は、計略を用いて、イエス様を捕らえて殺そうとしていたのです。それは彼らにとってはいつでもできるはずの事なのですが、民衆が騒ぎ出すのを恐れていたのです。彼等は何時も、民衆の動きに気をとられ、主体的な決断は何時も遅れがちでした。そして、祭りの間は止めておこうと判断しました。自分達の制御の効かない事になってしまうことを恐れたわけです。
そしてこの陰謀の話は、次の10節に繋がるのが、本来の話の流れです。そこではユダの裏切りが実行されたのです。このときは二日前ですから、最後の晩餐のときの裏切りではなく、その下打ち合わせに行く為の裏切りです。ですが、この話の流れを分断するかのように、ベタニヤでイエス様に香油を注ぐ女の話が入ってきます。どうしてこの話が突然挿入されているのでしょうか。これは、ユダの恐ろしい反逆と、この香油を注いだ、惜しみない愛の行為とを並べて書こうとしたのではないでしょうか。私達の心の中には、このユダ的な裏切りの思いと、この女の惜しみない愛の思いとが同居し、また分裂している事を思い起こさせようとしているのではないでしょうか。
イエス様はエルサレムではとても準備を整えられていたようです。エルサレム入場のときの子ロバもそうでしたが、ベタニアのシモンの家も、過越の食事をする家もすべて、事前にイエス様によって準備されていました。同じ香油を注いだ女の記事が記されている、マタイとマルコと、ヨハネでは少しずつ話がずれています。マタイとマルコではこのベタニアのシモンの家とは、らい病人シモンの家であることが語られています。そして、この出来事が起こったのは、マルコと同じ2日前です。ヨハネでは、過越祭の6日前となっており、ベタニアの家は復活したラザロの家でした。これはまだエルサレムには入っていない時です。このような違いが見られます。
いずれにしても、マルコは、イエス様を殺そうとする祭司長たちと、イエス様を裏切ろうとするユダと、その中にあって、イエス様に出来る限りの愛を注ぎ込もうをする、この女の話を際立たせたかったのだと思います。そしてその香油は、死の準備を意味する事になるのです。3節では、このように記されています。
マコ 14:3 イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
なぜこの女の人が、イエス様に高価な香油を注いだのかは分かりませんが、自分の出来る精いっぱいのことをしたい、出来る限りの愛を注ぎたいと思ったのは確かでしょう。この女の人が、イエス様の死の準備をしようとして注いだのかどうかは分かりませんが、この行為には多くの弟子達が驚きそして憤慨しました。4節と5節です。
マコ 14:4 そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。
マコ 14:5 この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。
ヨハネによる福音書では、もっと露骨にこの女の人を非難し憤慨したのはユダであることを言っています。ヨハネ12章4節から6節ではこう書いてあります。
ヨハ 12:4 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。
ヨハ 12:5 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
ヨハ 12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。
このように、ヨハネは、ユダの貪欲さ、ずるさ賢さを厳しく裁いているのです。愛の行為と言うのは、一見無駄に見えることが多いものです。損得を越える愛の行為は、合理的に考えるものにとっては無駄にしか見えないものです。一方、合理的に考えるものは、損得に捉われてしまい、本当の愛の行為は出来ないものです。この高価なナルドの香油はインドから来た珍しい植物から作られた香油だそうです。注がれた香油が、売れば300デナリオン以上もしたというのですから、年収に相当する金額です。一日の労賃が1デナリオンだからです。ユダがこのように叫んで憤ったのは、本当に貧しい人々の事を思ったのではなく、そんな無駄をするなら自分がほしかった事を言い表しているのです。
ケチな考えしかもっていない人が、一見合理的なことを言って、さも、弱い人々、貧しい人々の味方であるようなことを言って、その貪欲さを偽善で装うとする事はよくあることです。あるとき、マザーテレサのところに来た実業家が、「なぜあなたは、貧しい人に魚の釣り方を教えないで、魚を与えるのですか。」と非難しました。そのような愛の援助は無駄な事で、もっと賢い方法は、自分で働いて稼ぐ方法を教える事だと言っているのです。その人はきっと、だから私はあなたには援助できないと言う事を言いたいのだと思います。人は、こんな立派な事をいって援助を惜しむのです。その時マザーテレサは、「この人たちは、立ち上がる力もないのです。ですから私達は自分で立ち上がる事が出来るようになるまで、魚を与えているのです。この人たちが立ち上がれるようになりましたら、今度はあなたたちが、魚を釣る道具を与え、つり方を教えてやってください。」とお願いしました。この実業家は、その時そのような援助が出来るでしょうか。きっとまた、別の理屈を言って、援助を断るのです。本当の愛の行為は、理屈は言わないものです。ただひたすらにそれが無駄に見えても愛の行為をするのです。この香油をそそいだ女の人はまさにそうでした。そしてその時、イエス様はこう言いました。6節から9節です。
マコ 14:6 イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。
マコ 14:7 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
マコ 14:8 この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。
マコ 14:9 はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
イエス様の見ていたのは損得ではなく、その女の人の愛の心でした。そして、死ぬ覚悟をしていたイエス様には、その行為が、埋葬の準備をしてくれたように感じられたのです。そして、その行為をほめたたえて、世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人のした事も記念として語り伝えられるだろうと言いました。このナルドの香油の話は、ユダの貪欲さをより強調することに狙いがあったのかもしれません。ナルドの香油があれば貧しい人々に施しが出来るのではなく、イエス様が言われたように、「貧しい人々は何時もあなた方と一緒にいるから、したいときに良い事をしてやれる」のです。それをごまかして、ナルドの香油があれば出来るはずなのに、と言ってはいけないのです。私達もまた、このような間違いを犯しやすいものです。
転
さて、この出来事の後で、ユダは、イエス様を裏切る為に祭司長たちのところに相談に行ったのです。そして、彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした、と書かれています。ユダが、最終的に裏切る決心をしたのは、このナルドの香油の出来事が引き金になったのでしょうか。ユダの思いとしては、「もうイエス様にはついていけない。この人はもう終わりだ、本当に死のうとしている。」と感じたのかもしれません。そしてそこに、イエス様に従ってきたことに対する憎しみと憤りさえも感じたのかもしれません。
さて、過越の日になったとき、弟子たちがイエス様に、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と尋ねました。するとイエス様は二人の弟子を使いに出して、「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。」と言いました。これはかなり目立つ目印なのです。普通、水がめを運ぶのは女の仕事で、男は皮袋を運ぶのだそうです。ですから水がめを運ぶような一風変わった男がいたらその男の後をついていきなさいといったのです。イエス様の言われたとおりにすると、二人は、ある家の二階の広間に案内されたので、そこに過越の食事をする準備をしたのです。過越の食事はエルサレムで取らなければならなかったのです。そして 夕方になると、イエス様は十二人弟子たちと一緒にそこへ行かれました。一日の初めは夕方の6時から始まるのです。その食事から過越は始まるのです。そして、その食事についていたときにイエス様は突然、驚くようなことを言いました。18節です。
マコ 14:18 一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」
イエス様は、このように裏切りが誰によって行われるかを知っていました。そして、弟子の者達にもその裏切りがある事を言いました。そしてその裏切りが、この12人の弟子の中から出てくると予告したのです。一体弟子たちはどのように反応したでしょうか。誰だ、誰だと探し回ったでしょうか。19節から21節にはこう書いてあります。
マコ 14:19 弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
マコ 14:20 イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。
マコ 14:21 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
イエス様はユダが裏切るのをはっきりと知っておられましたが、どうして弟子たちは、ユダの裏切りを知る事ができなかったのでしょうか。もし知っていたならば、決してユダに裏切りをさせるとは思いません。むしろその前に殺したかもしれません。イエス様が、この裏切りの話をし始めたとき、弟子達はむしろ心を痛めて、「まさか私のことでは」とかわるがわる言い始めたのです。この時弟子たちの多くは、自分が裏切るかもしれないと言う恐れに捉われていたのです。イエス様が、「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。」と言っても気がついていないのです。自分が裏切り者だと言われるのではないかと恐れていたのです。心の中では裏切っていたのかもしれません。その中で、実際に行為したのがユダだけであったのです。そして、イエス様は、「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」と言うのです。その言葉には非難よりも同情がこめられているのです。ある人はこう言いました。裏切るのは誰であってもありうる事だった。だがイエスは、その中でユダを生贄として選んだのだ、と言ったのです。むしろ生贄となったのはユダだったのです。
弟子達が、「まさか私のことでは」と代わる代わる言い始めたように、どんなにイエス様の近くにいるものでも、それぞれ裏切ろうとする可能性があったのです。わたしたちは皆、イエス様を裏切り、不真実に生きること、不信仰に生きること、冒涜的に生きる危険性と共にあることを忘れてはいけないのではないでしょうか。むしろ、私は大丈夫だと思うのが一番危険な事かもしれません。私はユダではないと思うとしたら、それは既にユダになっているのかもしれません。私達がこのような弱いものである事を知りつつ、イエス様は私達に自由を与え、神様の御心を自分から選び取っていく事を望まれているのではないでしょうか。
結
イエス様のそばには、いろいろな人々がいました。ナルドの香油を惜しみなく注いだ女の人もいたし、ユダのように、イエス様に愛想をつかして裏切ってしまった人もいました。イエス様は、この二人の両極の間にいながら、それぞれにこうしなさい、ああしなさいとは言いませんでした。香油を注いだ女の人には、「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。」と言って、その行いを受け入れたのです。一方、自分を裏切ろうとしている、ユダを目の前に見ながら、それでも、イエス様は、なぜそんなことをするのかとか、そんな事はしてはいけないとは言いませんでした。「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」と言って、ユダのために嘆いたのです。そしてユダには、自分がしたいようにさせたのです。それだけ、自分で選んだ道の責任は思いということになります。私達のそれぞれの道は、自分で選んできたのです。イエス様はそれを自由に選ばせ、その道を歩むのを助けてくださるのです。ですがそれが間違った道ならば、その人はその責任は負わなければならないのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。私達は日々あなたを裏切っているものであり、また裏切る可能性を何時も秘めているものです。ですからあなたが問われるとき「まさか私では」と恐れおののくものです。 それでもあなたは、私達の自由を奪うことなく、強制的にさせることなく、その自分で決断した行いを尊重してくださるのです。ですが、主よ、どうか私達が道をはずすことなく、自分の思いに捉われることなく、あなたの御心を行っていくことができますように導いてください。ナルドの香油をそそいだ女の人のように、損得の勘定に捉われることなく、精一杯の愛を注ぐ事ができますように。私達のすべてを御前に注ぎだす事が出来ますように導いてください。どうか合理的な考え方と思っている損得の罠から、私達を解放してください。
あなたの御言葉は生きています。どうかその御言葉を、私達の行いを通して表していく事ができますように。ねたみ、争い、誹謗、中傷から、どうか私達をお守りください。そして、あなたが教えてくださっている、許し、親切、寛容、愛を行っていく事ができますように。
不安と恐れの中に人々は生きています。どうかあなたの御言葉が、その一人ひとりの心の内に届けられますように。神様の栄光が表されますように。
この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:マルコによる福音書)>>
◆イエスを殺す計略
マコ 14:1 さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。
マコ 14:2 彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。
◆ベタニアで香油を注がれる
マコ 14:3 イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
マコ 14:4 そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。
マコ 14:5 この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。
マコ 14:6 イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。
マコ 14:7 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
マコ 14:8 この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。
マコ 14:9 はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
◆ユダ、裏切りを企てる
マコ 14:10 十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。
マコ 14:11 彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。
◆過越の食事をする
マコ 14:12 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。
マコ 14:13 そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。
マコ 14:14 その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』
マコ 14:15 すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」
マコ 14:16 弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
マコ 14:17 夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。
マコ 14:18 一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」
マコ 14:19 弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
マコ 14:20 イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。
マコ 14:21 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」