家庭礼拝 2012年5月02日 マルコ9章30−49 仕える者になりなさい
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起
今日の聖書の箇所は、9章後半の小さな箇所に、多くのことが集められており、ここで全体が何を言い表そうとしているのかをまとめるのがちょっと大変な箇所です。小見出しだけでも、4つあり◆再び自分の死と復活を予告する◆いちばん偉い者◆逆らわない者は味方◆罪への誘惑、と4つのブロックに分けられています。さらによく読んでみると、どうも直接関連の無い言葉が、共通の言葉を中心に集められただけのような気のする箇所があります。たとえば後半の方では「躓かせるもの」と言う言葉や、「塩」と言う言葉で共通にくくられた言葉が集められて、語られていますが、出来事の関連性があって、語られていると言うよりも、似たような言葉を集めて語られていると言う感じがするのです。この時代には、このようなイエス様の語録集があって、そのようなところから書かれたのではないかと言うような説もあります。このように、ちょっと断片的な言葉の箇所に見られるところですが、全体では何を言おうとしているかと言うと、それはイエスに従うものへの忠告、すなわち弟子となるものへの忠告といっても良いかもしれません。私達もイエスの弟子としての歩みをなそうとしているのですから、ここの箇所から、弟子としての心得、クリスチャンとして、なすべきことを聞いていきたいと思うのです。
承
イエス様たちは、ベトサイダから、カファルナウムに戻ってきました。ガリラヤ湖をぐるっと巡り、近くの異邦人の地をも巡り歩いて、イエス様たちの宣教の出発点に戻ってきたわけです。ここは、ペトロの実家のあるところです。33節に書いてある、家についてからという家は、このペトロの家ではないかと思います。イエス様たちは、高い山から降りられてからは、人々にあまり気づかれないように、ひそかに行動するようになりました。ここからのエルサレムへの道を誰にも、邪魔されないようにしているかのようです。30節から32節にはこう書いてあります。
マコ 9:30 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
マコ 9:31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。
マコ 9:32 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
イエス様たちはピリポの領地であるベトサイダから、ヘロデの領地であるガリラヤのカファルナウムまで移動しました。距離的には近いのですが、国境をはさんだ二つの町です。ですがここではイエス様は人に気づかれない様にしたというのです。イエス様は、3回死と復活の予告をしますが、その二回目の予告が、ここに書かれています。そこでは、イエス様が「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言われています。弟子達はこの言葉の意味が分からなかったし、怖くて尋ねられなかったとも書かれています。ここで語られる死と復活の予告で特徴的なのは、言葉が簡潔なことと、人々の手に渡される、と言う言葉が追加されていることです。このことを取り上げて、これは、ユダが裏切ってイエス様を引き渡すことを言っているのだ。イエス様はこの時点から、ユダの裏切りを知っていたのだ、と言う人々もいます。一方で、これは神様がイエス様を人々の手に渡されるのだ、と言う神様の計画のことを語っているのだという人々もいます。これを聞いた弟子たちにとっては、それは意味の分からない言葉であり、恐ろしい言葉だったのです。イエス様が山から下りられる時の9節にも「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた、と言うことが書かれていますが、これは予告のうちに数えられていません。もしかすると、この9節と31節は同じ場面の事を言っているのかもしれません。弟子達は、イエス様の言っている死と復活の意味が分からなかったけれども、もうじき、何かが起こるかもしれないと言う予感は持っていたようです。それで、弟子達の間には、自分達の序列についての議論が起こり始めていたのです。33節から37節です。
マコ 9:33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。
マコ 9:34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。
マコ 9:35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
マコ 9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
マコ 9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
弟子達は、自分達の中で誰が一番偉いのかということを議論していました。イエス様の王国が現れたときに、誰が一番重要人物であり、イエス様の左右に座ることになるかと言うことを心配していたわけです。この議論は、イエス様の、神の国のことも、死と復活のことも、メシアのことも全く理解していなかったことを表しています。弟子達にとって、メシアはこの世の敵を滅ぼしてくださる救い主であり、死んで復活するのもこの世のことであり、神の国とは、メシアがこの世に打ち立てる王国なのです。だから、この世の王様の左右に座るものが誰なのかを議論していたわけです。ですがイエス様のメシアは、人々の罪を負い、十字架につけられて殺される救い主であり、死んで蘇り天に昇られることであり、神の国は、この世の国とは違うものなのです。そのことを弟子達が理解するにはまだ遠い道のりがありました。
弟子達の誰が一番偉いのかという議論に対して、イエス様の答えは、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と言うことでした。弟子達が、偉い地位に着きたがったのは、権力を得て人々から仕えられるような身分になりたかったからでした。ところがイエス様の言っていることは、仕えられるものよりも仕える者になりなさい。先になるよりも人の後になり仕えることが大切であるといっているのです。それは、支配するものではなく、奉仕するものになりなさい。自分の為にするのではなく、人々の為にしなさい、と言うことなのです。実はこれと同様の内容が次の10章35節からのヤコブとヨハネの願いのところにも再び書かれており、仕えられるよりも仕えることの大切さが教えられています。
さらにイエス様は 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」と言いました。
この子供とは何を表しているでしょうか。純真さでしょうか。弱さでしょうか。子供を受け入れるとは何を意味しているのでしょうか。子供は小さく弱く、人に頼り、人から世話を受けるしかできないものです。子供は、ほかの大人の世話をすることはできません。そのように、大人に対して、要求しかすることの出来ない子供達を、私の名のために受け入れて、その要求に応えてあげなさい、と言っているのです。このような子供を受け入れるものはイエス様を受け入れたのであり、イエス様を受け入れるものはお遣わしになった神様を受け入れるのだと言いました。
すなわち、イエス様を受け入れ、神様を受け入れると言うことは、子供のように、わがままばかり言って、要求することしか出来なくて、他の人には何も力になれないような、無力な人々を受け入れ、そしてその人々に奉仕していくことだといっているのです。だから、一番先になって、仕えられる者になるのではなく、一番後になって、仕える者となっていきなさいと教えているのです。イエス様の王国では、何も出来なくて、わがままばかり言っている人々に仕えることが、一番偉い人であるということなのです。
転
次にイエス様は、敵とは誰か、味方とは誰かと言う話をしています。一般的には、味方とは自分達に従うものを言いますが、イエス様は自分達に従わなくても、敵対しないものは味方と同じであると言っています。味方と言うものの考え方を大きく広く考えています。私達は、すぐに敵か味方かの線引きをしたがり、自分達と一致しなければ、すぐに敵だとレッテルを張ってしまいます。特にキリスト教の宗教関係ではその線引きが厳しくて、ちょっとでも違うことをすると、それは異端だ、それは敵だと狭隘な考え方をしてしまいます。このような狭い考え方の為に、キリスト教はどんなに多くの罪を犯したかもしれません。自分達の教義に従わないものは悪魔の使者だとして、それを滅ぼしつくすことをやってしまったのです。十字軍の遠征や、インドの仏教の殲滅や、インカの文明の滅亡も、また自分達の内にあっては魔女狩りも、このような狭隘な、不寛容な信仰心のなせる業でした。ですが、もともとのイエス様の教えは、そんな狭いものではなかったのです。敵対しないものに対してはとても寛容だったのです。むしろそのような不寛容な考えに対し、戒める様に38節から41節の話をしています。
マコ 9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
マコ 9:39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。
マコ 9:40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。
マコ 9:41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
ここで、イエス様の考えは、逆らわないならば,それは私達の味方であるとの考えです。まだ従っていなくても、積極的に逆らわないのならば、そのうち理解して、本当の味方になってくれるのかもしれないからです。そのような人々を締め出して、敵にしてしまう必要は無いのです。日本のクリスマスは、本当のクリスマスではないと非難したり、イエスキリストを誤解しているからと言って、それであなた方は私達の敵だと言う必要は無いのです。誤解していたとしてもキリストを喜びキリストを語っているならば、心を広く持って、味方として受け入れていくことを勧めているわけです。
次の41節の一杯の水の話は、その前の敵味方の話とは直接の関係はなさそうです。イエス様の似たような考え方の言葉を集めたと考えても良いかと思います。ここでの教えは、キリストの弟子に積極的に味方して、助けるものは、報いを受けると言うことです。その助けると言うのは何か大きな助けをすることではなくて、誰にでも出来る、一杯の水を飲ませるようなことです。ですが神様はそれを覚えてくださり、報いを与えてくださるのです。
次に語られているのは信仰の弱いものを躓かせるものの罪です。42節で
マコ 9:42 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。 と語られています。
私達はイエス様が、弱い罪びとの救いの為にやって来られた事を知っています。ですから、罪を犯してしまう事自体を、イエス様が厳しく裁く方であるとは思っていません。ですが、イエス様の語っている許されない罪があります。一つは聖霊を冒涜する罪であり、もう一つはここに語られている、小さな者を躓かせる罪です。小さな者とは、まだ信仰の弱いものです。その様な者に、人間的な思いをもって躓かせるなら、それは大きな石臼を首にかけて、海に投げ込まれてしまう方が良いと言っています。意図的に人を躓かせる罪は、ほかの罪よりもずっと大きなものなのです。嘘をついて人を陥れようとしたり、自分に都合の良いように話を変えて欺いたりして、信仰の弱いものを躓かせるとしたら、それは死よりも大きな罪だと言っているのです。イエス様は、その様な信仰の弱いものを守ろうとしているのです。
もう一つの躓かせると言う教えは、それは他の人を躓かせるのではなく、自分の罪が自分を躓かせる場合のことを言っています。43節から48節までです。
マコ 9:43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。
マコ 9:45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。
マコ 9:47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。
マコ 9:48 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
大変激しい言葉で書かれています。もし、それが自分を誘惑し、自分を躓かせるものならば、それをどんな痛みをも耐え忍んで切り捨てなさいと言っているのです。これは肉体的なことだけではなく、私達の持っている悪い習慣や、悪い思いのことをも言っています。そして一番大切なものは何であるかを言っているのです。一番大切な命の為ならば、ほかの全ての躓きの原因を、痛みをこらえて投げ捨てなさいと教えています。
次は、塩と言う言葉で、二つ、または三つのことが言われています。49節と50節です。
マコ 9:49 人は皆、火で塩味を付けられる。
マコ 9:50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」
49節と50節はそれぞれ独立の言葉のようです。それにしても49節はそのままではあまり意味が通りません。火で塩味をつけるとはどういうことでしょうか。火で、塩味の付いた料理をするということでしょうか。聖書で書かれている塩には、清めや、防腐剤や、塩味の意味があります。特に、祭壇に捧げる犠牲は塩で処理され、清められたそうです。火もまた、清めると言う意味を持ちます。金属が精錬されて純粋になるように、火で熱せられて清められるのです。49節の言わんとすることは、人は皆、火のような試練によって清められ純粋になり、塩味をつけられた犠牲のように、神のみ前に捧げられると言うことを言っているのだと思います。
次に、50節の言葉は、自分自身のうちに塩を持ちなさいと言うことが言われています。塩は少ししか用いられませんが、塩に代わる調味料は無いのです。塩が無ければ、どんな贅沢な料理もつまらないものになってしまうのです。塩は防腐剤の役目もします。塩が自分のうちに無ければ、すぐに腐って食べられなくなってしまいます。ですが、料理はその材料を褒めることはあっても、味付けの塩が褒められることはありません。引き立て約なのです。ですがイエス様はそのような塩を自分自身のうちに持ちなさいと言いました。この塩とは信仰によって清められた魂です。キリストの味のする魂なのです。すなわち、自分自身のうちに塩を持つとは、イエスキリストを自分自身のうちに持つということです。そして、互いに平和に過ごしなさいといわれているのです。
結
今日の聖書の箇所ではいろいろなことが戒めとして言われています。その戒めを最後に簡単にまとめて見ます。イエス様は、ご自分が「殺されて三日の後に復活する」と予告しました。そして弟子達には、
「偉くなるのではなく、すべての人に仕える者になりなさい。」と教えられました。そして従わないものに対しては寛容でありなさい、「逆らわないものは、私達の味方なのである。」と言ったのです。一方で積極的に味方するものは、本当に小さなことであっても「報いを受ける」、と言うことを約束しました。そして、信仰の弱いものを躓かせることは死よりもはるかに大きな罪であり、自分自身の躓きの元になるものはそれが、大きな痛みを伴うことであっても取り除きなさいとも教えました。そして最後に、試練によって清められて、自分自身のうちに塩を持ちなさい。すなわち清いキリストの魂を持ちなさいと教えたのです。それは、世の中の良い塩味となって、互いに平和に暮らせるだろうと言っているのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。イエス様が教えられたのは、仕えられる者になるのではなく仕える者になりなさいということでした。それは私達の魂のうちにあなたの塩味、イエスキリストを持って行いなさいと言うことでした。それはまさに、私たちが、イエス様の教えに従って愛し合うものであることを教えられたものでした。それらは、イエス様が、御自分の死と復活を予告したすぐ後に話されたことなのです。このことを心静かに受け止めることが出来ますように。私達が仕えるのは、権力あるものに仕えるのではなく、何の力もない子供のような人々、必要を求めている人々に仕えるものであることを忘れることがありませんように。
この仕えることが、あなたを受け入れ、神様を受け入れるものであることを覚えていくことが出来ますように。私達の内に有る塩味によって、世界が平和に過ごせるようになりますように。
この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:マルコによる福音書)>>
◆再び自分の死と復活を予告する
マコ 9:30 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
マコ 9:31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。
マコ 9:32 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
◆いちばん偉い者
マコ 9:33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。
マコ 9:34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。
マコ 9:35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
マコ 9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
マコ 9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
◆逆らわない者は味方
マコ 9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
マコ 9:39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。
マコ 9:40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。
マコ 9:41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
◆罪への誘惑
マコ 9:42 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。
マコ 9:43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。
マコ 9:45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。
マコ 9:47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。
マコ 9:48 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
マコ 9:49 人は皆、火で塩味を付けられる。
マコ 9:50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」