家庭礼拝 2012年6月6日 マルコ11章1−19 エルサレム入場
賛美歌16 われらの主こそは 聖書朗読 祈り 奨励説教 一分黙想 全員祈り 主の祈り 賛美歌151 主をほめたたえよ
起
いよいよイエス様たちは、エルサレムにやってきました。ここでイエス様が何をしようとしていたのかは、弟子達も何となく気づいていました。イエス様が3度予告したように、捕らえられ、殺される為に来たのです。今日読んだ箇所には、エルサレム入場、イチジクの木を呪う話、宮清めの3つが書かれています。私の新約聖書の中での一番の疑問は、このイチジクの木を呪う話です。この話がエルサレム入場と宮清めと言う、大イベントの間にひっそりと差し込まれているのはどうしてでしょうか。そして、そこで行われたイエス様の行為が私には理解できないのです。いろいろ注解書を読んでも、考えてみても理解できない不思議な行為なのです。このことは読み進める中で、また話してみたいと思います。
さて、共観福音書を読む限り、イエス様は、このエルサレム入場で、初めてエルサレムに来たと思われます。ですが、ヨハネによる福音書だけは違うのです。ヨハネ2章13節にあるように、イエス様の最初にエルサレムに登場するのは、活動の初期のカナの婚礼の後なのです。この時は過越祭で、しかも、そのとき既に宮清めを行っているのです。エルサレム入場のときではないのです。二回目に行ったのは、ヨハネ5章1節にあるように、再びカナに行って、役人の息子を癒した後です。その時も過越祭で、安息日にベトサダの池で病人を癒しました。3回目はヨハネ7章10節です。5千人の食事の後です。この時は、仮庵祭のときで、イエス様は弟子達とは別に、隠れるようにしてエルサレムに入り、神殿の境内で教えられました。そして4回目がヨハネ12章12節のエルサレム入場のときで、ラザロの復活の後です。この時は神殿では何もしていないのです。ただ、ギリシャ人がイエスに会いに来たことが述べられているだけなのです。そして、イエス様が弟子の足を洗ったことが語られています。ヨハネ福音書では何も華々しいことは書かれていません。むしろ死を前にした、遺言のような話が続くのです。
このように、イエス様は、3年半の宣教生活の間、毎年エルサレムには来ていたようです。その中で、着々と十字架への道を準備されていたようです。このように、共観福音書とヨハネによる福音書ではエルサレムに関する記事が大きく異なりますが、共観福音書ではエルサレム入場の話を際立たせる為に、それ以前のことは書いていなかったのかもしれません。
承
さて、聖書に戻り、イエス様たちはエルサレムの近くのオリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかりました。どちらもエルサレムからは直ぐ近くです。ベトファゲは安息日に出来る旅行の範囲内にありましたので、エルサレムから1.6キロメートル以内の距離です。ベタニアは、過越の巡礼者でエルサレムがいっぱいになったときの公認の宿泊所の一つでした。死海のほとりのエリコからエルサレムに登っていく途中のふもとに、まず大きな町のベタニアが現れます。さらにオリーブ山の山頂を目指すと小さな村のベトファゲが現れ、さらに上るとオリーブ山頂上です。ここからは目の前の谷を越えてエルサレムが良く見えます。山頂からはなだらかな下りを降っていって神殿の裏側にあるケデロンの谷に降ります。そして少し急な坂を登って、エルサレムに入るのです。オリーブ山は標高800mエルサレムは標高700mその間にケデロンの谷が横たわっているのです。
そのベトファゲとベタニアあたりまで来たとき、イエス様は弟子たちを使いに出すとき、こう言われました。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」
向こうの村と言うのはベトファゲでしょう。イエス様が初めてエルサレムに来たとすれば、イエス様がこのように言ったのは、イエス様の予言する奇跡になりますが、イエス様が何度もエルサレムに来ていたとすれば、あらかじめ準備をして、頼んであって、その合言葉のようなものも決めていたのかもしれません。二人の弟子が言われたように行くと、表通りの戸口に子ロバのつないであるのを見つけたので、それをほどきました。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ロバをほどいてどうするのか」と言ったので、二人が、イエス様の言われたとおり話すと、許してくれました。二人が子ロバを連れてイエス様のところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエス様はそれにお乗りになった、と書かれています。イエス様は、最後の時をにらんで、全部準備していたのだと思います。この子ロバも、過越の最後の晩餐をした家もベタニアで香油を注がれたシモンの家もあらかじめ手配をして、この最後のときに臨んでいたのだと思います。
イエス様はなぜロバに乗られたのでしょうか。それには象徴的な意味がこめられていました。ゼカリア書9章には「諸国民の裁きとイスラエルの救い」と言う小見出しの付いた章があります。その9節にはこうあります。
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声を上げよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられたもの。高ぶることなく、ロバに乗ってくる。雌ロバの子であるロバに乗って。」
このように、ロバに乗ってくるのは、凱旋する勝利の王なのです。そしてロバは平和の乗り物なのです。馬は戦いの乗り物であり、ロバは平和を示すのです。イエス様がロバに乗っていかれると、多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷きました。そして、前を行く者も後に従う者もこう叫びました。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
人々は、ホサナと叫んでイエス様を賛美し迎え入れました。このホサナと叫んだことはルカ以外の3つの福音書全部に書かれています。ルカ福音書19章37節では、「イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。『主の名によってこられる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光』」と叫んでファリサイ派の人々からひんしゅくを買ったことが書かれています。賛美していたのは民衆ではなく弟子の群れであったと言うのです。ルカはどちらかと言うとこのことを控えめに語っていますが、民衆がホサナと叫んだことはたぶん本当なのだと思います。ですが、そのホサナの意味が本当に賛美だったのでしょうか。多くのエルサレム入場の話が、イエス様の栄光と歓喜に満ちた賛美によって迎い入れられた事を語っていますが、その割には、その後、簡単に捕えられても、誰も騒がず、一体この歓喜して迎い入れた人々はどこに行ったのだろうと思っていました。ある注解書では、「このホサナという語は一貫して誤解されてきた。あたかも賛美のように引用され、用いられてきた。しかし、この言葉は、ヘブル語の、今救ってくださいの単なる翻訳に過ぎない。」と言っています。これは民衆が、賛美の声を上げて、ホサナと言って迎え入れたのではなく、イエス様の癒しの奇跡のことを聞いて、集まった人々が、イエス様に、「イエス様癒してください。今救ってください。」とお願いし叫んだだけだと言うことになります。これはどこででも起こったことです。盲人バルティマイが叫んだ叫びと同じだと言うことになるのです。この後の熱狂の落差を考えると、この方が自然な気もします。イエス様が、この熱狂的な叫びの中でエルサレムに入ると、もう静かになっているのです。そして、11節にはこうかかれています。
マコ 11:11 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。
何事も無かったように、イエス様たちは周りの様子を見て帰って行ったのです。このときは周りの様子を眺めて、次の日の宮清めに備えたのだと思います。少し戻ったベタニアには先ほど言った様に手配してあったシモンの家があったのです。
転
そして、12節からは、私を悩ます「いちじくの木を呪う」話が入ってきます。
マコ 11:12 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。
マコ 11:13 そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。
マコ 11:14 イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
今回の話は、ここまでですが、途中を飛ばして続きの20節からを読んでみると、「枯れたいちじくの木の教訓」としてこう書かれています。
マコ 11:20 翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。
マコ 11:21 そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」
マコ 11:22 そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。
マコ 11:23 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
マコ 11:24 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
マコ 11:25 また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」
皆さんは、この話をどのように理解しているでしょうか。私にとってはとても理解しにくいのです。まず、イエス様が、とても理不尽なことで、イチジクの木を呪い枯らしてしまったことです。これが信じることの大切さを伝える為であったとしても、そんなことをする必要は無いのです。それと、イエス様は、自分の為に力を用いることはありませんでした。それが空腹になったと言うつまらないことで、その神の力を用いたと言うのは不思議です。最後に、誰かに対して何かうらみに思うことあれば、許してあげなさい、と言っていますが、イエス様はイチジクの木に対して、許すことなく呪い、枯らしてしまったのです。私はこれをどうしてもイエス・キリストの行った行為とは思えないのです。何かが違っているのではないかと思うのです。多くの注解書にはこのイチジクの木と言うのは、ユダヤ民族のことをあらわし、葉ばかり茂って実を結ばないユダヤ民族を嘆いたのだ、と言うことが書かれています。そのことがイチジクの木に反映し枯れたのだとも書いています。このように象徴的な意味に捉える方法もありますが、何かこじつけのような気がしてなりません。注解書によっては、理解できないことは無理に理解する必要が無いとさえ書いています。この箇所でのイエス様の大切なメッセージは「祈り求めなさい、そうすればそのとおりになる」と言うことと、「許しなさい、許される為に」です。ですがこれらのメッセージは繰り返し言われてきたことで、他の箇所にも山をも動かす信仰のことが書かれています。たとえば、マタイ17章20節には「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、ここからあそこに移れと命じても、そのとおりになる。あなた方に出来ないことは何も無い。」と書かれており、きょうの箇所と同じなのです。このようなことは何度も言われたことで、必ずしもこの背景と直接関係のある言葉ではないのです。ですから背景は背景で理解していく必要があるのだと思います。背景とメッセージは必ずしも同時ではないのです。このようなことは他の箇所でも多く現れています。
私の個人的な理解はこのように考えています。「空腹だったのはイエス様ではなく、弟子達であった。イエス様は、いろいろなことを良く知っている人でしたから、このイチジクがもう実を結ばないのではないかと思い、近づいて調べられた。そうすると、そのイチジクは思っていたとおり、もう実を結ばない木となっていたので、イエス様は、「誰も、このイチジクからは、食べることが出来ないだろう」と言った。次の日やはり、このイチジクの木は切り倒され、枯れていた。農夫もそのことを知って切り倒したのである。ところが、それを見たペトロは驚いて、あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています、と言った。イエス様は呪ったわけではなく、その木の状態を診断して言っただけであったが、驚いたペトロは、イエス様が呪ったから実現したのだと思った。そして、その理由として、いつもイエス様が言っている信じなさいと言う言葉を思い出した。私はこのように考えており、これならば納得できると思ったのです。これは一種のペトロの誤解であると思うのです。そういうわけで、メッセージとなる祈りなさいと許しなさいに関しては、次回に詳しくお話いたします。
さて、イエス様はエルサレムに入り、宮清めを行います。そこには、見たものでしか書けない様なありありとした詳細が記されています。イエス様はとても怒っています。15から16節です。
マコ 11:15 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。
マコ 11:16 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。
この出来事は、神殿の一番外側の異邦人の庭で起こったと思われます。嘗ては、祈りと準備の場所でありましたが、完全に俗化してしまい、商売をする人たちでごった返していたのです。それも、遠くから旅をしてきた巡礼者達のお金を巻き上げるような、悪どい商売をしていたのです。本当は器物を持って神殿に入ることも、近道をするためにそこを通り抜けることも、宮の神聖を汚すこととして禁じられていたのです。それが野放しになっている無秩序にイエス様は怒られたのです。そしてこう言いました。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」このように言って、商売人を追い払われたのです。イエス様の言っていることは、神殿の規則や聖書から言っても正しいことだったので、誰も抵抗できませんでした。
ところが、祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと陰謀を謀りました。その場では何も出来なかったのです。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエス様を恐れたからです。そして、何事も無く、夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれまたベタニアのシモンの家に行かれたのです。
イエス様が、このような手荒い方法で、宮清めを行ったのは、かなり大胆なことです。普通に考えれば、何の権限も無いものが、既得権を持って商売をしている人たちを追い出したのですから、普通は反抗してくると思うのです。ですが、イエス様が、そこで話されたことは人々の賛同を得て、誰も逆らえなかったのです。それは聖書に基づいたことだったからです。宮に仕える人々は、この商売をしている人々から何らかの利益を得ていたのだと思います。だから、このような無秩序に対して、何も言わなかったのです。ですが、イエス様は、神の子の、責任と権限でこの無秩序に、神の秩序を与えたのです。イエス様の行ったことは神様が行ったこととして受け止められました。私達もまた、聖書に基づいて行うとき、人も驚くような大胆な行為をすることができるのかもしれません。人の思いは移ろいやすいですが、聖書の教えは永遠だからです。聖書の上にしっかりと立ち、聖書のみ言葉に基づいて行うことが出来るのは、なんと力強い確かなことではないでしょうか。
キリスト教神秘主義のエックハルトはこうも言っています。「イエスキリストが宮清めをしたのは神殿だけではない、私達の心をも清めようとしたのだ。私達の心に残る、信仰的に取引をしようとする心、信仰的な打算の心を清めようとしたのだ。」と言う意味の言葉を言っていますが、これも深く印象に残る言葉でした。
結
今日の三つの話、エルサレム入場、イチジクの木を呪う話、宮清めは、比較的難しい箇所でした。特に、エルサレム入場とイチジクの木を呪う話では、新しい知見に基づいてお話をしました。エルサレム入場は、ホサナという賛美の声に迎え入れられたのではなく、癒して下さい、救って下さい、という苦しむ人々の叫びであったであろうということ、を述べました。イチジクの木を呪う話では、イエス様はイチジクの木を呪ったのではなく、次の日に枯れたイチジクを見たペトロが、驚いてイエス様が呪ったから枯れたのだろうという、誤解をしてしまったという理解です。この二つは以前から、疑問に思っていた箇所でしたが、今回静かに思いめぐらす中で、その回答を与えられたような気がします。宮清めからは、聖書に基づくことの大胆さを教えられました。私達は何に対しても、聖書に基づいて大胆になれるのです。そして、信仰に打算があってはならないと思うのです。神の力は大きいのです。それを私達は信じて生きていくことが出来ます。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、今日の聖書の学びと導きとに感謝いたします。あなたは私に、聖書の物語を過大に美化することなく、素直に受け止めることを教えてくださいました。そして、今日の言葉を語ることを与えてくださいましたことを感謝いたします。どうかこれからもまた、聖書を読むことの中に聖霊が働いてくださって、私達の心を開き、大切なことを理解していくことが出来ますように。そして、私達が、いつも聖書の言葉を心に抱いて、大胆に生きていくことが出来ますように導いてください。常識によって支えられるのではなく、ただあなたのみ言葉が私達の心を支えてくださいますように。
日本の国は秩序があり、礼儀正しく、安全な良い国だと思っています。その中にあって、あなたの教えが大切にされていないことを残念に思います。どうか私達が、小さいながらも地の塩、世の光として、その役割を果たしていくことが出来ますように用いてください。多くの人々がその小さな明かりを見て、癒され、導かれますように。
この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:マルコによる福音書)>>
◆エルサレムに迎えられる
マコ 11:1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
マコ 11:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。
マコ 11:3 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」
マコ 11:4 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。
マコ 11:5 すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。
マコ 11:6 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。
マコ 11:7 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
マコ 11:8 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。
マコ 11:9 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。
マコ 11:10 我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
マコ 11:11 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。
◆いちじくの木を呪う
マコ 11:12 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。
マコ 11:13 そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。
マコ 11:14 イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
◆神殿から商人を追い出す
マコ 11:15 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。
マコ 11:16 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。
マコ 11:17 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」
マコ 11:18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。
マコ 11:19 夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。