家庭礼拝 2012年6月13日 マルコ11章20−33 権威についての問答
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起
今日の箇所は、イエス様たちがエルサレムについて3日目になります。1日目はホサナと叫ばれつつエルサレム神殿までやってきました。2日目は、神殿から商人を追い出しました。そして今回の3日目なのです。前回の話でもありましたように、2日目に、ベタニアから神殿に行く途中に枯れたイチジクの木を見ました。ペトロは驚きました。イエス様がイチジクの木を呪ったから、枯れたのだと思いました。そして、「先生御覧下さい。あなたが呪われたイチジクの木が枯れています。」と言いました。イエス様がユダヤ民族を意味するイチジクの木を、実がならないと言う理由で呪われたのかどうかは、前回、いろいろな角度からお話しました。今日はその後の、「神を信じなさい」と言った信仰の問題から入ろうと思います。
イエス様は、このような戒めや教えを、いろいろな場面で繰り返し弟子達に教えられました。ですから同じような言葉が違う場面で時々出てきます。聞いていた弟子達も、その言葉がどの場面で言われていたのか混乱しながら、何かの出来事の場面に関連付けて、その教えを教えています。ですが、もしかするとその背景となる場面と、イエス様の伝えたメッセージとは直接関係の無いこともあるのですが、理解しやすいように、そこに一緒にまとめてあると言う記述も良く見られるのです。9章の後半などは、そのような傾向のある、似たような話をまとめた箇所が出てくるのです。ある説では、この福音書が出来る前に、イエス語録の様なものがあって、それを参照していたかもしれないと言うことです。イエス様の御言葉がある程度分類されて、記録されていたような話もあります。そこから御言葉を取り出すと、一まとまりのメッセージが出てくるのかもしれません。
今日の話にもそれに似たような傾向が少し見られるところです。山をも動かす信仰の話は、前回もお話したように、マタイ17章20節にも「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、ここからあそこに移れと命じても、そのとおりになる。」とあるし、また、25節の話では「また、たって祈るとき、誰かに対して何かうらみに思うことがあれば、許して上げなさい。」と言う言葉はイチジクの木が枯らされたことを思えば、どうしてこの言葉がここに出てくるのだろうと不思議な気がします。むしろ矛盾するのです。たぶんこれは、信仰と許しと言う一つのパッケージの中から持ち出された言葉のような気がします。ですから背景とは別に、ここに言われているメッセージを独立に考えて、その意味を考えていった方が、理解しやすいのではないかと思います。
承
それでは、22節の「神を信じなさい」と言うところから始めたいと思います。22節と23節です。
マコ 11:22 そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。
マコ 11:23 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
ここでは、イエス様は疑わず信じることで、どんなに大きなことが出来るかを語っています。それは山をも動かす信仰、それは象徴的な意味ではなく、具体的に、「立ち上がって、海に飛び込め」と言えば、そのとおりになると言うほどの信仰です。しかも誰にでもできると言うのです。すなわち、ありえないこと、起こりえないことが、信じさえすれば起こるのだと教えています。信仰を持つものならば、誰でもその信仰によって、かなえて欲しいと思っている願いを持っているわけですが、本当に、願い祈ることのみによってそれが起こったでしょうか。本当にそれが起これば、とても嬉しいことなのですがどうでしょうか。当然、ありえないこと、起こりえないことは、そう簡単には起こらないと思っているので、なかなか実現しないのではないでしょうか。イエス様は、誰でもどんなことでも、信じれば実現すると言ったのですが、なかなか起こりません。実は、それには条件がありました。それは少しも疑わない、と言う条件でした。これさえクリアすれば誰でも何でも実現するのですが、その少しも疑わない、と言うことが誰でも出来ることではなかったのです。少しも疑わないで信じるためにはどうしたらよいのでしょうか。または、少しも疑わないで信じた人はどうするのでしょうか。それは、少しも疑わないで信じた人は、既にそれが叶えられたものとして、行動しているのです。少しも疑わないで信じるというのはもう祈りではありません。もう叶えられているのですから祈りではないのです。金持ちになりたいと願う人は、「金持ちにしてください」と祈るのではありません。「金持ちにしてくださって感謝いたします」と祈るのです。そして、実際はまだ貧しくとも、あたかも金持ちのように、気前よく持っているものを豊かに分かち合うのです。物惜しみしないのです。そのような人にその願いが実現して、いつの間にかお金が集まり金持ちになっていくのです。ですからイエス様は、24節でこう言いました。
マコ 11:24 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
このように、私達の祈っているような願いはいくら真剣に願っても、願いのままなのです。実現する願いは、実現したとして感謝を捧げる願いなのです。それを疑わないですることなのです。私達はもしかすると、祈り方を間違えているのかもしれません。実現したものとして祈ることを、アサーションと言います。これは一種の宣言です。自分は既に何かを得ていると宣言することです。有名なのは、イエス様の、「私は道であり、真理であり、命である。」と言う言葉です。これがアサーション、すなわち宣言です。このような宣言の祈りが、既に得られたと信じて祈る祈りなのです。それでも、形だけまねても本当に、少しも疑わないで信じることは出来ません。アサーションは出来たとしてもその後が続かないのです。金持ちになったと信じて、お金を豊かに使い、豊かに捧げることができないのです。ここで、不信仰が暴露されてしまうのです。これを乗り切らないと山をも動かす信仰には到りません。ですがイエス様の教えられたことは真実なのです。「少しも疑わず、自分のいうとおりになると信じるならばそのとおりになるのです。」そして、「だから、祈り求めるものは既に得られたと信じなさい。そうすれば、その通りになる」のです。私達の祈りをもう一度見直してみる必要があるのかもしれません。請い願うことが祈りを実現させるとは限らないのです。ただし、このことを強調して、この世的なご利益宗教、新興宗教があることも確かで、それが本当にイエス様教える信仰の道なのかも考える必要があります。注意の必要なところです。
ところで、25節の話は、今まで話されていたことと全く違うような気がするのです。話の内容は突然許しの話に入ります。25節です。
マコ 11:25 また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」
ユダヤ教では、膝まづいて祈ったり、ひれ伏して祈ったりするよりは立って祈ることの方が一般的だった様です。この箇所は、前の山をも動かす信仰の、「信じ、祈る」のパターンから、「祈り、許す」のパターンに入ってしまい、本来ここに入るべきでなかったものが、「祈り」と言う共通項を通して一緒になってしまったようです。この言葉でまず教えられるのは、祈りにおいて、決して恨み言を祈ってはいけないと言うことです。詩篇にもよくあることなのですが、敵に対する恨み言を述べて、それが滅ぼされるように願う祈りは、イエス様の新約においては禁じられているのです。禁じられていると言うよりも、もっと一歩進んで、許しなさいと言われているのです。その理由は、「そうすれば、あなた方の天の父も、あなた方の過ちを許してくださる」からです。そしてイエス様こそが、この言葉を完全に実践した方です。それは、私達の過ちを許していただくために、私達の犯した罪の為、恨むことなく、十字架にかかって下さったからです。
さらにこの言葉は、恨み言を祈ってはいけないと言うだけではなく、祈っているとき、誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、許しなさいと言っています。祈っているときにも、心に恨み事があると、それが祈りの途中に顔を出すものです。そして祈りを妨げます。そのようなときには、理由はどうあれ、まず許しなさい、と言うことです。赦すことの大切さは、主の祈りの中で赦すように教えられていることからも十分に分かります。「我らに罪あるものを赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」なのです。さらには山上の説教のときに、ルカの6章37節では、イエス様が「赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」と教えられています。今日の聖書の箇所では、特に祈りの時に、その恨みのことを思い出した場合のことを言っています。これと似た様なことが、マタイの5章23節から25節にも書いてありますが、こちらは自分が恨みを持っているのではなく、相手が自分に恨みを持っているのを思い出したような場合です。参考に読んでみますと。
マタ 5:23 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、
マタ 5:24 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
マタ 5:25 あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。
こちらは、祈りの途中で、ではなくて、供え物を捧げようとする途中の話です。また、裁判所に行く途中の話しです。そのとき理由はどうあろうとも終点に行く前に、取り返しのつくうちに、その途中で、仲直りし、和解しなさいと言うことが言われています。この仲直りのときは、相手を赦すだけではなく、「私が悪かった」と言って、自分が赦してもらうことも必要になります。イエス様の教えにとって、許しと和解こそが、中心のメッセージなのです。自分にしろ、相手にしろ、恨みを見出したら、どう恨みを晴らそうかではなく、どう赦しあい、和解しあうことが出来るだろうかと考えて行うのがイエス様の教えなのです。特に、祈りの時に恨みに思っている人を思い出すというのは、神様が、互いに許しあうようになるために思い出させているのかもしれません。私達はこの教えを大切に守る必要があるのです。
転
さて、イエス様たちはエルサレム神殿に着きました。そこにはユダヤ社会の最高会議であるサンヒドリンのメンバーの代表が、イエス様の行いを調べる為に遣わされてやってきていたのです。イエス様の為すことはその社会にとって大きな問題となっていたのです。27節から28節です。
マコ 11:27 一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、
マコ 11:28 言った。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」
イエス様の所にやってきた、祭司長、律法学者、長老達と言うのがまさにサンヒドリンの構成メンバーで、それらの人たちから選ばれた71人の人達で構成されていました。ですからこれらの人がそろってくると言うのは、サンヒドリンから公式に遣わされてやってきた人たちなのです。それは前日の神殿から商人を追い出す騒ぎの中で、商人たちはサンヒドリンに訴えたのかもしれません。それで、この人たちはイエス様に、「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」と、問い詰めたのです。答えによってはとらえようとしたのです。たぶんこのとき神殿では、このことの成り行きがどうなるかと、追い払われた商人やら、イエス様に賛成した民衆やらが、取り囲んで見ていたような気がします。サンヒドリンのメンバーの問いかけの裏には、「その権威を与える権限は自分達が持っているはずなのであるが、お前に誰がその権威を与えたのだ。天からなのか、人からなのか。天からであろうと、人からであろうとその権威を与える権限を持っている代理人は私たちなのだ。」と言う傲慢な考え方が潜んでいるのです。つまり、どちらで答えようと、相手の質問の罠にはまってしまうのです。するとイエス様は、こう答えたのです。29節から30節です。
マコ 11:29 イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。
マコ 11:30 ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」
イエス様は、相手の考えていることを逆手にとって、相手をジレンマに陥らせたのです。律法学者達はイエス様に「あなたの権威は天からのものか人からのものか」と答えさせようと思ったら、逆に、「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、人からのものだったか」と問われたのです。つまり、自分達の作ったジレンマの罠に落ちてしまったのです。そしてこう言いました。31節から33節です。
マコ 11:31 彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。
マコ 11:32 しかし、『人からのものだ』と言えば……。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。
マコ 11:33 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
結局、律法学者達は、天からのものだと言っても、人からのものだといってもうまく行かないジレンマに陥ってしまったのです。それで、イエス様に「分からない」と答えるしかなかったのです。この答えをする時には,大きな屈辱を感じただろうし、それが底知れぬ恨みとなっていたかもしれません。この律法学者達は、なぜこんなにも無力な返事しか出来なかったのでしょうか。それは、その問題に直面しようとしなかったからではないでしょうか。人にどう思われようと、信仰的な真実を求めて答えたならば例え反対されても、迫力のある解答が出来たのではないでしょうか。ところが彼等の行ったことは、人からどう言われるだろうかということが基準となっていたのです。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言われるだろうし、『人からのものだ』と言えば、群衆が「ヨハネは本当の預言者だ」と騒ぎ出すのが怖かったのです。結局、自分達の考えと言うものがなかった人たちなのです。相手に合わせていただけなのです。
イエス様は彼らとは全く違っていました。イエス様の権威は神様から与えられたものであることをはっきりと自覚し、世の人々の考えや、サンヒドリンの権威などには微塵も揺らぎが無かったのです。それはいつも神様の下にたっているという軸がしっかりと立っているからです。私達もまた、神様の下にしっかりと立つことが出来るならば、何も恐れることなく、権威を持って行動できるに違いありません。全ての権威は神様の元から来るからです。
結
今日の聖書の箇所では、3つの事を教えられました。一つは、疑わずに信じればどんなことでも叶えられることを教えられました。疑わないことが大切でした。そして二つ目は、祈りのとき誰かに対して恨み言を思い出したなら許しなさいとの戒めを与えられました。許すものは許されるからです。最後に三つ目は神の権威の下にあるものは決して揺るがないと言うことでした。反対に神の権威の下に立たないものは弱くなるのです。これらのことを含めて、私達の祈りを祈ることが出来るならば、その祈りはとても力強いものになるはずです。私達の祈りが、もっと力強いものになるために、この御言葉を何度も思い出しつつ祈り続けたいと思います。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。今日は、疑わず祈ることについて、許すことについて、神様の権威の下にあることについて学びました。私達の信仰の基本的なことですが、どれ一つきちんと守ることの出来ないものです。いつの間にか、そのようなことを卒業しているつもりになっていますが、実はまだ、本気になって取り組んでもいないことなのです。神様、どうか私達の信仰が、あなたの下にあって、これらのことをしっかりと受け止めながら歩んでいくことが出来ますように。そして力強い祈りの生活をすることができますように導いてください。
世には考えられないようなことが良く起こります。最近も通り魔事件が起こりました。社会に対する恨みがつのっているのだと思います。死ぬ前に恨みを晴らしたいと言う思いがあるのだと思います。ですが主よ、あなたは私達に、恨みを思い出したら許しなさい。許されるために、と教えられました。どうかあなたのこの教えが、あなたを信じるものだけではなく、多くの恨みの中にあって苦しんでいる人々のうちにも届けられますように。人々の心に平安が与えられ、平和な社会が与えられますように。この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:マルコによる福音書)>>
◆枯れたいちじくの木の教訓
マコ 11:20 翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。
マコ 11:21 そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」
マコ 11:22 そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。
マコ 11:23 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
マコ 11:24 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
マコ 11:25 また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」
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◆権威についての問答
マコ 11:27 一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、
マコ 11:28 言った。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」
マコ 11:29 イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。
マコ 11:30 ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」
マコ 11:31 彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。
マコ 11:32 しかし、『人からのものだ』と言えば……。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。
マコ 11:33 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」