家庭礼拝 2012年5月09日 マルコ10章1−31 金持ちの男

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イエス様の活動の地域は、主にガリラヤ湖周辺で、特にガリラヤ地方でした。そして、ガリラヤ湖の向こう岸に当たる、デカポリス地方や、ピリポの領地をも巡りました。今までは、ガリラヤ湖周辺を旅していたのです。ですが、高い山たぶんヘルモン山に登って降りられてからはずっと南下していくのです。その行き先はエルサレムです。そして今日の聖書の箇所では、ガリラヤ地方から、初めてユダヤの地方に足を踏み入れたのです。パリサイ人たちの試みにさらされながら、だんだんと迫害が現実のものになっていくのです。

そのような緊迫した状況が起こり始めている中で、今日の聖書の箇所には3つの話が語られています。それは、イエス様を試して、何とか落としいれようとする、パリサイ人らの話と、疲れの見えているイエス様を守ろうとする、弟子達の話と、イエス様をある意味で、熱狂的に支持しようとする男の人の話が書かれています。それぞれに対するイエス様の対応は、いつも不思議な落ち着きを見せています。その落ち着きはどこから来るのでしょうか。そして、周りの人たちの落ち着きの無さはどこから来るのでしょうか。それはかなり明白なのです。周りの人々の行動の本となっているものは、人間的な思いであり、それに対しイエス様の行動の本となっているのは、神様の思いなのです。神様が、そのことをどのように御覧になっているのか、その視点がいかなるときにもぶれないのです。それが不思議な落ち着きをかもし出しているのではないでしょうか。今日の箇所に貫いているのは、あなたは神のことを思わず、人のことを思っている、と言うイエス様の言葉です。

最初の10章1節にはこのように書かれています。

マコ 10:1 イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。

 イエス様たちは、カファルナウムを出発して、ガリラヤ地方を通り抜け、ユダヤ地方に来られたのです。この地を弟子達と来るのは初めてです。そしてヨルダン川の向こう側に行かれたとありますので、ヨルダン川の東側まで行ったのかもしれません。そこでも群集は集まってきて、イエス様はいつものように教えられたのです。するとファリサイ派の人々が、イエス様に議論を望んできたのです。ファリサイ派の人々は、イエス様が議論の中で、矛盾に陥ったり、答えられなくなるのを望んでいたのです。それはイエス様を訴える口実にするためでした。そしてここでは離縁することについて訊ねて、イエス様を試そうとしました。2節から9節です。

マコ 10:2 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。

マコ 10:3 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。

マコ 10:4 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。

マコ 10:5 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。

マコ 10:6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。

マコ 10:7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、

マコ 10:8 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。

マコ 10:9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」

 この離縁の質問には幾つかの問題がありました。ひとつは、この問題が聖書の中で矛盾した記述があるということです。このファリサイ派自身もこの矛盾に悩まされていたのだと思います。申命記第24章1節には離婚の規定が示されているのです。モーセの律法の離婚の規定では、ある場合には離婚してもよいと書かれているのです。そこでは、「人が妻を娶り、その夫となってから、何か恥ずべき事を見出し、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて、彼女の手に渡し、家を去らせる。」と書いてあります。この離縁状と言うのは、離婚を通告するという意味合いよりも、もうあなたは自由だから、ほかの人と結婚しても良い、と言う保証書のようなものなのです。この離縁状が無いと、ほかの人との結婚が許されないからです。そういった意味では、モーセは、離縁された女性に対して、次の新しい人生に歩む道を与えたといってもいいかもしれません。ところが、創世記第二章24節ではアダムとエバのことをさして、こう言っています。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」と書いてあり、これが結婚の精神である、神があわせたものを離してはならないという考え方になるわけです。ファリサイ派の人々はこの矛盾をイエス様に突きつけたのです。

もう一つ別の難しい問題がありました。それはヘロデ王とヘロデヤの結婚の問題でした。ヘロデヤは、もともとヘロデの異母兄弟ピリポの妻でしたが、それをヘロデ王が奪い取ったのです。それを洗礼者ヨハネは糾弾し、殺されました。そのような微妙な問題にイエス様を突き落とそうとしているのです。この離縁の質問はこのヘロデの結婚は正しいのかと言う質問とも取れるのです。答え方によっては、危険な状況となる質問です。

イエス様の答えは明快でした。イエス様は創世記の話を根拠に、「二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」と言ったのです。それが神様の御心であり律法であるといったのです。ですがイエス様は、最初に、あえて、「モーセは、あなた方になんと命じたか」と問いました。それは、彼らが、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えるのを待っていたのです。ファリサイ派の人々は、モーセが離縁することを一般的に許したと受け取っていたのです。ところがイエス様の受け止め方は、それはモーセが一般的に許したのではない、あなた達が男の権利にかたくなであるから、特別な場合に限って、譲歩したのである。律法のそもそもの教えは、一体なのだから離縁してはならないという事である、と語ったのです。そして、後で弟子達からそのことについて尋ねられたとき、イエス様は、男にしろ女にしろ離縁して他の男や女と一緒になるものは姦通の罪を犯しているのであると言って、離縁して再婚するものの罪を指摘しているのです。イエス様の結婚観と言うものは、神様が結び合わせられ、一体にされたものと言う考えですが、パリサイ人達の結婚観と言うものは、女は男の財産として、男が自由に出来る立場にあるのだ、と言う考えに立つものだったのです。そこには神様の視点は無いのです。すなわち、イエス様の言った、あなた方は神のことを思わず、人のことを思っている、と言うことになるのです。

 次の話は、子供を祝福する話です。イエス様の名が轟けば轟くほど、イエス様に手を置いてもらって、子供の祝福を願いたいと思う親は多くなりました。そしてイエス様のところに大勢つれてくるのです。ですが、弟子達は、そのイエス様が、疲れているのを心配しだしました。弟子達は、人間の自然な感情から、イエス様のことを心配し、当時あまり価値のないものとされた子供達のことなどで、イエス様が煩わされるのを好まなかったのです。それで、弟子達は、子供を連れてくる人たちを連れて来ないように叱りました。それを見て、イエス様は憤ったと書かれています。心配してくれることを感謝するどころか、憤ったのです。どうしてでしょうか。それは、パリサイ人達のときと同じなのです。人間的な思いでそれを見るのか、神様の思いでそれを見るかなのです。イエス様は憤った後、「子供達をわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と言いました。イエス様は、神の国すなわち神様が子供達を喜んで受け入れてくれるのだから、それを妨げてはならないと言っているのです。それは、子供達が神の国を素直に受け入れているからなのです。私達は、自分達が子供達よりもいつも偉いと思って、子供達を後回しにしようとしますが、神様の目からは、子供達の方が、神の国に近いと見られているのです。それは受け入れると言う点において近いのです。そして子供のように神の国を受け入れるものになりなさいといっているのです。イエス様の視点は、いつでも神様の視点で物事を見ているのです。ですから、ここでも、弟子達が良いと思って行ったことは、イエス様の言葉で言うと、あなた方は神のことを思わず、人間のことを思っているということになるのです。イエス様は、神様の御心を思って、子供達を祝福したのです。

最後は、金持ちの男の話です。17節から20節です。

マコ 10:17 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」

マコ 10:18 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。

マコ 10:19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」

マコ 10:20 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。

イエス様が旅に出ようしていた時に、ある男の人が性急に走りよってきて、ひざまずいて尋ねました。これは周りにいる人々にとっても驚きだったろうと思います。イエス様をまるで、神様のようにあがめて、そしていいました。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」この人は、何か興奮しているのです。イエス様に出会えたこと、イエス様に願えることに熱くなっており感情的になっているのです。イエス様のことを善い先生と持ち上げました。それは、新興宗教の教祖をあがめるような態度なのです。あなたが世界一すばらしい先生ですと言っているようなものなのです。そして、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか、と尋ねました。この男の人には、イエス様しか見えませんでした。イエス様が答えてくれれば、それが一番だと思っていました。イエス様は、この興奮気味の男の人を、まるで冷静にさせるかのように、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」と言って、自分よりも神様の方に心を向けるようにさせたのです。信仰が、興奮気味であったり、感情の高ぶりだったり、一人の人を崇拝するときは、それは本当の信仰から外れかかっている時かもしれません。それを本来の位置に戻すには、その心を神様の方に向けさすことなのです。信仰の基本に戻ることです。そして一番よく知られた、律法の言葉を引き合いに出し、『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ、と言いました。するとこの人は「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言いました。きっとそのとおりだったのだと思います。イエス様もその言葉を疑うことはありませんでした。イエス様自身もこの男の人の信仰にきらめくものを見出したのです。そして言いました。21節と22節です。

マコ 10:21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

マコ 10:22 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

この男の人は、自分は律法を全て、立派に守ってきた。それでも永遠の命を受け継ぐことが出来ない。それでは一体後何をすればいいのでしょうか、と言う思いで尋ねているのです。律法とは、ほとんどのことが、何々をしてはいけないと言う、禁則の言葉、否定的な言葉でなっているのです。そのことに気がつかず、自分は神様の命じることを皆守っていると思ってしまうのです。ところが、イエス様の命じられることは、何々をしなさい、なのです。肯定的な言葉なのです。互いに愛し合いなさいと言った言葉なのです。そしてここで、この男の人に言ったのは、持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい、なのです。それは天に宝を積むことになるからです。イエス様は最初に、この男の人に、あなたに欠けているものが一つある、と言いました。それは持っているものを手放すことなのです。それは、財産だけではなかったはずです。自分はこんなにも頑張っていると言う自我そのものをも手放すことをも意味していたと思うのです。ところが、財産を手放せない人が、自我を手放せるはずが無いのです。この話は、先ほどの祝福された子供達の話と対比させると際立ってくる話です。子供達はまだ財産を持っていないのです、それどころか、しがみつく自我をも持っていないのです。何も持っていない人は、神の国を受け入れることが容易なのです。ところがいろいろ持ちすぎている人は神の国に入るのが難しくなるのです。イエス様はそのことを言っているのです。イエス様に、「財産を手放して、私に従ってきなさい」といわれた男の人はどうしたでしょうか。22節から27節です。

マコ 10:22 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

マコ 10:23 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」

マコ 10:24 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。

マコ 10:25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」

マコ 10:26 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。

マコ 10:27 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」

 この男の人は、イエス様の言葉に従うことは出来ませんでした。たくさんの財産を持っていて、それを手放すことは大変な決断の要ることだったのです。この男の人の願いが真剣だっただけに、その悲しみは大きかったのです。イエス様も、この人を慈しんでいただけに、従って来れないことを残念に思っていたような気がします。いつまでもその去っていく後姿を眺めながら、弟子達と話をしているように思えるからです。そして、財産のあるものが神の国に入るのは、なんと難しいことかと、2度も繰り返して言っているのです。それは、らくだが針の穴を通るよりも難しいと言っているのです。それを聞いて、弟子達は驚きました。それでは誰が救われるのだろうかと互いに言いました。ですがイエス様は言いました。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」これは、人間に出来るか出来ないかと言う問題と考えるならば、それは出来ない。神の事を思わず、人のことを思っている限りは出来ないという事なのです。ですが、私達が神様のことを思ったとき、神様は、私達ができないことを私達に代わって、神様がやってくださるのです。神は何でも出来るのです。この金持ちの男の人も、神様に委ねれば、できたかもしれないのです。自分で捨てようとする限りは出来なかったのです。

 このような話を聞いていたペトロは、自分たちのことが心配になりました。そして尋ねたのです。28節から31節です。

マコ 10:28 ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。

マコ 10:29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、

マコ 10:30 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。

マコ 10:31 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

 ペトロは何もかも捨ててあなたに従ってまいりましたと言っていますが、これはペトロの人の善い大げさな面が出てしまいました。確かにペトロはイエス様に従ってきましたが、カファルナウムに実家はあり、その親も住んでいて、時々そこを訪問していたのですから、何もかも捨てたわけではありません。ですがイエス様は、それには答えずに、私のために家族や財産を捨てたものは、この世では、その百倍も受け取ることが出来、後の世では永遠の命を受ける、と約束されました。イエス様の教えは、多く受け取る為には、今のものを捨てなければならないと言うことなのです。今のものを捨てないでしがみついている限りは、新たなものは受け取れないのです。新たに生きようとするものは、古いものを捨て去ることが必要なのです。

 今日の三つの話は、パリサイ人の離縁の話し、神の国を受け入れる子供の話し、財産を捨てられない男の話でした。どの話を考えた場合も、人の立場で見ているのか、神様の立場で見ているのかを問われる話でした。また、自分を捨て去り、神様を受け入れているかどうかを問われるものでした。私達が問題に突き当たるのは、人間のことを思って、神様のことを考えないからであり、問題を解決するのは、人間のことを捨て去って、神様に委ねるときであることを教えられるのです。ペトロは、イエス様から、「サタン、引き下がれ。あなたは神の事を思わず、人間のことを思っている。」と叱られ、「私の後に従いたいものは、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」と言われたように、今日の話でもそれを強く思わされるのです。いつも人のことばかり考えている私達は、まさにサタンそのものであり、引き下がれと叱られてもしょうがないものだと思うのです。ですが、何とか、イエス様の慈しみに頼りながら、神様のことを考えて生きていけるように、祈って生きたいと思います。イエス様は、このような私達の為にも、十字架の上で死んでくださいました。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様。私達が多くの問題に突き当たり、解決に苦しんでいるとき、如何に人間の立場にこだわって、あなたの御心を忘れているのかを思います。あなたのみ心の立場に立てばすぐに解決することも、人間の立場にこだわって、物事をこじらせてしまいます。神様、どうか、私達が、神の御国を子供の心のように受け入れるものであり、持っているものを捨てて従ってきなさいを言われるとき、捨て去る決心が出来るものでありますように導いてください。何か問題が起こったときや、いやなことが起こったときに、自分が神様のことを思っているのか、人間のことを思っているのかを気づかせてください。そして、捨てまいとしてしがみついているのか、捨て去って受け入れようとしているのかを覚えさせてください。どうかあなたの御国が来ます様に。御心のうちに生きることが出来ますように。あなたと共にあって、多くの人々と共に平和に過ごすことが出来ますように。世の人々と苦しみ、悲しみ、喜び、励ましを共に分かち合うことが出来ますように。

私達の集う教会の上に、そして世界の多くの教会の上にあなたの祝福が豊かに与えられますように。そして、この小さな集いのうえにもあなたの祝福がありますように。

この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 


<<聖書の箇所(新約聖書:マルコによる福音書)>>

 

◆離縁について教える

マコ 10:1 イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。

マコ 10:2 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。

マコ 10:3 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。

マコ 10:4 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。

マコ 10:5 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。

マコ 10:6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。

マコ 10:7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、

マコ 10:8 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。

マコ 10:9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」

マコ 10:10 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。

マコ 10:11 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。

マコ 10:12 夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

◆子供を祝福する

マコ 10:13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。

マコ 10:14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。

マコ 10:15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

マコ 10:16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

◆金持ちの男

マコ 10:17 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」

マコ 10:18 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。

マコ 10:19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」

マコ 10:20 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。

マコ 10:21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

マコ 10:22 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

マコ 10:23 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」

マコ 10:24 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。

マコ 10:25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」

マコ 10:26 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。

マコ 10:27 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」

マコ 10:28 ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。

マコ 10:29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、

マコ 10:30 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。

マコ 10:31 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」