家庭礼拝 2012年6月27日 マルコ12章28−44 最も重要な掟

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エルサレム神殿では、敵対する祭司長、律法学者達との論争の連続でした。しかもその論争は、何とかイエス様を窮地に落としいれようとする、多くの罠を備えた論争でした。これらの論争は実はパリサイ人や律法学者達の間でも良く行われているものなのですが、彼等自身もその答えは良く分からないのです。それをイエス様にも問い掛けて、イエス様も答えられなくなるのを見ようと思ったのです。ですがイエス様はそれを見事に答えて行きました。その論争の罠を知りつつも、そこから逃げることなく、一つ一つ丁寧に答えているのです。

そしてそれらの、論争を聞いていて、イエス様が立派にお答えになっているのを見ていた一人の律法学者が心からの尊敬の念を持ってイエス様に尋ねたのです。それはあの有名な「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」と言う問い掛けでした。この問いかけとイエス様の答えによって、これらの論争に終止符を打ったのです。この問い掛けの後にはもう、誰も問い掛ける人はいなかったのです。一番大切なことを教えてもらったからです。

その後、◆ダビデの子についての問答◆律法学者を非難すると言う小見出しが続きますが、ここはもう論争ではなくて、イエス様が、弟子達に対して、律法学者達の考え方の問題を指摘して非難し、彼らに注意するようにと注意を促しているのです。ですから、論争は、律法学者の尋ねた第一の掟の問いかけで終わっているのです。

イエス様はさすがに、この論争の連続に疲れたのかもしれません。異邦人の庭と婦人の庭との間にある美しの門の近くで座って休んでいました。そこからは賽銭箱が良く見えました。そこでしばらく、人々が賽銭箱に献金しているのをぼんやりと見ていたのかもしれません。イエス様にとっては嵐が過ぎ去った後の静かな時間であったかもしれません。そしてそのとき美しいものを見たのです。それはやもめが、自分のもっているほんのわずかな献金を、精一杯捧げている姿でした。イエス様はその姿を見て、弟子達に、捧げると言うことがどういうことなのかを静かに話したのです。

今日の聖書の箇所は、論争のピークの箇所から、それが収まる静かな世界へと移る箇所です。そこでイエス様は何を見ていたのか。何を思っていたのかが語られている場所です。前回どんな論争があったのかと言えば、まず、ぶどう園と農夫の喩えの論争でした。次に、皇帝への税金の話し、そして、復活についての問答でした。どれも厳しい背景を持った論争でしたので、それらが終わった後の、イエス様の休息のときに見た、やもめの献金の姿が、とても、信仰的で、美しい姿に見えて来たのかも知れません。これが学者でもなく、宗教家でもなく、金持ちでもない、貧しい女の人の上に現れてきて、イエス様の賞賛を得るものとなり、聖書の上で語り継がれる人となったのです。本人はもちろんそのことには何も気がついていないでしょう。ですが、神様はそれを見ていたのです。私たちも、自分達が気がつかないところで見ていてくださいます、神様のことを思って、信仰生活を正しく歩んで生きたいと思うのです。

今日の聖書の箇所に戻りますと、最初に語られたのは、最も重要な掟についてです。これは律法学者達の間でもよく議論されていたことだと思います。なぜなら、モーセに与えられた神様の言葉は、律法学者達の間で、613に分類され、研究されてきたのです。律法学者は、信仰を教える宗教家であるよりは、その戒めの規定を良く知って、生活にどのように反映させたらよいかを研究している法律学者のようなものです。ですから、律法学者にとって、それを知識としてよく知っていることが大切であって、神様の御心を行う事は、また別の話だったのです。このように律法学者達の間で、その律法を細かく厳密に理解しようとする人々がいる一方で、もう少し信仰的にとらえて、それをまとめるとどういうことなのか、その中で大切な事は何なのかを問い掛けている律法学者もいたわけです。ダビデは詩篇15編の中で、その613を11に減らしました。イザヤはそれをイザヤ書33:15で6つに減らしました。ミカはミカ書6:8で3つに減らしました。その三つとは、1、公義を行い 2.慈しみを愛し、3.へりくだってあなたの神と共に歩むことであると言いました。ハバクはハバク書2:4で全てをひとつにしてこう言いました。それは、「義人はその信仰によって生きる」と言うことです。このように、聖書全体が言っていることをまとめるとどうなるかを尋ね求めている人は多くいたのです。そしてそれが、律法学者の間ではよく問題になっていたのです。

今日の聖書でイエス様に問い掛けてきた律法学者もまた、そのような答えを求めている人だったのです。そして、他のパリサイ人やサイドカイ人たちとは違って、謙遜な態度で尋ねたのです。28節です。

マコ 12:28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」

この質問こそ、この律法学者が一番知りたかった質問の答えです。今まで語られた論争はどうでもよかったのです。それに対して、イエス様は余計な事は何一つ言わずに、端的にお答えになりました。29節から31節です。

マコ 12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。

マコ 12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』

マコ 12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

 一番大切な掟は「神様が唯一の神様であることを知り、神様を愛し、隣人を愛しなさい」と言うことだったのです。これは二つの教えのようであって一つのことです。信仰を持つものにとっては、神様を愛する事は隣人を愛することであって、神様を愛していると言って、隣人を愛さないものは、実は神様をも愛してはいないのです。信仰者にとっての大前提は神様は唯一の神様であって、その神様をわたしは愛していると言うことです。それとは違って、わたしは神様を愛さず隣人のみを愛していると言う信仰者はいないからです。ですが、これは不信仰者の中では成り立つ理屈です。信仰者であるならば、その神様を、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、すなわち全ての持てる物の限りを尽くして神様を愛することが大切だと言っているのです。イエス様が、第二の掟『隣人を自分のように愛しなさい。』を言ったのは、律法学者達のように、神様を愛することが一番大切であるといいながら、隣人を愛さない、偽者の信仰者がいたからではないでしょうか。

このイエス様の答えで注意しなければならないのは、単に一番大切な事は神様である、隣人であると言ったのではないと言うことです。一番大切な事は愛することが大切だと言ったのです。神様を愛し、隣人を愛することが大切だと言ったのです。単に大切だと言った場合と、愛しなさいと言った場合ではどう違うのでしょうか。それは単に大切であると言った場合には、まだ何かと比較しているのです。あれと比べてこちらのほうがいいという考えです。言わば、考え方が相対的なのです。それに対し愛しなさいと言われた場合、愛するものはその対象と一つになるのです。何かと比較するのではなくて、もう自分自身が相手と一つになっているのだから、絶対的なものになるのです。愛するものは、何かと比較して愛するのでも、計算して愛するのでもないのです。唯その対象と一つになろうとして愛するのです。ですからそこには比較も打算もないのです。それは、無償の愛であり、無条件の愛であるのです。たとえ相手がどうあろうとも、愛するのが愛なのです。イエス様の教えは、そのように愛しなさいと言うことです。むしろ、神様とか隣人とかと言う言葉よりも愛しなさいと言う言葉に力点が置かれているのだと思います。なぜならば、無条件に愛するものは当然、神様をも隣人をも愛するものとなるからです。

そのイエス様のみ言葉を聞いた律法学者はこう答えて言いました。

マコ 12:32 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。

マコ 12:33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」

 たぶん、律法学者達の意見の中には、一番大切なのは神様に十分な捧げものをすることが大切なのであると言う考え方もあったのだと思います。これは今の教会でも、愛することを忘れてしまって、いかに大きな奉仕をするか、いかに大きな献金をするかと言うことが一番大切なことになってしまっている人々もいることを思い起こすのです。その世界は相対的な世界なので必ず、比較し、人を裁くことが起こってしまいます。この律法学者は、それよりも愛することのほうが優れていることを認めたのです。的確に理解したのでした。そして35節です。

マコ 12:34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

 この論争は、これで終止符が打たれたのです。「唯一の神」と「愛する」ことが全ての答えだったのです。

その後イエス様は、弟子達に向かって、律法学者達が言っているダビデの子の問答であるとか、律法学者の偽善について話をし、その姿勢を非難しました。そこには、まだ大勢の群衆がいたようです。ですが律法学者や祭司長たちは退散したのだと思います。そのような中で、イエス様が律法学者達の欺瞞や偽善を非難するのを聞いていた人々は、イエス様の言葉を喜んで聞いていたのです。人々もまた、このような律法学者たちの欺瞞と偽善に苦しめられており、不満を持っていたのだと思います。

さて、そのような批判も終わり、群衆も解散して、イエス様たちは美しの門の近くで、座って休んでおられました。多くの論争の中で疲れたのだと思います。そして向かいにある賽銭箱に人々が献金している姿をぼんやりと見ていたのだと思います。賽銭箱は異邦人の庭から美しの門を通って婦人の庭に入ったところにラッパの形をした13の賽銭箱がありました。そのラッパの口に多くの人々がやってきて、捧げものをしたのです。その中で、イエス様は一人の婦人に目を留めました。41節と42節です。

マコ 12:41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。

マコ 12:42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。

  イエス様は、大勢の金持ちが沢山賽銭箱にお金を入れているのを見ていました。金持ちでなくても、普通の人でも捧げものはかなり無理をして、多く捧げられていたようです。そして、その献金の硬貨の音が、これ見よがしに聞こえていたのだと思います。多く捧げたものは、自分は神様から多く許され多く愛されているだろうと言う満足を持って、捧げていたのだと思います。それは、今の私たちでも同じことだと思います。ですが、そこに一人の貧しいやもめが来てレプトン銅貨2枚すなわち1クァドランスを入れたと書かれています。レプトン銅貨は最小の貨幣です。そしてその二枚の1クァドランスは今の価値で1円くらいのものだそうです。イエス様はそのお金が、賽銭箱に落ちる音で、聞き分けたのかもしれません。このやもめは、銅貨2枚のうち1枚ではなくて二枚とも捧げたのです。それを見ていたイエスさまは弟子達に言いました。43節と44節です。

マコ 12:43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。

マコ 12:44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

 イエス様は、先ほどまでは、律法学者達の長い衣の見せかけや、上座に座りたがることや、やもめの家を食い物にすることや、見せかけの祈りなど、律法学者達の偽善を言いながら、それに注意するように言っていたのですが、今度は賽銭箱の前での金持ち達の偽善に嘆いていたのかもしれません。自分がどんなに多くを捧げているか、どんなに律法を守り、正しく生きているかなどを大勢の人々の注意を引きながら、捧げているその姿勢を見たのかもしれません。そのような中で、貧しいやもめが、周りの目から隠れるように、ただ神様だけを見つめて、持っている全てのお金、2枚の銅貨を捧げるのを見て、イエス様は、その心に本当の信仰心を見たのかもしれません。有り余る中から捧げられるものは、神様は喜ばれないとはよく聞くことです。また、捧げた金額よりも、残った金額を神様は見ているとも言います。むしろ、自分が傷つくほどに捧げられるものを神様は喜んでいるということです。それは金額の大小ではなく、その捧げものがどれだけの犠牲を払ってなされているかと言うことになるのだと思います。愛もまたそうです。マザーテレサもまた、自分が傷つくまで捧げる愛の尊さを繰り返し言っています。そしてそれを続ける為には、祈りなくしては続けられないのだとも言います。本当の献金もまたそうなのだと思います。あまり苦しい思いをしないで、気軽に出来る献金ではなくて、祈らなければとても捧げられないような献金が本当の献金なのだと思います。捧げた後、どうなるか分からない、でも神様に委ねる、と言うような捧げものが本当の捧げものかもしれません。まさにこの、やもめの女はそれをしたのです。わずかレプトン銅貨2枚に全財産の思いを乗せて、全てを捧げきったのです。イエス様はその信仰的な姿勢を喜ばれたのです。神様に委ねきったその姿に感動されたのだと思います。そして「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。」と言われたのです。私たちの持っているものは、全て神様から与えられたものであるとは思っていても、それでも自分も苦労をしたのだから、自分のものと思ってもいいだろうという気持ちがどこかにあるものです。献金は与えられたものをお返しするだけなのだからと、頭でわかっても本当にそのような気持ちで献金することは難しいものです。ですから、献金はその金額ではなく、その姿勢によって、信仰の深さを測るインジケーターにもなりうるのかもしれません。本当に捧げられる者でなければ、本当に委ねる者となることができないのです。本当の信仰者は、本当に捧げるものであり、本当に委ねるものなのです。

 今日の聖書の箇所では、一番大切なことと、捧げることについて学びました。一番大切な掟は、唯一の神様を信じ愛することと隣人を愛することでした。そして、捧げる事は金額の大小ではなくて、その捧げる心の大切さでした。この二つの話は、別のことを話しているようで、実は同じことを話しているような気がするのです。イエス様に尋ねた律法学者が、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」と言った事は、このやもめの女の出来事の中で、心を尽くし、思いを尽くして捧げ委ねる事は、心のこもらないどんなに大きな捧げ者よりも優れていますと言い換えることの出来る言葉ではないかと思うのです。捧げ物もまた、そこに神様に対する本当の愛がなければ、無に等しいと言うことになるかもしれません。愛することの大切さを、また教えられた出来事でした。

(一分間黙想)(お祈り)

私たちに御言葉を与え、あなたに似たものへと作り変えてくださいます天の父なる神様。今日のみ言葉の恵みに感謝いたします。今日は信仰の一番大切なことを教えられました。あなたは唯一の神様であり、私たちに何よりもまず、あなたを愛するようにと教えられました。あなたを心から愛するものには必要なこと、必要な知恵、必要な信仰はすべて与えられるのです。私たちがこの戒めを守れば、聖書全体の戒めを守るのです。そして同様に、隣人を愛することも教えられました。愛し方を知らないと言う人もいるかもしれません。それは、自分を愛するように愛することだと教えられました。これは戒めです。掟です。信仰者であるならば、行わなければならないことです。このことをいつも振り返り、日々、神様を愛していたか、隣人を愛していたかを省みるものでありますように。また、捧げることがあなたを愛し、信頼し委ねることであることを信じます。あなたの愛に対して、そのような応答が出来ますように、導いてください。今日のみ言葉の恵みに感謝いたします。この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


<<聖書の箇所(新約聖書:マルコによる福音書)>>

 

◆最も重要な掟

 

マコ 12:28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」

 

マコ 12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。

 

マコ 12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』

 

マコ 12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

 

マコ 12:32 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。

 

マコ 12:33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」

 

マコ 12:34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

 

◆ダビデの子についての問答

 

マコ 12:35 イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。

 

マコ 12:36 ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』

 

マコ 12:37 このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。

 

◆律法学者を非難する

 

マコ 12:38 イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、

 

マコ 12:39 会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、

 

マコ 12:40 また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

 

◆やもめの献金

 

マコ 12:41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。

 

マコ 12:42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。

 

マコ 12:43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。

 

マコ 12:44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」