家庭礼拝 2012年5月16日 マルコ10章32−52 三度目の予告
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起
今日の聖書の箇所は、イエス様が死と復活を予告する三度目の予告の箇所になります。一度目は高い山に登る前に、二度目は山から降りてこられたときに、三度目の今回はエルサレムに行く途中に話されています。そして回数を重ねるごとに、その受難の状況が詳しく語られ、その重苦しさがつのってくるのです。そしてそれに付随するかのように、この予告の後に、必ず、弟子達は愚かなことをしてしまうのです。そのイエス様の受難と死と復活の予告をまるで理解していないことをあらわすかのように、愚かなことをして、イエス様の戒めを受けるのです。最初のときはペトロが叱られました。イエス様が、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者達から排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と予告しました。すると、ペトロはそんなことを言わないように、イエス様をいさめようとして、逆に、サタン、引き下がれ。あなたは神の事を思わず、人間のことを思っている、と叱責されたのです。そして弟子達に言われました。「私の後に従いたいものは、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思うものは、それを失うが、私のため、また福音の為に命を失うものはそれを救うのである。」と教えられたのです。
そして二回目のときは、イエス様が「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と予告しました。人々の手に渡されると言う言葉が加わりました。裏切られるかも知れないことを暗示しました。このときは弟子達は、自分達の中で誰が一番偉いかと議論していたのです。それに対しイエス様は言われました。「一番先になりたいものは、すべての人の後になり、全ての人に仕える者になりなさい。」と、人に仕えられる者ではなく、仕える者、奉仕するものが偉いのだと教えられました。そして今日は3回目の予告です。イエス様はどんな予告をし、弟子達はどんな愚かなことをして、イエス様に戒められるのでしょうか。そしてその戒めの大切な御言葉は何だったのでしょうか。今日はそれを聴いていきたいと思います。
承
イエス様の3回目の死と復活の予告はこのようにしてなされました。32節から34節です。
マコ 10:32 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。
マコ 10:33 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。
マコ 10:34 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」
イエス様がエルサレムに行く途中は、イエス様の姿に悲壮感が漂っていました。弟子達にも、前の二回の死と復活の予告をある程度は理解せざるを得ませんでした。イエス様は孤独でした。そして、誰もイエス様の近くにいることが出来ませんでした。イエス様は、黙って、一人で、悲壮感を漂わせながら、先頭に立って進んでいかれたのです。それを見た弟子達は驚き、恐れたのです。そのような、重苦しい雰囲気の中で語られたのが、3回目の死と復活の予告なのです。イエス様は12人の弟子たちを呼び寄せて、このように言いました。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」
そこにはより詳しい状況が語られていました。それは、イエス様が、異邦人に侮辱され、唾をかけられ、鞭で打たれ、そして殺される、と言うことでした。イエス様は、このことを弟子達に言おうかどうか考えていたのかもしれません。ですが、イエス様は、それを避けることなく、正直に弟子達に話しました。そして必ず最後には、人の子は三日の後に復活すると言ったのです。
このような深刻な話を弟子達にしたのにもかかわらず、弟子達はまた、愚かなことをしてしまいます。ヤコブとヨハネが愚かなお願いをして、ほかの弟子達のひんしゅくを買ってしまうのです。35節から37節です。
マコ 10:35 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」
マコ 10:36 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、
マコ 10:37 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
ヤコブとヨハネの願いとは、何と、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」と言うことだったのです。イエス様が殺されると予告したのに、このようなお願いをするということをどのように理解すればよいのでしょうか。二回目の予告のときも、「一番先になりたいものは、すべての人の後になり、全ての人に仕える者になりなさい。」と教えられたばかりなのに、どうしてこのようなことを願ったのでしょうか。イエス様の、右と左に座ると言うのは、イエス様の神の国が現れたとき、イエス様の次に偉い右大臣と、三番目の左大臣にしてくれとお願いしているのです。ヤコブとヨハネにはそれに値すると言う自信があったのだと思います。重要な三人の弟子ペトロ、ヤコブ、ヨハネにも選ばれているし、ヤコブとヨハネは最初にイエス様に従ってきた弟子であり、その出身も、雇い人のいるような家の、比較的裕福な人たちなのです。そしてイエス様から雷の子とあだ名されるように、大きな声の指導的立場にある人たちだったのです。ヤコブとヨハネの願いは、必ずしもこの世のことではなかったかもしれません。イエス様に、栄光をお受けになるとき、と言ったように、それがイエス様が死んでからのものであっても、と言うことであったかもしれません。それに対し、イエス様はどのように答えたでしょうか。38節から40節です。
マコ 10:38 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」
マコ 10:39 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。
マコ 10:40 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
イエス様はヤコブとヨハネに対して、あなた方は、自分が何を願っているか、分かっていない、と言いましたが、もしかするとヤコブとヨハネはそれを分かっていたのかもしれません。「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」と言われたとき、二人はきっぱりと「できます」と答えたのです。イエス様の言った杯と洗礼とは、イエス様の受けるべき苦難のことです。この二人はそれを知った上で、出来ますと答えているのです。イエス様はその答えを否定しませんでした。その願ったことすらも否定しなかったのです。二回目の誰が偉いのかと言っていたときの話とはちょっと違うのです。ヤコブとヨハネは、エルサレムに向かう途中のイエス様の悲壮な孤独な姿を見て、自分達は、例えイエス様がとらわれて殺されたとしても、イエス様に従っていきますということの表明をしたのかったのもしれません。それがイエス様を支える一番のことだと思ったのかもしれません。どんなことがあっても、あなたと一緒にいますと言いたかったのかもしれません。イエス様は、ヤコブとヨハネの願いは何も否定せずに、こう言いました。「わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
イエス様は二人の願いを否定せずに、それは私の決めることではない、神様が定められた人々に許されるのだと答えたのです。イエス様は二人の願いの真意を理解したのだと思います。ですが、他の弟子達はそのことを理解できるはずもありませんでした。ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた、と書かれています。それでイエス様は、二回目のときと同じように、弟子達に教えられました。42節から45節です。
マコ 10:42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
マコ 10:43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
マコ 10:44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
マコ 10:45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
イエス様が教えられたのは、二回目と同じく、仕えるものになりなさいと言うことです。イエス様は、あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい、と教えられたのです。ですが大きく違うことが一つあります。それは45節なのです。これはイエス様でなければ語れない言葉です。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」と言いました。多くの人の身代金として、自分の命を捧げる為に来た、と言ったのです。これはとても意味深い言葉だと思います。イエス様は、私達の身代金を払いに来たのです。その身代金を誰に払おうとしているのでしょうか。それは決して神様ではありません。それはサタンなのです。私達は、自分では気づいていないのだけれども、サタンにとらわれているのです。イヤむしろサタンにされているのです。サタンでありながら、自分がサタンであることに気づかずまたそれを悔いているサタンなのです。そのような惨めなサタンを開放する為に、イエス様はその身代金として、イエス様の命を捧げに来たというのです。イエス様はなぜそのような邪悪なサタンを滅ぼさないのでしょうか。それは、サタンを滅ぼせば、私達も一緒に滅びるからです。私達を滅ぼさずに救う為に、イエス様の命の身代金が必要だったのです。このような犠牲を払って、私達を救い出してくださった、イエス様に感謝いたします。
転
さて、最後に、盲人バルティマイの事が書かれています。イエス様たちはエリコまでやって来ました。エリコからエルサレムまであと25kmです。ここからはずっとエルサレムまで昇りの道となります。エルサレムの標高は800メートルですが、エリコの標高はマイナス250メートルで、世界で一番標高の低い町とも言われ、また世界で一番古い町とも言われているところです。その標高差は1000メートル以上あり、エリコからの道は急で、険しい道であり、盗賊もたくさん出たようです。小田原から、箱根旧街道を超えていくような感じだと思います。その、エリコを出て、エルサレムへ上ろうとしていたとき盲人バルティマイと出会いました。46節から48節です。
マコ 10:46 一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。
マコ 10:47 ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。
マコ 10:48 多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
イエス様がエリコの町を出るときには、いつの間にか大勢の群集が付いてきていたようです。その大勢の人たちが、イエス様と一緒にエルサレムに上ろうとしていたのです。道端で物乞いをしていたバルティマイもそのことに気がつきました。そして、その方があのナザレのイエスであり、自分の目をも癒してくださる方であると信じたのです。この盲人のバルティマイにとって、そこに居合わせたと言うことは、神様の導きであり、是を逃せばもう二度とやってこないチャンスなのです。目の見えないバルティマイは、イエス様の哀れみを受ける為に、自分の存在を示さなければなりませんでした。その方法は、ただ大きな声で叫ぶことだけだったのです。「ダビデの子よ、私を哀れんでください」と大きな声で何度も叫び続けたのです。イエス様は弟子たちや人々に教えを、歩きながら教えていました。ですから、人々はその教えが聞こえなくなるので、このバルティマイの叫びを、叱りつけて黙らせようとしましたが、ますます激しく叫び続けたのです。その叫びは、自分の運命を架けた、命がけの叫びだったのです。このような叫びや祈りを、私達は捧げたことがあったでしょうか。バルティマイは、ダビデの子よと、イエス様のことを呼びかけましたが、それは必ずしも正しい呼びかけではありませんでした。ですが、その信じる心は、そのようなことを乗り越えて、イエス様に届いたのです。
49節から52節にはこう書いてあります。
マコ 10:49 イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」
マコ 10:50 盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
マコ 10:51 イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。
マコ 10:52 そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。
バルティマイの必死の叫びは、イエス様の心を捉えました。そして、「あの男を呼んで来なさい」と言われたのです。人々が、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」と言うと、バルティマイは上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た、と書かれています。目の見えないバルティマイにとって、上着は足をもつれさすものでしかなかったのです。とにかくこのお呼びになって下さったことを、決して逃すまいと思い、上着は脱ぎ捨て、躍り上がってイエス様のところまでやってきたのです。イエス様は「何をしてほしいのか」と尋ねました。イエス様は答える前からそれを知っていますが、必ず、その人の口で告白することを求めているのです。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えました。イエス様は「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言うと、直ぐに見えるようになったのです。この癒しは、ベトサイダで、盲人を癒したときとは違います。その時は目につばをつけたり、両手をその人の上に置いたりして、段階的に癒しました。そして、この村に入ってはいけないと言われました。このバルティマイに対しては、あなたの信仰があなたを救ったと言うだけで癒しを行い、イエス様に従うこともお許しになったのです。イエス様の癒しの奇跡は、それを受ける人の信仰や、その人の心の状態によっても変わってくるのだと思います。バルティマイのように、何もかも捨てて、イエス様の救いを信じようとするものには、明快な癒しが与えられるのだと思います。私達もまた、このような純粋無垢な信仰を与えられたいと思うものであります。
結
イエス様は、ついに3回目の死と復活の予告をなさいました。それはその出来事が必ず起こることを意味していました。ヤコブとヨハネは、どのような気持ちからか、栄光をお受けになったとき、自分達をイエス様の右と左に座らせてくださいと願いました。イエス様の覚悟に対して、ヤコブとヨハネも覚悟をしたのかもしれません。自分の十字架を背負っていこうとしたのかもしれません。イエス様は、二人を怒っている弟子達に、あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい、と奉仕するものになることの大切さを教えたのです。そして、人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである、と教えられたのです。イエス様の死が、多くの人の身代金として捧げる命だと言ったのです。この御言葉に対して、私達はどのように応えることが出来るでしょうか。バルティマイの話は、何もかも投げ捨てて、ただイエス様の救いのみを信じる信仰の大切さを教えられます。もう何も無いのです。理屈ではないのです。何も知らなくても、ただ信じる純粋な信仰が、あなたの信仰があなたを救ったと言われるような、奇跡を呼び起こすのです。このような恵みと救いとを与えてくださいます、イエス様への信仰に感謝いたします。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、イエス様は三度も、死と復活の予告をされました。ですがその目的は良く分かりませんでした。ですがこの3度目に、その目的を明らかにしました。それは、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである、と言ったことでした。イエス様は、サタンに囚われて、自分が何をしているのかわからなくなっている私たちをあがないだす為に、その身代金として、御自分の命を捧げるのだと言ったのです。私達を救う為には、それ以外に方法が無かったのです。このことを私達は、今日の聖書によって教えられました。自分達の命はあがなわれた命であり、救い出された命なのです。このことを、どうか、しっかりと受け止めさせてください。そして、そのように私達を救い出してくださったイエス様に、盲人バルティマイのように、必死に願い求めれば、イエス様はそこに足を止めてくださり、その願いを聞いてくださるのです。このようなすばらしい福音を与えられた私達はいかに生きるべきでしょうか。神様、どうか私達が、心を清められ、あなたのみ心にかなう者として歩むことができますように導いてください。あなたの救いと恵みとが、多くの人々に与えられ、共に喜び、共に感謝するものでありますように。イエス様が命を捧げて、招いてくださった神の国に、どうか多くの人々と共に感謝して生きるものでありますように。
この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:マルコによる福音書)>>
◆イエス、三度自分の死と復活を予告する
マコ 10:32 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。
マコ 10:33 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。
マコ 10:34 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」
◆ヤコブとヨハネの願い
マコ 10:35 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」
マコ 10:36 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、
マコ 10:37 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
マコ 10:38 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」
マコ 10:39 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。
マコ 10:40 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
マコ 10:41 ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。
マコ 10:42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
マコ 10:43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
マコ 10:44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
マコ 10:45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
◆盲人バルティマイをいやす
マコ 10:46 一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。
マコ 10:47 ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。
マコ 10:48 多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
マコ 10:49 イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」
マコ 10:50 盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
マコ 10:51 イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。
マコ 10:52 そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。