家庭礼拝 2012年4月25日 マルコ9章2−9章29 死と復活の予告

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今日の話は、山の上での出来事と、山の下での出来事の二つが語られています。山の上ではイエス様の変貌のことが語られ、山の下ではイエスの弟子達が、その能力の無さを、律法学者や群集から、非難され窮地に陥っているのです。この話では、弟子達は二つのグループに分かれて行動していたのです。一つのグループはイエス様と共に、山の頂まで登ったペトロ、ヤコブ、ヨハネです。もう一つのグループは残りの弟子達で、彼らはイエス様が山から降りられるまでの間、山の下の村々で、癒しと宣教を行っていたのです。

なぜイエスさまは山に登られたのでしょうか。これは前章の、ペトロの信仰告白と無関係ではないでしょう。ペトロがイエス様を、あなたはメシアです、と答えたその言葉を受けて、イエス様は、いよいよその時が来たのではないかと考えたのだと思います。そしてそのことを最終確認するために、神様の居られる山の高みに少人数の弟子と共に上られ、そこで、最終確認をし、決心をして山を下りられたのだろうと思います。

イエスさまは、人類を救うような大きな出来事を前にして、自分の命を捧げる決心をされたのです。ですが山を下りられたイエスさまは、人間のつまらない意地の張り合いや、不信仰の中に入って、またいつものように、日常の勤めをなさったのです。大きな決心をなさったからと言って、日常の小さなことを忘れたわけではなかったのです。イエスさまは、人類と言う大きな救いと共に、目の前にいる一人の人の救いを同時に行える方なのです。この対比は、あまりに大きく、私達の想像を超えるものです。

さて、聖書に戻って、イエス様達はフィリポ・カイサリア地方の村々をめぐって、宣教と癒しを行っていました。その時、イエスさまは、「あなた方は私を何ものだと言うのか。」と訊ねられ、ペトロが「あなたはメシアです。」と答えられました。そして、イエスさまはそこで、御自分の死と復活について予告したのです。そのことがあってから、6日たって、イエスさまはペトロ、ヤコブ、ヨハネだけをつれて高い山に登られたのです。すると山頂付近で、イエス様の姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝いたと言うのです。そしてそこにエリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合ったと言うのです。このような変貌の出来事を信じることが出来るでしょうか。なかなか難しいことです。私がまだ信仰に入ったばかりで、日が浅い頃、この聖書の箇所を初めて読んだ時、これはブロッケンの怪光だと思いました。山登りの好きな人には有名な山の現象で、めったに起こらない高い山での現象ですが、多くの写真や証言も存在します。これは、山の中で観測者が適度の 霧の中で太陽光線に水平に近い角度で照らされた時、その反対方向に半円状の御光の 様な小さな虹ができ、その虹の中に観測者の陰影が写し出される奇妙の現象です。霧の中で、突然太陽に照らされるので、その服は突然輝いたように見え、その光は反対側の空中に浮かんだ、後光に包まれた影を作るのです。このとき影は一つしかできませんが、これを神の使いと見間違えても不思議が無いのです。

ですが、イエス様は山の中で、モーセとエリアと出会って、語り合いました。モーセは律法を代表する預言者です。エリアは預言者を代表する預言者です。ここでの三者の出会いはイエス様が旧約を完成するメシアであることを意味していると考える人々もいます。この三者は何を話していたのでしょうか。初代教会の人々は、これはイエス様がエルサレムで遂げようとする最期のことについて話し合ったのだと考えました。それはルカによる福音書9章の30節にこう書いてあるからです。「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」

弟子達は、これを見てとても驚き動転しました。聖書にはこう書いてあります。5節6節です。

マルコ 9:5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

マコ 9:6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。

 ペトロがどういえばよいのか分からなかったにしろ、どうして仮小屋を三つ建てましょうといったのでしょうか。それは、このすばらしい出来事を、ここにずっとここに留めておきたいと言う思いからではなかったでしょうか。そのすばらしい思い出の中にいつまでもとどまっていたいと言う思いだったのではないでしょうか。ですが全ては流れるように変化していくのです。雲が現れ、彼らを覆いました。聖書では雲は、神様の現臨をあらわしています。それは7節です。

マルコ 9:7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

似た様な神様の言葉を前にも聞いたことがあります。それはイエス様の洗礼のときです。1章11節に「あなたは私の愛する子、私の心にかなうもの」と言う声が天から聞こえた、と書いてあります。洗礼の時にはイエス様に語られた言葉として、山上の変貌のときは弟子達に語られた言葉として、これに聴け、と語られたのです。どうしてよいか分からないとき、イエス様に訊ねるようにと語られたのです。弟子達は辺りを見回しましたが、そこにはもう誰もいませんでした。イエス様と弟子達だけです。イエスさまは山を下りられるときに、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられましたが、弟子達はいったい復活するとはどういう意味なのだろうと論じ合ったのです。イエス様の死と復活の言及はこれで二回目です。一回目のときはペトロがイエス様をいさめた為、サタンよ退けと言われました。ですが今回は弟子達はいろいろ考えてみたのです。イエス様がメシアならば、まずエリヤが来るはずだがどうなっているのだろう、山上に現れたのがそうだったのだろうかと言う疑問がわいたのかもしれません。そしてイエス様にこう質問しました。11節から13節です。

マコ 9:11 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。

マコ 9:12 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。

マコ 9:13 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」

  ここに書いてある意味はどういうことなのでしょうか、少し分かりにくいのです。それは、弟子達の思っている先駆者エリアとメシアの現れ方が、イエス様の考えている、先駆者エリアとメシアの現れ方と全く違っているからです。弟子達も含めて、当時のユダヤ人たちは、メシアが力を持って現れる前に、先駆者エリアがやはり力を持って現れて、全てを元通りにし、その後で、力あるメシアが現れて、ユダヤの救いを完成させると言うものでした。イエスさまはそれに対し、それならどうして、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのかと問いました。メシアがそのように苦しみ辱めの中にあるとしたら、エリアもまた、苦しみ辱めの中にあるはずではないかということを言おうとしているのです。そして、エリヤは来たが人々は好きなようにあしらったのであると、言ったのです。イエス様の語るエリアとメシアは苦しみと辱めの中にあって、人々を救う救い主だったのです。そして、洗礼者ヨハネに姿を変えたエリアは既に現れ、イエス様というメシアもまた現れたのです。そのことを弟子達も、民衆も誰も理解してはいなかったのです。だから、復活するまでは誰にも言ってはいけないと言うことを、何度もおっしゃったのです。

イエス様達は山から村に帰ってこられました。村では弟子達が癒しと宣教をしていたのですが、その弟子達は、群集や律法学者達に攻められて窮地にありました。彼らは思うように癒しが出来なかったのです。ある意味で、イエス様が山に登っていて、いないことをいいことに、人々は残った弟子達をいじめていたのです。ところがそこにイエス様たちが現れたので非常に驚きました。そして群集はイエス様のところに寄ってきて挨拶をしたのです。イエスさまは訊ねました。「何を議論しているのか。」と。そうすると、群衆の中のあるものが、答えて、「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」と言ったのです。この人々は、癒すことの出来ない弟子たちを心で非難しているのです。イエスはそれに対しこう言いました。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」と言ったのです。イエス様が嘆かれた、信仰のないものたちとは誰のことなのでしょうか。癒すことの出来なかった弟子達なのでしょうか。それとも癒されないと思っている人々のことだったのでしょうか。イエスさまは、いつまで私はあなた方と共におられようか、と御自分の死の近いことを暗示されました。そしてその後その子を連れてくるように言いました。子供が連れてこられると、霊は、イエスを見て、すぐにその子を引きつけさせました。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いたのです。その時、イエスさまはこのように言ったのです。21節から24節です。

マコ 9:21 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。

マコ 9:22 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」

マコ 9:23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」

マコ 9:24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」

  この父親は、イエス様に状況を説明しましたが、弟子達がこの息子を癒すことが出来なかったことに落胆していたのです。そしてイエス様に、「おできになるなら、私どもを哀れんでお助けください。」と願ったのです。するとイエスさまは、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」と言ったのです。その時、この親は、はっと気がついたのです。それまでは、弟子達の信仰が弱いから癒せないと思って相手を非難していたのですが、自分が信じることが出来ないから、自分の信仰が弱いから癒されなかったのだと気がつかされたのです。奇跡は、癒すものにも癒されるものにもそれを願うものにも、それが叶うと言う信じる信仰がなければ奇跡は起こらないのです。そして、それに気がついたその子の父親はすぐに叫んで言いました。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」子供が癒されなかったのは、自分自身に信仰がなかったのだと気がついたこの親は必死になって、信じます、信仰の無いわたしをお助けくださいと願ったのです。イエス様のなんと信仰の無い時代なのかと嘆かれたのは、弟子達だけでなく、それを見守るもの全てもまた信仰がないことを嘆かれたのです。イエス様は、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになりました。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」と言ったのです。すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行きました。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言ったのです。ここでも人々は癒されたとは思っていないのです。ですが、イエスが手を取って起こされると、立ち上がりました。子供は癒されたのです。

この話は、願っていながら叶えられないのは、誰のせいでもなく、自分の信じる信仰が弱いからだと言うことを思わされます。その一方で、そのような弱い信仰であっても、イエス様に、信じます、信仰のないわたしをお助けくださいと、願えば、助けていただくことが出来るのだと言う救いも教えられます。私達の祈りが、いつも出来ればお救いください。御心でしたら叶えてください、と逃げ道を作ったお祈りになってはいないでしょうか。そのような私達にイエス様は出来ればと言うのかと問い詰めてくるかもしれません。私達の思いは、信仰のないわたしをお助けくださいと、必死に願うことを求められているのだと思います。 この出来事の後で、弟子達はイエス様に訊ねました。28節と29節です。

マコ 9:28 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。

マコ 9:29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。

 私達が、この物語の文脈を見る限り、弟子達があの霊を追い出せなかったのは、信仰の無い時代の信仰のない人々のせいであったと思うのです。弟子の信仰もなかったかもしれませんが、この親の信仰もなかったために癒されなかったのではなかったのでしょうか。ですが、弟子達が、なぜあの霊を追い出せなかったのでしょうかと訊ねると、イエス様は、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われました。どうしてでしょうか。それならばどうして、あんなにも信仰の無い時代を嘆かれたのでしょうか。奇跡を行うのは、人ではなく神様です。私達は、神様に願うことによって、奇跡をもたらすことが出来るのかもしれません。私達は祈ることによって、神様に近づくことが出来、願うことが出来ます。弟子達は、主の祈りを教えてはいただきましたが、まだ、聖霊に導かれて、それぞれの祈りをすることができなかったのではないでしょうか。イエス様は、この癒しの場面で、人々の信仰のないことを嘆かれましたが、その信仰は、祈りによって深くなることを言おうとしたのではないでしょうか。祈り無しで、信仰は深められず、強められず、神様の力を願うことも出来ないことを言っているのではないでしょうか。イエス様は、このようにして祈ることの大切さを私達に教えてくださっているのはないでしょうか。

 今日の聖書の箇所では、イエス様の決意が固められ、確かめられました。その時がきた事が啓示されました。モーセとエリアが現れ、雲の中から神様の声が聞こえたのです。イエス様は山に登る前と降りる時にそれぞれ、御自分の死と復活の話をなさいました。ですが、弟子達にはそれを理解できるはずもありませんでした。イエス様は、日常の生活に戻ったとき、癒しの奇跡を通して、私達に信仰の大切さ、そしてその信仰を深める祈りの大切さを教えたのです。私達にできることは祈りだけなのです。そして、その祈りを通して、神様が働いてくださるのです。それが信仰だと言っているのだと思います。もし私達に、何もやり遂げる自信が無いならば、ただ主の前に謙遜に膝まづいて、信じます、信仰のないわたしをお許しください、と願えば、主は救いを与えてくださるのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様。あなたが私達をこのように守り導いてくださいますことを感謝し賛美いたします。私達は、自分の信仰のないことを棚に上げて、いろいろと原因を外に求めるものです。ですが、本当は私達の信仰が足りないことを思います。あなたは私達の祈りを聞いて、出来ればと言うのかと、私達の目を覚まさせてくださいます。主よ、どうか信仰のないわたしたちをお許しください。私達は、本当には、どう祈れば良いのかも、どう願えば良いのかも分からないものなのです。ただあなたに、信仰の無いわたしたちを許していただいて、あなたの恵みを受け取るものなのです。主よ、どうかこのような私達を見捨てることなく、あなたの身元に置かせてください。いつまでもつたない祈りを捧げさせてください。あなたと共にいることが出来ますように。

 この世の全てのものが御名を賛美することが出来ますように。悩めるものがあなたに救いを求めることが出来ますように。豊かなものが分かち合うことが出来ますように。世界が平和でありますように。

この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


<<聖書の箇所(新約聖書:マルコによる福音書)>>

◆イエスの姿が変わる

マコ 9:2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、

マコ 9:3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。

マコ 9:4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。

マコ 9:5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

マコ 9:6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。

マコ 9:7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

マコ 9:8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。

マコ 9:9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。

マコ 9:10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。

マコ 9:11 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。

マコ 9:12 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。

マコ 9:13 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」

◆汚れた霊に取りつかれた子をいやす

マコ 9:14 一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。

マコ 9:15 群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。

マコ 9:16 イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、

マコ 9:17 群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。

マコ 9:18 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」

マコ 9:19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

マコ 9:20 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。

マコ 9:21 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。

マコ 9:22 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」

マコ 9:23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」

マコ 9:24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」

マコ 9:25 イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」

マコ 9:26 すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。

マコ 9:27 しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。

マコ 9:28 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。

マコ 9:29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。